〈女のしあわせ〉第3話
翌週から菅原が本格的に事務職に入り、美幸たち税理士や税理士補助たちも雑用を投げられるようになった。大手企業で出世したというわりに、菅原は腰も低く丁寧で、顧客にも喜ばれた。受付は華やかなのがいいと、女性社員を配置していたが、菅原の対応能力は非常に高く、普段は奥に引っ込んだデスクで作業しているが、受付で何か声を荒げているのが聞こえると出ていき、九十度に腰を折って約束していた担当者の不在を詫びたり、時間が押してしまった時の誘導も見事だった。
「菅原さん、めちゃめちゃ仕事できますよね」
美奈が書類を所長室に持っていった帰りに、美幸のデスク脇を通って言った。
「本当ね。まさかあそこまでは所長も期待してなかったんじゃないかしら?」
「歳が近くて酒が飲めればいい、とかって基準で選んでそうですもんね」
ふふっと二人で微笑んで、美奈は自分のデスクに戻っていく。
美幸は今さら自分で事務所を立ち上げる気持ちなど毛頭ないが、美奈は自分の事務所を持つべく、男性顔負けの勢いで働いている。本当に引き抜かれたら行ってもいいな、と思うほどには魅力的だった。
菅原の歓迎会の日、初めて〈おもいで屋〉という都市伝説を知った。若い子の間で話題なのかと思い、翌日自宅のパソコンで調べてみたら、思ったよりヒット数が少なかった。まったくないわけではなかったが、詳細はないも同然だった。
「〈おもいで屋〉さん、助けてください。僕の人生をすべて懸けます」とか「〈おもいで屋〉さんにはどこに行けば会えますか? 情報求ム!」程度で、それへの返信らしきものもない。実際に会ったというダミー情報でさえないし、どこらへんなら会えそうだとかいう推測もない。求める人間の一方通行の発信のみだった。
ネットより口コミで流行っているのだろうか? それでも今やインターネットをしない世代などないほどに浸透している中で、SNSで広まらない噂などないと思っていた。
美奈はどこでその話を聞いたのだろう。友人が多そうだから、きっとそのあたりなのだろうが、それを突き詰めて行くと最後はどこに辿り着くのか。美幸は「情報がない」という事実の方が気になった。
それに、あの時美奈に答えた自分の贅沢な理想。他の女子社員に言われて「分不相応」と悪い噂をされてもいないところを見ると、美奈にとっては本当にただの話題の一つなだけなのかも知れない。
情報がないと、その空白を埋めたくなるもので、その後の休日を美幸は〈おもいで屋〉の情報収集に使ったが、友人に電話しても、繋がりのある年下の知人に連絡しても、「知らない」「さぁ? 何それ?」と返されるだけだった。
そして一番不思議なのは、自分が何故そこまでそんな認知度の低い都市伝説に夢中になっているのかということだった。理由には思い当たる。美幸は子供がそんなに好きではない。苦手だし、赤ちゃんでさえ可愛いと思わない。友人の子供ですら、つい、よだれまみれの手を差し出さないでくれと思ってしまうほどに。
だから、万一美奈の言う通りに、〈おもいで屋〉にそのまま叶えられると困るのだ。
お金持ちの年上の男性と結婚するのは構わない。けれど、この歳になって出産など考えられないし、できれば仕事を続けたいので子供などいらないと思っている。年上の男性を許容範囲に入れたのは、そのような理由もあった。
料理や家事全般が苦手というのも本当なので、お手伝いさんを雇えるくらいの環境だったらいいなとは思った。ただ、その時間の余裕の間に、自分の趣味の時間を満喫したり、日向ぼっこをしながら読書を楽しんだり、ヨガ教室に行ったりしたいと思っている。
決して、毎日朝から晩まで子供に付きっきりで、一緒に遊ぶなどという理想はない。夫が家にいない時間は自分の自由時間だ。家のことは何もしなくてもいい上に、自分の三倍以上の収入のある相手となら、二人で旅行を楽しんだりしたい。美味しいものも食べに行ったりして、常に身体も心も豊かで満ち足りていたい。
