〈女のしあわせ〉第4話
勇気を出して話そうと思ったのは、みちるが三歳の誕生日を迎えてから一週間ほど経った頃だった。一月生まれのみちるは、身体は小さいが相変わらずわがままで生意気だ。そう育てたのは自分なのかと思うといたたまれなくて、早く保育園に預けて団体生活に対応できるように矯正したかった。もう自分では無理だと思った。
「敦さん、今いい?」
比較的早く帰宅し、新聞を広げている夫に遠慮がちに声を掛ける。普段と違う美幸の様子を察したのか、夫は新聞をたたんで「どうかしたのか?」と真剣に聞いてくれる姿勢になった。
自分のわがままを通そうとしているのに、きちんと向き合ってくれる夫に申し訳なくなる。
美幸は二人分のコーヒーを淹れてテーブルに置き、夫はいつもように「ありがとう」と言って自分の分を手元に引き寄せた。
「あのね」
「うん」
なかなか言い出せないが、ここで「やっぱり何もない」とは言えない。みちるは英語アニメの映像を楽しそうに見て、一緒に踊っている。
「みちるなんだけど、そろそろ保育園に入れた方がいいんじゃないかと思うの」
「この四月からか?」
「できればそうしたいと思ってる。やっぱり同じくらいの年齢の子供とのコミュニケーションって必要だと思うの。協調性を身に付けるとか、そういう意味でも」
自分のことは棚に上げて、みちるを口実にしている自分が醜いなと思った。
「まぁそうかも知れないな。家庭内だけでは教育しきれない部分も出てくるだろうし」
意外な答えが返ってきたのには驚いたが、夫も教育に対しては同じ価値観を持っていたのだと思うと、まだ何とか救われた。
「でも今から預かってくれる保育園なんか見つかるのか?」
正論で疑問をぶつけてきた夫に対して、美幸は少し微笑んで「これ」とA4版の紙を差し出した。保育園の園児募集のチラシだ。自宅からは少し距離があるが、まだ空きがあるらしい。
「送り迎えは私がするから、相談してみようと思うの」
「そうか。それなら安心だな」
きりりとした彫りの深い顔が、少し緩んだ。これが夫の微笑み方だ。
「それで、美幸はどうするんだ?」
やはり訊かれるとは思っていた。今さら家事などできないし、美幸がしたいのはそんなことではない。
「私も少し、働きに出ようかと思うの。やっぱり私も、他の人とのコミュニケーションなんかも欲しいし」
「そうか。そっちも仕事の方は決まっているのか?」
「それはまだだけど。みちるが保育園に馴染んだら、短時間のパートにでも出ようかと思って。いいかしら? 敦さん」
心から申し訳無さそうに言う美幸に、夫はみちるの時より目に見えて豊かな笑顔を見せた。やはり私は愛されているのだな、と、他人事のように感じる。
「みちるに問題がなければいいんじゃないか? パートなら短時間勤務だろう? 送り迎えや親子のコミュニケーションに差し支えなければ、俺は構わないよ」
あくまで夫は子育てには介入しない。口とお金は出すが、最終的には「みちるのため」になることなら了承してくれる。
「それじゃあ明日にでもこの保育園に相談してみるわ。それからしばらくしたら、私も仕事を探します」
「ああ、みちるを寂しがらせないようにな。美幸も無理するんじゃないぞ。お前が働かなくても、みちるには十分なことをしてやれるだけの資産はあるんだから」
「ええ、ありがとう。無理はしないから」
「まぁ美幸は結婚するまでバリバリ働いていたからな。やっぱり働いている方が向いているのかも知れないな。確かに出会った頃は仕事が充実していると言って、本当に輝いていたし」
記憶にない思い出が、あぶり出しのように脳裏に浮かぶ。夫と初めて出会った頃は、バリバリのキャリアウーマンだった美幸。そんな美幸が眩しくて、夫は交際を申し込んできたのだった。
やはり美幸が仕事を辞め、子育てに専念するようになってからは、夫から見ても魅力が半減したような気がしていたのだろうか。それならもっと早く相談すれば良かった。しかし、まさか0歳児を預けなければならないほどの理由はないし、生まれて数年は母親が育てた方が良いという考えはブレなかっただろう。
