〈女のしあわせ〉最終話
「急なんだけれどね」
その晩、美幸は敦に仕事が決まったことを報告した。まだ二週間先なので、みちるの保育園との馴染み具合を見て多少遅らせることのは可能だろうと思った。この甘い考えは、自身はずっとバリバリのキャリアウーマンで、男性社会の中で堂々と生きてきた過去によって形成されたとも言える。パートなら子供が急に熱を出したとかで、案外簡単に休みが取れるのも見てきた。
「そうか。美幸は思い立ったらすぐに行動するからなぁ。そこがいいところでもあるんだけれど。ただ、みちるのことは最優先してくれよ」
「わかってる。そのための短時間パートだし。迷惑は掛けません」
「ま、頑張れよ。嫌になったらすぐに辞めてもいいんだからな」
「ありがとう」
そう言って。敦はまたコーヒーを飲みながら新聞を読み始めた。
良かった。なんとかこれで、希望通りの最低限には到達した。今さら正社員に戻ってバリバリ仕事をするにはみちるが重荷になるし、そこでみちるをないがしろにすると夫が黙っていないだろう。もうあの頃の自分には戻れないのだということを、改めて実感するまでもなかった。
──私はこのままつまらない人生を送っていくのだろうか。
自問しても答えは出なかった。出したくなかっただけなのかも知れない。それでもみちるは日々保育園に慣れていき、美幸は問題なく予定されていた日にパートに出ることができた。
一度だけ訪れた工場の指定された場所に自分のアウディを駐車し、手袋など必要なものを入れた小ぶりのトートバッグを持って出る。多分これから一緒に仕事をするのであろう妙齢の女性が見慣れない車と美幸の方をチラチラ見てくるのがわかる。
更衣室はなく、貴重品を入れるために充てがわれた小さなロッカーに財布などを入れて鍵をする。エプロンと手袋を着用。そして朝礼をするという現場の五十代くらいの男性のもとに皆が集まった。
自己紹介でもするのかといろいろ考えてきたものの、「こちら、今日から入った吉永美幸さん。水下さん、教育係として彼女に付いてあげてください。それでは──」
美幸は何も言葉を発する機会はなく、「よろしくお願いします」の一言も言えずに、男性の話は今日の仕事の段取りに移った。そして各々が持ち場へと散っていく。
まずはその「水下」さんを探さなければ、と思って周囲を見回すと、小柄な五十代くらいの女性が美幸に声を掛けてきた。
「吉永さん? ぼさっとしてないでこっちに来て」
「あ、はい。すみません」
何故か怒られた。入ってすぐで自己紹介もなく、誰が誰かもわからないのに、何だか理不尽だと感じながらも、その女性についていく。
「あの、吉永美幸です。ご面倒をお掛けしますが、どうぞよろしくお願いします」
早足で水下を置いながら、美幸は最低限の自己紹介をした。しかし水下は「はいはい」と言っただけで、自分のことは何も言ってくれなかった。同じパートであるはずなのに、ベテランっぽいので偉い立場でも与えられているのだろうか? 教育係になるくらいだから、仕事はできる人なのだろうと想像する。
「はい、ここに立って」
「はい」
「右側から空箱が流れてくるから──」
箱に入っている紙の番号を見ながら、多くの棚で整理された商品を持って来てそこに入れる。それから左側のボタンを押して次の箱に取り掛かる。そういうことだった。
美幸はあまりのアナログ具合に驚いた。箱は自動的に流れてくるとは言え、商品は人間が持って来て入れるなんて、そんなものはすべて機械化できるのではないのかと疑いたくなる。しかも、この工程の先の方では、箱に入っている商品と、入れるべきものが書いてある紙を見比べて、人間の目で確認するというのだ。
まぁ、おかげで人間のする仕事があるわけだが、それでも無駄としか思えなかった。
することは難しくはないので、早速自分の立ち位置に来た箱の中に入っている紙を出す。三個の商品を入れるらしい。棚には「A─1」から随分広い範囲位までの記号番号が付いているため、迷うことはない。美幸はノート二冊とボールペンを持って元の立ち位置に戻った。紙と商品を入れて左側のボタンを押す。目の前の箱が流れていき、次の箱が目の前に来て止まった。