初めから美奈の言う〈おもいで屋〉なんて信じていなかったのに、いざ情報がほとんどないとなると、途端に不安に襲われた。これならまだ、「〈おもいで屋〉は詐欺」とか「〈おもいで屋〉はどこにもいません」、「私が〈おもいで屋〉です。熟女希望」などという、アンチやなりきりの呟きを発見したほうがよかった。それなら「やっぱりただの都市伝説じゃないの」と自分を納得させられるから。
あの日から、美幸は恐怖していた。〈おもいで屋〉がどのようにそんな荒唐無稽な願いを叶えてくれるのかは知らないが、そんな魔法のようなことは起こらないと思うたびに、反対側で「あの願いが叶ったらどうしよう」という脅迫にも似た不安に脅かされる。
一度、美奈に聞いてみようと思ったことはあった。いや、一度と言わずに、機会があれば昼食時でも、帰宅時間を合わせてでも聞きたかった。しかし、そんな冗談のような話に怯えていることを伝えるのは恥ずかしいし、子供が嫌いだからその部分を取り消したいとも言えまい。
そもそも美奈は噂話を聞かせてくれただけで、美奈が願いを叶えるわけではなかろう。
美幸は既に確信してしまった。何をもってというわけではなく、自分の肌感覚で。その夢は、都合の悪い形で叶うのだろう、と。
子供の泣く声で目が覚めた。もう、またか、とベッドから身体を起こして子供用布団まで行く。添い寝をすると必ず身体のどこかを痛めてしまうから、子供がしっかり眠ったことを確認すれば、いつもすぐに自分のベッドに潜り込むため、夜中に起きられると本当に困る。こっちは眠いのに。
「はーい、大丈夫かな? みちるちゃんはおねむしないのかな〜?」
隣に横たわって娘の髪を撫でる。母親がそばに来て安心したのか、娘は泣き止んだ。
よかった、まだもう少し眠れる──。
そう思ったのもつかの間。
「ママぁ、昨日の絵本読んで」
「今はまだ夜でしょ。明日寝る時にまた続きを読んであげるから」
「やだー、今がいい」
「夜は寝る時間でしょう?」
「でもパパは起きてるもん!」
娘が正当な理由だと言わんばかりに断言する。イヤイヤ期に入った子供は、放置していても、構っていても面倒臭い。
「パパはお仕事なのよ」
「お仕事行って帰ってきたのにぃ。どうしておうちなのにお仕事なの?」
そんなこと、こちらが知りたい。仕事を持ち帰るくらいなら泊まって来いとさえ言いたくなる。
「みちるはおやすみするのがお仕事でしょ。朝までちゃあんとたくさん寝ておかなくちゃ、お昼に遊べないよ?」
「んー!」
納得の行かない様子ではあったが、ひとまず遊べなくなることの方が嫌だったらしく、布団をきちんとかぶった。鼓動に合わせて娘の肩を叩いてやる。安心したのか、すぐに寝息が聞こえてきた。これでもう、朝までおとなしくしていてくれればいい。
もう一度ベッドに戻った美幸は、頭の中で現状把握に努めた。
結婚して名字は安西から吉永になった。夫は三歳上のやり手の弁護士。自分に対しては非常にストイックで、どんなに忙しい日でもジム通いは怠らない。そのために二十四時間制のジムに登録しているのだ。
仕事を家に持ち帰ることは、情報のセキュリティの問題で許可されていないが、事務所のパソコンの電源を付けて帰れば、自宅でもリモートでコントロールできるようにしてあるらしい。コンピュータに詳しくない美幸は、「そんなこともできるのね」という反応しかできない。
日頃のトレーニングのおかげか、体調を崩すことはなく、風邪もひかない。体型もスラリとしていてお腹も出ておらず、グレーの柄入りのスーツをスマートに着こなしている。彫りの深い顔立ちのせいで、時折ハーフなのかと問われることもあった。
どこでどう記憶が繋がったのかはわからない。けれど今、安西美幸だった女性は吉永美幸と名字を変え、亭主関白な部分もあるが、基本的には優しい夫と二歳の娘・みちるの核家族になっている。
美幸はとうに税理士の仕事を辞めており、夫が保育園には預けないという理想を掲げているため、子供と一緒に遊んだり眠ったり、始終一緒だ。イヤイヤ期の二才児は何もかもが大変で、美幸は途方に暮れる。家事は代行業者が請け負ってくれていて、年配の職員などに子育てのアドバイスをもらったりして、何とかやっている。
しかし。美幸は思う。
──私はいつから母親になった?