だから今で良かったのだ。みちるも保育園に行けば集団生活から協調性を学び、わがままもマシになるかも知れない。同い年の友だちができて、家にいるより保育園の方が好きだと言うようになるかも知れない。
翌日、美幸はチラシの保育園に電話を掛けた。ちょうど三歳児のクラスに一人空きがあるとのことで、四月から預かってもらうことになった。それまでに準備しておくものをメモし、サイズを指定された手作りのバッグは代行業者に追加依頼した。
これであと二ヶ月、みちるとの二人きりの閉ざされた生活を耐えれば、働きに出られる。遊びのような仕事でもいい。時給など気にしない。この年齢で雇ってくれるのなら、何でもするつもりで、新聞広告の求人チラシを見てどのような社会の担い手が求められているのかを分析した。そうしているだけでも。随分心は軽くなった。
初めて保育園に行くという日、みちるを制服に着替えさせるのにかなり手間取った。保育園に行くことが決まってから、何かと保育園ではどんなことをするとか、きっと楽しいよと言い聞かせてきたが、やはり長らく自宅で母親と二人で気ままに遊んでいるだけのみちるだったので、思ったより人見知りするということがわかった。
自宅から自転車で三十分。初日はそうした。車が置ける環境かどうかがわからなかったし、他の子供がどんなふうに送り迎えされているのかを確認したかったのだ。
「じゃあみちる、先生の言うことをちゃんと聞いて、お友だちとも仲良くするのよ」
「やだぁ、ママも一緒がいいよぉ」
半泣きになる娘をどう置いていけばいいのかわからなかったが、そこは保育士の女性がうまくなだめてくれた。子供に好かれそうな若い女性。化粧っけのない、それでも十分にキレイな肌をした子供を持たない女性。
「じゃあ行ってらっしゃい」
何とか手を振って保育士に連れて行かれるみちるを見送って、また保育園の周囲を眺めた。いくつか軽自動車が路上駐車されているのは、保育園に送ってきた親のものだろう。短時間で車種が入れ替わる。
美幸の家には夫のメルセデスとアウディの普通車しかなかったが、短時間ならこの路上駐車の中に紛れられるだろう。送り迎えのためだけに軽自動車を買っても仕方がないし、そのまま車で出勤できるところ辺りにパート先を見つければいいと思った。
税理士補助の頃から同じ事務所で働いていた美幸は、他の職業を知らない。あの頃は事務所が駅近の便利な立地にあったので、電車通勤だった。
──これで外に出られる。
まだひと月程度はみちると保育園の相性を見なければならないが、仕事先を探すのは早くてもいいだろう。早速帰りにコンビニに寄って求人誌を買った。今どきはインターネットで探すのが普通なので、求人雑誌は一種類しか置かれていなかった。
インターネットで探せるような働き口はきっと若い子向けのものが多いだろうと思って、スマホ程度なら特別苦手なわけでもないが、迷わず紙の雑誌を手に取る。どうせ一種類しかないのだからと、内容も確認せずにレジに持っていった。レジの高校生くらいの男の子の目が、何となく笑っているような気がした。
自宅に帰って早速求人誌を開く。最初のカラーページには、特集として工場勤務の女性がクローズアップされていた。やりがい、休みのとりやすさ、給与への反映、すべてが揃っていてとても快適に仕事ができています、というテンプレート的な笑顔があった。
工場勤務とはどんな仕事なのだろうかと軽く目を通す。美幸にできない仕事ではなかったが、ライン作業なので一人だけ早い時間に抜けるというのは難しそうだった。
本文のザラザラした紙にモノクロ印刷されたページの見出しを見ていく。「アットホームで快適な職場です」「あなたの能力を最大限に引き出せます」「やる気次第で収入アップ」など、いろいろな煽り文句があったが、中でも美幸が惹かれたのは「週三日から、一日三時間程度でOK」というものだった。