あとは同じことの繰り返しだ。中にはボールペン一本という紙もあって、あの箱の大きさで発送するなら送料の無駄だと思った。そこもきっと、人間の目で確認されるのだろうけれど。
黙々と単純作業をしていたら、学校のようなチャイムが鳴った。どうやらお昼休憩らしい。美幸は昨日の昼にみちると一緒に作ったパンを持って来ていたが、食べる場所がわからない。皆がぞろぞろと同じ場所へ集まっていくので、美幸もそれに倣った。
喫煙ルームの隣に、パートが食事をする雑多な小部屋がある。そこで弁当を開けている人やコンビニの袋を膝に置いている人がいたので、ここで弁当を食べるのだとわかった。ただ、椅子もテーブルも乱雑に置いてあるだけなので、皆の席が決まっているのか、適当に余っている椅子に座っても良いのか迷う。
ひとまず端に寄って大半の人が座るのを見る。そこでようやく美幸も手近なところにあった椅子に座り、風呂敷で包んだ手作りパンを出して食べようとした。すると、近くにいた三十代後半か四十代前半と思われる女性が甲高い声を上げる。
「うわー! 手作りパンなんですか?」
まるっきり若い子のテンションで訊かれて、美幸はおずおずと「はい……」と答える。
「すごーい。朝から作ったの?」
「いえ、昨日娘と一緒に……」
「あっ、娘さんいるんだー。だから短時間勤務なんですね」
見た目は笑顔だが、どうやらその目は美幸を品定めしているようだった。
「吉永さんでしたっけ? ご主人は何の仕事されてるんですか?」
そんなこと、ただの同じパート社員に言うことなのだろうか。しかし、コミュニケーションにはお互いを知ることも重要だと思い、「弁護士です」と正直に答えた。
「うっわー! じゃあお金持ちなんですね。外の外車、吉永さんのでしょう?」
外車、という言い方がいかにも普通の主婦だった。一般的には「輸入車」と言う。
「え、あ、はい」
「いいなぁ、別に働く必要ないじゃないですかー」
勝手に話を終わりに向かわせられたので、美幸は何も言い逃れできなかった。
夫が弁護士で外車に乗っている子持ちのお金持ち主婦。
それが初日に美幸に貼られたレッテルだった。
昼休みが終わり、再び自分の持ち場に戻る。やがて壁の時計が十五時を指したので、美幸は隣で作業していた水下に声を掛けた。
「あの、時間なので私、これで帰ってもいいですか?」
キリのいいところまで作業はした。特に間違いなどを指摘されてもいない。十五時までというのは面接時に決められたことだ。しかし水下はあからさまに顔をしかめて、「ああ、そうでしたっけねぇ」と言い、「お先にどうぞ」と言葉では言いながらも、敵視しているような視線は変わらなかった。
「すみません。失礼します」
周囲の人間にペコペコと頭を下げ、タイムカードを押してロッカーから貴重品を出す。代わりにそこに手袋とエプロンを入れて、車へと急いだ。
みちるの迎えは十七時だから、時間に余裕はある。息の詰まるような職場を抜けて、美幸はどこへともなく車を走らせた。暖かい日差しの中、少し窓を開けて空気を入れ替える。黒のパンツと白いシャツが、更衣室もなく着替えられなかったせいか、どことなく倉庫の臭いがする気がした。
再び車を見知った道に戻し、一旦自宅に帰って着替える。朝の様子を見る限り、他のお母さんたちはそんなにおしゃれをしていなかったので、美幸はスーパーの二階にあるような店でラフなワイドパンツと小花柄のブラウスを買った。
着替えた後、もう一度車を出して保育園へ向かう。十七時まで預かってもらう園児が多いせいか、その周辺の路上は、迎えの車でごったがえしていた。美幸は遠慮がちにやや離れた場所に車を置いて保育園へ向かう。
「こんにちは。吉永です」
門の前にいた保育士に声を掛けて「みちるちゃんのお母さんですか?」と訊かれる。
「はい」
「あの、保護者の方は必ず最初にお渡ししたプレートを首から下げていらしてくださいね。今日は初めてなんで見逃しますけど……」