昨日までいつも通りに事務所に通っていたような気もするし、しかし娘を生んだのは自分だという認識もある。同時に税務の知識もあって、寿退社でもしたのだろうかと不思議になった。
何より笑ってしまうのは、どこで出会ったのかもわからない男性と覚えもない結婚をして、妊娠も出産もした覚えがないのに、娘がいるということだった。同時に、三年前に結婚してすぐに妊娠し、出産したらしい、という記憶はある。税理士事務所に務めていたことなどなかったかのように思えるが、今どこかの事務所に入れば、滞りなく仕事をこなせる自信はあった。
記憶が二重になっている。しかし現実はただ一つだ。先日コンビニで弁当のついでに買った女性誌は、同じ表紙のものがマガジンラックに収納されている。年齢も多分変わっていない。初めて来るはずの家のベッドで眠り、携帯電話を見ると年月日は昨日から続いていた。
これが夢だと言い切る自信はない。夫と交際していた頃の思い出や、子供を産んだ時の写真は、物理的に存在しているし、何よりこれは美奈に問われて答えた〈おもいで屋〉への贅沢な注文そのものだった。
美奈が言っていたのを思い出す。〈おもいで屋〉は新しい人生を始めるためのコンテンツで、その人の市場価値と引き換えに、同程度の願いを叶えてくれるという。神出鬼没で、どこでどうやれば会えるのか、会ったという自覚は残るのか、詳しいことはわからない。ただ、〈おもいで屋〉には会えたとしても一生に一度だけなので、元に戻すことも新たに上書きすることもできないのだという。
美幸から奪われたものは、多分仕事と社会的なステータスだろう。貯蓄は手つかずで残っており、既に旧姓から名義変更されていた。
そうなると、昨日今日の変化ではないのだろう。少なくとも三年分の時間の流れが変わっている。それに、夫や子供の記憶はどうなっているのか。魔法でもあるまいに、突然自分の生活圏に他人が入ってくることなど、一般的にはよしとしない。
結婚前の夫とのデートの思い出もたくさんある。その反面、税理士事務所で付いた顧客や、面倒な仕事内容なども忘れていない。
「ママー」
また子供が目を覚ましたようだ。大きな溜息をつきながら、再び子供のベッドに行く。
「ママと一緒に寝たいー」
またこれか。そう思ってから、「また」というほど娘と接した覚えもないことに気付く。
「しょうがないわね。こっちへいらっしゃい」
「わぁい」
お気に入りのうさぎのぬいぐるみを持って部屋を移動する。
「じゃあもうゆっくり寝るのよ」
「はーい」
クイーンズサイズのベッドが二つ置かれている夫婦の寝室。二才児一人増えたところで寝る場所は余りに余っている。なるべく中央の方に入り、二人でくっついて眠った。
──私、子供嫌いなんだけどな……。
そう思いながらも、みちるは間違いなく自分の産んだ我が子で、これまでずっと一緒に過ごしてきた娘なのだった。
あまり眠れないまま朝が来る。隣のベッドには夫の姿はなく、そう言えばまだ夫の姿さえ見ていないなと改めて感じた。けれど、どういう顔で、声で、性格なのかは既に知っているのだ。相手がどれだけ美幸を愛してくれているのかも。
隣で静かに胸を上下させているみちるに掛け布団を掛けて、美幸はリビングに向かった。記憶が正しければ、美幸には夫に手作り弁当を作る習慣はない。朝食は買い置きのパンを夫が自分で好みに焼いて食べる。
「おはよう美幸」
既に洗顔を済ませて朝食も終え、コーヒーを飲みながらテレビで天気予報のチェックをしている夫が話しかけてきた。
美幸は、ああそうだ、こんな人だった、と他人事のように思う。
「おはよう敦さん。遅くなってごめんなさい」
何となく夫より早く起きれなかったことに罪悪感を感じて付け加えるが、夫は気にしていないようだった。
「昨夜はみちるが何度も起きていたようだからな。美幸も大変だっただろう」
「仕方ないわ、そういう時期なんでしょうし」