これなら保育園に送り迎えをするのも問題ないし、空いた日は自分の時間に充てられる。通勤に使う車の駐車スペースもあるということだったし、年齢制限はなく、特に難しそうな仕事でもなさそうだ。内容は工場での荷詰め作業ということだった。
もちろん美幸はそんな雑用はほとんどしたことがなかったが、以前の職場で箱に荷物を詰めて先方に送るという、普通の発送業務は何度もしたし、それがメインの業務になったところでたいして重荷にはならないだろうと思った。
早速面接可能か、確認の電話をしてみる。面接にはいつ来れるかと聞かれたので、いつでも行けると答えると、では明日に、ということになった。トントン拍子で話は進んだ。
みちるが保育園に慣れてから働くつもりが、もしかすると数日中に働き始めることになるかも知れない。それはそれで構わないが、面接ではきちんとこちらの事情を話し、理解してもらった上で働きたい。
パート勤務などしたことがなかったので、正社員との区別はあまりよくわからなかったが、責任も仕事内容も軽いと思った。税理士事務所にいた頃の事務員のパートの女の子は。自由気ままにメイク直し休憩だとか、コーヒータイムだとかをとっていたので、美幸はそんな緩いパート勤務しか知らなかった。
翌日面接に行くと、ちょうど一人足りていなかったので、条件が合致すれば雇うと言われた。
「条件というと?」
美幸はやや不安な気持ちで問う。
「まぁ常識的なことが守れるということですね。失礼ですが、お子さんは?」
「います。三歳で、保育園に預けているので、夕方五時には迎えに行きたいのですが」
「えーと、吉永さんは四十二歳ですね。遅いご出産だったんですねぇ。まぁ、うちは定時が五時ですので、それでもよければ」
「はい、大丈夫です」
「何曜日に来れますか?」
「週三日でもいいんですよね? できれば火・水・木でお願いしたいんですが」
ふぅん、と面接担当者は手元の紙に何かをメモしている。
「午前十時から午後五時を火・水・木で、ということでよろしいですかね?」
えっ? と美幸は思った。求人誌には「一日三時間程度で」と書いていたはずだ。慌てて財布に入れてきた求人欄の切り抜きを見せ、「一日三時間じゃだめなんですか?」と訊いた。
「ああ、この広告を見たんですか。はぁ、仕方ないですね。それでは何時から何時までがご希望ですか?」
面接担当者は面倒そうに切り抜きを美幸に返した。きっとネット広告も出していたのだろう。そしてそちらにはこの文言を入れていないのだ。
「いえ、十時から五時でも構わないんですが……可能なら三時までくらいにしていただけると助かります」
「二時間短縮ね。こちらはいいですけど、これじゃあほとんど稼ぎにはなりませんよ?」
「はい、構いません」
所詮暇潰しのパートだ。家にこもっていても気が滅入るだけだし、夫とみちる以外の相手とコミュニケーションがしたいというのが一番の志望理由なのだ。収入など別に気にしない。
「それでは、一応契約させていただきます。印鑑はお持ち頂いていますね?」
「はい」
ここではわりと高齢の女性を多く雇っているらしく、履歴書などは不要だった。それは美幸にとってとてもありがたかった。前職は税理士で合っているようだが、寿退社して出産を経てパート勤務、というのはどこでも似たようなものなのだろう。工場での荷詰めに過去の履歴書が役に立つとも思えない。無駄がないのは良い事だ。
美幸は言われるままに書類に署名捺印し、仕事は給与の締日の関係で、二週間後から始めることになった。少しだけ仕事の様子を見学させてもらい、美幸は「これならできそう」という気持ちを強める。
作業用のゴム手袋とエプロンは貸与されるとのことだったので、動きやすい服で来るようにと念を押された。今日は面接ということで、ややフォーマルなファッションで来たせいだろう。
家のクローゼットにパンツはないから、買いに行かなければならないな、と思った。
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