困惑したような保育士に、美幸はしまったと思った。確かに説明会の時にもらって毎日首から下げていた。しかし今日はパート初日ということもあり、そこまで気が回らなかったのだ。
「申し訳ありません」
「みちるちゃーん。ママがお迎えだよー」
すっかり声色を変えて、保育士はみちるを呼ぶ。「はーい!」と元気良くみちるが現れた時、美幸は卒倒しそうだった。制服がドロドロのぐちゃぐちゃだ。
「え? みちる、お洋服どうしたの?」
驚いたまま訊くと、保育士が困ったように説明した。本来体操着に着替えてする遊びを、みちるは自分で服が着替えられないからと、制服のままで参加したらしい。
体操着は持ってきてあるのだから、保育士が着替えさせてくれればいいのに、と思ったが、他の子は皆自分で着替えられるのだそうだ。だからみちるだけを贔屓できなかったと。
思わず美幸は大きな溜息をついた。それを見た保育士は、まるで自分のせいではないというように述べた。
「体操着と制服くらい、おうちで着られるように練習しておいてくださいね」
それを教えるのが保育士の役目だと思っていたし、団体生活の中で一人だけ制服で遊ばせたりしたら、みちるが目立ってしまう。悪目立ちしていじめられたらどうしてくれるのかと、美幸は保育士にイラッとしながらも頭を下げてみちるの手をとった。
「みちる、帰ったらお洋服の着替え方教えてあげるわね」
「えー、ママがして」
「保育園にママはいないでしょ。何でも一人でできるようにならなきゃいけないの。もうみちるは赤ちゃんじゃないでしょう?」
「やだー、ママがやってー!」
車に乗る前に駄々をこねられては迷惑なので、早々に駐車してある場所までみちるを連れて強引に歩く。後部座席にみちると鞄を放り込み、扉を閉めてから美幸は運転席に乗り込んだ。
とにかく制服の洗濯が先だ。漂白剤をどれだけ使えばあの泥まみれの複雑な形状をした制服は元に戻るだろうか。スカートは紺色だからまだいい。しかし、ブラウスは着替えがあるとはいえ、買ったばかりの真っ白さだ。元に戻すより買った方が早いのはわかっているが、なんとか洗濯機で戻せる範囲まで頑張りたかった。ただ意地になっていただけなのだとはわかっている。
家に着くと、アウディを頭から駐車場に突っ込んで降りた。みちるを引っ張って家の中に入り、そそくさと制服を脱がせる。本当はみちるに脱がせたかったが、洗濯を急ぐあまり、ひん剥(む)くように剥(は)ぎ取った。そして用意してあった家用の服をみちるに渡し、「これを自分で着るのよ」と言い置いて洗濯機に向かった。
他の洗濯物はすべてカゴに出し、みちるの制服だけを放り込む。そして多すぎるくらいの洗剤を入れ、漂白剤を足し、柔軟剤も注いだ。家事代行業者の女性が、それくらいなら言ってくれればすぐにやると声を掛けてきたが、急ぎなので、とやんわり返して全自動のスイッチを押す。
ひとまず洗濯は三十分程度でできるようなので、みちるの元に戻ると、下着一枚のままで突っ立っていた。
「何してるの!?」
制服を脱いだままの姿に驚き、苛立ちを覚えながら強い口調で問いただす。
「みちる、自分で着れないもん」
「やってみないとわからないでしょう? ほら、シャツを取って」
「やだ。ママが着せてー」
「そんなんじゃ、保育園でお友だちについていけないわよ」
「いいもん。そしたら保育園行かない。ねぇママ、寒いから早く着せて」
正直、かつてないほどにイラッとした。相手が三歳児だということが頭からすっぽり抜けるほどに腹が立った。何なのだこの子供は。何でも母親がやって当たり前だと思って。保育園でも自分勝手に振る舞っているに違いない。いつか他の園児を傷つけたりして、その親に頭を下げなければならないような出来事がありそうな嫌な予感がする。
「自分で着れるまでそのままでいなさい! ママはみちるのお着替え係じゃないの!」