子育ての経験など、手伝いですらしたこともないのに、さらりとベテランの母親のような言葉が出てくる。美幸はまるで自分が自分でなくなったかのように感じていた。私ならこんなことは言わない、と思いながら、言葉と態度は裏腹に夫にも娘にも従順だ。
「じゃあそろそろ行ってくるよ。みちるのこと、よろしくな」
「はい。行ってらっしゃい。気を付けて」
コーヒーを飲み干したマグカップをシンクに置いて、夫は玄関で高価な革靴を履く。傷一つないのは夫の歩き方がキレイだからで、ピカピカに磨かれているのは帰宅後すぐに美幸が手入れをしているからだ。
「マーマ」
くたびれたうさぎのぬいぐるみを引きずりながら、みちるが寝室から出てくる。
「おはよう、みちる」
「おはようママ」
目をこすりながらもこちらにペタペタと歩いてくる。これから夫が帰宅するまで、家事などはすべて代行業者に任せて、ひたすら子供の相手をしなければならない。美幸にはそれが苦痛で仕方がなかった。
家事を代行業者がしてくれるのはいい。もともと料理一つ満足に作れなかったし、洗濯は干すのが面倒で、休みの日にわざわざコインランドリーに行って乾燥させていた。
しかし美幸にとって何より苦手で苦痛なのは、子供の相手なのだ。
子供を保育園に預けないのは、夫の方針である。
かなりエリートの弁護士である夫は当然収入にも何の不満もなく、毎日家事代行業者を呼んでも、その分美幸がみちるの面倒を見てくれるなら惜しくないと思っているのだ。子供は小学校に上がるまでは、母親の手で育てるのが一番だと言う考えを持っているらしい。
それは結婚する時の契約のようなものだったと美幸は思い出す。苦手なことはないかと訊かれ、正直に家事全般と答えた。呆れられるかと思いながらも、結婚を考えていたわけではないので自嘲的に笑った。
しかし、夫は「それなら家事代行業者を使えばいい」と言って、一人で解決してしまった。そして子供は好きかと訊かれた時、これまでの経験上、「あまり好きではない」と答えた途端に人非人のような目で見られることが多々あったので、自重して「あまり接したことがないから不慣れで怖い」という言い方をした。
すると、「じゃあ、家のことはすべて業者に任せてもいいから、きみは子供の面倒をしっかり見て欲しい。そうやって親になっていくものだから」と返された。まるで自分は子育てをしたことがあるかのように。
夫はどちらかと言うと亭主関白気味なところがあったが、子供ができてからは、朝食も自分でパンを焼いてコーヒーを淹れるようなったし、余裕があれば家族三人で出掛けたりもした。いつも娘と美幸のことを第一に考えてくれていたし、はっきり言って理想的な夫だった。
美幸のキャリアと収入は、この一見幸せな生活の代償になったのだろう。家事は放っておいても手入れの行き届いた掃除がされ、時間になれば食事が出てくる。洗濯物もわかりやすくたたんで収納されており、しかし業者の姿はあまり見ないので、気遣いなく自分の生活ができた。
──子供さえいなければ。
そう、美幸は思う。美奈の話を聞いた時に、わざわざ子供の話を付け加えたのは、子供嫌いだと言うとまた引かれそうな気がしたからだ。ただの社交辞令というか、自己防衛の手段だった。それが思わぬ形で叶ってしまった。日中は保育園にも行かない娘と一緒にままごとをしたり、知育教育として幼児向けアニメの映像を英語版で流している。
美幸も英語は話せたので、昼間は英語で会話をする日もあった。そういう意味では、夫の子育て方針に間違いはない。しかし、保育園に行かないことで、みちるには同じくらいの年齢の友だちがいない。美幸にもママ友がいない。付き合いは窮屈だろうが、多少は社交的にならないと、みちるが小学校に上がった時に困るのではないかと夫に相談したことはあったが、返ってきた応えは簡素だった。
「だったら美幸が午後にでも近くの公園に行けばいいんじゃないか?」
いわゆる公園デビューを勧められたのだった。
そんなのは無理だ、とは言えなかった。家事もせず、仕事もせず、自由気ままに穏やかな生活をさせてもらっている身分で、さらに子供の世話を放棄するようなことはとても言えないだろう。夫は昼間のみちるの様子を知らないし、知ったところで怒るわけでもないと思う。