そう言い捨ててもう一度洗濯機の中を覗きに行き、すすぎの水の汚れ具合にぞっとした。みちるをお風呂に入れた方がいいかも知れない。きっと髪の中にも砂が紛れ込んでいるだろう。そんなままで布団に入られてはたまらない。
冷静になれる自信のないまま、美幸はもう一度リビングに戻る。やはりみちるは寒そうにしながらも、服を自分で着ようという意志は見えなかった。
──もう嫌だ。
夫が小さいうちは子供は母親の元で育てた方が良いと言うから、これまで我慢して何もできない、言うことを聞かない子供の相手をしてきた。記憶にはあっても、実際に産んだ覚えのない好きでもない子供のために、自分を犠牲にしてまで頑張ってきたのだ。
確かに着替えくらいは教えておくべきだったのかもしれないが、よその家庭がどのような子育てをしているのかもわからないまま、家の中で二人で閉鎖的に過ごしてきたのだ。その気になれば、家事代行の年配の女性に子育ての何たるかを享受してもらうこともできたが、夫は「よそはよそ、うちはうち」と言って否定しただろう。
それなら子育て経験もなく、子育て中の友人もいない美幸は、一体誰に頼れば良かったのか。実家の母親とは長らく連絡を取っていないし、きっと実の親に子育てを相談することさえ夫は拒んだだろう。
──それならあなたが育ててよ。
そう言いたい気持ちを抑え、順風満帆だった高給取りの独身貴族というステータスを、こんな苦労だらけの生活に変えてしまった自分が情けなかった。職場の若い子にちょっと訊かれただけで、たいそう盛った理想を語ってしまった。そんなもの、普通は叶うはずがないから何だって言えるのだ。
美幸はまったく愛情を持てない我が子の元に無言で戻り、荒々しく服を着せた。それから黙って保育園鞄に入っているプリント類を眺める。連絡帳にも目を通し、ここにも「一人で着替えがきでるようになりましょう」と書かれてあった。まったく保育士も教える気のないような、突き放した文だった。
何とか制服と体操着だけは着替えられるようになったみちるだったが、美幸の方は仕事がうまくいっていなかった。
やることは毎日同じだし、さして難しいことではない。ただ、十七時まで勤務しているパート職員の中で、自分だけが十五時で帰るのは、何日経っても申し訳なかった。これなら十七時までいるようにしようかと思ったが、子供の送り迎えを言い訳にしている以上、急に変えるのはおかしい。
昼休憩の時も、座席は特に決まっていないとわかったが、やはり自分が一番最後に空いた椅子に座ることになり、どのグループにも入れなかった。
学生じゃあるまいし、昼食の時にグループを作るというのも大人げないしと、美幸は文庫本とコンビニ弁当で一人を貫いた。
二十人程度のパート職員は、だいたいが五十代のように見えた。数名は美幸と近い年齢や、四十代半ばと思われる女性もいたが、彼女らはそれだけでグループを作っている。新しく入ってきた美幸を仲間に入れようという気はなさそうだった。まぁそんなことは別にたいしたことではない。
帰り際に視界に入る相手には丁寧に頭を下げて「お先に失礼します」と言っても、何も返ってこない。それでも礼儀は通すのが大人だし、美幸には弁護士の夫がいるという引け目がある。名前がわかっている以上、夫の顔に泥を塗るような真似はできないから、礼儀正しくおとなしい妻を装った。たとえ誰が何と思っていようとも。
そして行き帰りに車を使っていることも、やっかみの一部らしいことに最近気付いた。それが有名な高級ドイツ車であることも、嫌味に取られているようだ。
何てくだらない。自分の今の生活があるのは、たとえ〈おもいで屋〉によるものであっても、それまでの間に価値ある生き方をしてきたからだ。独身時代から収入は一般的な同年代の男性よりも多かったし、その分苦労もした。
腰掛けで正社員で働き、たいして収入もない男と結婚してあっさり定職を手放し、養育費や自分たちの生活費を考えずに野性的に子供を産んで、母親はパートに出る。それでもお金が足りないと嘆きながら。
バカバカしいにも程があると思った。美幸は何も間違ってはいない。三歳になるまで自分一人で子供を育て、仕事に出るようになっても時給以上の仕事をしようと努力している。そもそも時給が低すぎるので、普通に働いているだけでほとんどがサービスのようなものだと思っていた。
それが嫌なら辞めて他の仕事に就けばいい。大きな収入を得られる程に自分に実力があるなら、それを活かせばいい。それができないからこんな工場でちまちま働いて愚痴を零し、新人を無視するような幼稚な大人になるのだ。
「吉永さん」
弁当を食べ終わって、余った時間に文庫本を読んでいると、一人の女性職員が声を掛けてきた。
「はい?」
昼休みに何の用だろうかと首を傾げてそちらを見ると、まったく悪びれることのない態度で猫なで声を出した。
「ちょっと今日の帰りに車に乗せて行ってくれないかしらぁ? 会社で使うものの買い出しを頼まれたんだけど、自転車じゃあ危ないでしょう?」
それは暗に美幸に全部をやらせようという魂胆が丸見えだった。いくら夫の名に傷を付けたくないと言えども、パート職員の言いなりになるつもりはない。それとこれとはまったく別の話だ。
「あの、ごめんなさい。子供を迎えに行かなくちゃいけないので、帰りは無理で……」
「そうなのぉ? でも娘さんの幼稚園のお迎えって、五時じゃなかったかしら? 毎日三時に終わって、自分の時間を満喫しているだけでしょう? 私たち貧乏主婦と違って、吉永さんには余裕があるから」
みちるの幼稚園が十七時のお迎えだと、どこで知ったのだろう。そもそもみちるの通う保育園の名前を教えた覚えもない。美幸は背筋がゾッとして冷や汗が流れた。
「いえ、自宅でやることもありますし、気軽にお引き受けして迷惑を掛けるのも恐縮ですから」
美幸は何でも知っていると言わんばかりの相手の目に、ニヤついた口唇に、周囲の自分を責める空気に、吐き気がしそうだった。
「やーね。今日だけでいいのよ。それに、おうちのことはほとんどハウスキーパーさんがやってくれるじゃないの」
まるでストーカーだ。何故そこまで知っているのか。それともカマを掛けられているのか。
「ね、車出してちょうだいよ。吉永さんももっとみんなとコミュニケーションを築いた方が自分のためじゃないかしら?」
もう我慢できなかった。ここで嘔吐しなかっただけまだマシだ。
「それなら私、仕事辞めます」
勢いもあって、そう言ってしまった。すると相手は嬉しそうに「まぁ、残念」と言って、面接の時に会った男性リーダーのような相手を呼び、「吉永さん、辞めちゃうんですって。ここの職場の空気が合わないみたいで」と勝手な理由をでっち上げた。
「何ぃ? そういうことは僕に直接言ってよ。だから短時間勤務の人は続かないんだよねぇ。いいよ、じゃあ、契約は今日までね。給与は銀行振り込みだから、エプロンと手袋だけクリーニングして送って」
もう二度と来てくれるなと言わんばかりの淀みない物言いだった。
美幸は悔しかったが、何もやり返せない。夫の仕事も、みちるの保育園も、家の事情もバレているのに、これ以上反抗的な態度を取れば、何をされるかわかったものではない。
「はい……お世話になりました……」
涙が溢れないようにそれだけ言うと、荷物を整理し、午後の仕事をやってから一通りの挨拶をして工場を去った。
また仕事を探そうか。それとも、もう家にいようか。
いずれにせよ、夫に報告をしなければならない。しかしどんなふうに? 職場でいじめられたと、四十を過ぎた女が訴えるのか?
情けない思いを抱えながらアウディに乗り、普段は通らない道に入り込む。が、そこは一方通行だったことに、美幸は気付かなかった。
勢いよく曲がってきた 大型トラックが重そうな荷台を揺らして向かってくる。クラクションを鳴らされるが、自分の交通ルール違反に気付いていない美幸も負けじと鳴らし返した。お互いに運転席越しに睨み合う。
そしてお互いの車の鼻っ面から思い切り衝突した。
女のしあわせ〈了〉
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