二歳なんてイヤイヤ期なのだから、そこは実の母親がじっくり育成すべきだと考えているはずだ。それこそが、この家で美幸に与えられた唯一の〈仕事〉なのだから。
税理士をやっていた頃から収入は何不自由ない程度にあった美幸だったが、物欲があまりないので貯蓄額が増えていくだけだった。エリート弁護士の夫を持ち、自分の三倍以上を稼いでいる中、しかし何も欲しいものはない。せいぜいみちるがわがままを言ってどうにもならない時に、欲しがっているものを買い与えておとなしくさせるくらいだ。
とは言え、別に美幸も貧相な生活をしているわけではない。クローゼットを開ければ買った覚えのない高級ブランドの服が何着も吊られていて、靴も鞄も普通の主婦には手の届かないようなものが揃っている。
美幸の趣味ではなかったけれど、多分これは夫の趣味なのだろう。自分の隣に立つのは、ここに吊ってある洋服が似合う女性であるべきだと考えているのかも知れない。そして美幸は、記憶にないこれまでの間、それらの洋服がサイズアウトしないように気を遣ってきたのだろう。
疲れた。まだ一晩しか経っていないのに、この現実を突き付けられたら、前の身軽な独身貴族に戻りたいと思う。だいたいあんな願いを口にしなければ──そうは思っても、今さら遅い。美奈は言っていた。キャンセルも上書きもできないと。
それはこの先数十年、この生活が続くということだ。もちろん、娘は成長して手がかからなくなるだろう。その代わりにお金がかかるようになるのだろうが、今の夫の収入があれば問題ない。
それにしてもなんて自分はバカなんだろう。四十歳で出産するなんて、娘が成人したら自分は還暦ではないか。何がめでたいものか。しかし夫と交際している時、どうしても子供は好きではないとは言えなかった。その記憶はある。多分、それまでの恋愛の中で一番本気で愛した相手だったのだろう。結婚してもいいと思えるほどには。
夫はエリート弁護士ではあるが、継ぐべき家業は何もない。だから、生まれたのが女の子だったけれど、男の子が良かったとか、もう一人子供が欲しいとは言われていない。それだけが救いだ。そして、妊娠の記憶も出産の記憶も身体では覚えていないことも。
外に出たい、と美幸は思う。もちろん、みちるを連れて公園に行くのではなく、仕事がしたいと思った。三歳になれば保育園に預けてもいいだろう。それもみちるのためだと言えば夫は納得してくれないだろうか?
昼間に外に出られるのなら、仕事内容は問わない。できれば税理士に復帰したかったが、さすがに幼い子供を持っている女性がするには大変だ。だからみんな寿退社していったのだ。きっと自分もそうだったのだろう。
それなら別に、スーパーのレジでもコンビニの品出しでも何でもいい。体を動かすことでも、書類に目を凝らすことも苦ではない。一日中二歳児の相手をする日々から開放されるのであれば、何だってできる気がした。
問題はそれをどう夫に伝えるかだ。今朝初めて顔を合わせた相手だが、少なくとも三年間一緒に暮らしているはずの相手。美幸が仕事に出ることを良しとしないのはわかっている。今まで一度も大きな喧嘩をしたことはないが、もしかしたらこの話をすることによって関係が変わってしまうかも知れない。
〈おもいで屋〉は感情まで書き換えるのか、美幸には少なくとも夫を愛しているという気持ちはあった。娘のことも、消して憎いわけではない。ただ、自分は子供を持てる性質ではないのだと思った。向き不向きの問題だろう。
「ママぁ、はみがきー」
目が覚めてきたらしいみちるがいつものように美幸の服の裾を引っ張って洗面所に連れて行く。子供の歯磨きなんてしたこともないのに、どうしたらいいのかと思ったが、身体に染み付いているのか、案外楽にできた。それでも、美幸はこの娘を愛おしいとまでは思えなかった。
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