〈女のしあわせ〉第2話

 しばらく事務員が一人欠けた状態で仕事が続いたが、やはりもう一人いた方が効率が良いと判断されて、求人広告が出されたらしい。一週間くらいの間に何名かが面接にやってきて、最終的に男性の事務員が採用された。税務の知識はまったくない五十代の男性で、有名な大手企業を早期退職してしばらく家族孝行をしていたらしい。また働く気になったのは、経済的な問題ではなく、何もしないと身体も頭も鈍っていくことを実感したからだという。

 見た目はまだ若々しく、中年太りもしていない人受けの良い人物だった。女性差別ではないが、いつ辞められるかわからない若い女性を雇うより、年齢を見て退職を予想できる人選だ。美幸としては文句のない新入社員だったし、若い女性事務員は他にもいるので華やかさに欠けることもない。

 その新入社員の歓迎会として、夏の終りのある日に事務所の近くの行きつけの居酒屋で酒盛りをすることになった。酒飲みの遠藤と、下戸だが酒の席が好きな中西がツートップを務めているので、前時代的な歓迎会の方法がいまだに残っている。

 ちなみに辞めた女性事務員の送別会は、お腹に赤ん坊がいるということで本人が辞退してきた。本人不在での送別会が開かれそうになったが、ちょうどその頃にややこしい案件が舞い込んだことで自然消滅したのだった。

 経営者二人としては、菅原という自分たちと年齢の変わらない男性の入社を心底歓迎し、下っ端税理士の男性に「いつもの店で予約お願い」と、これまで何度も使われてきた暗黙のショートカットのように日時も決まった。

 事務所の行きつけである小ぶりな居酒屋を半分ほど貸し切り状態にし、三〜四時間飲み食いするのがいつものパターンである。馴染みだからこそ長時間貸し切りにしてくれるし、こちらも人数のわりには飲み食いのボリュームが大きいので店の邪魔にはならないのだろう。

 経営者二人ははしご酒よりも、一つところに留まってじっくり飲み食いする方が好みらしい。そこは美幸も同意見だったが、途中で抜けづらい環境になってしまうので、自分の頃合いでさりげなく席を立つ、という技を使えるようになるのは、ある程度ベテランになってからだ。若手の男性は大抵最後まで面倒を見させられることになる。

 美幸はそういう飲み会は嫌いではなかった。もともと酒には強いし、もう若い娘でもないので男性社員に絡まれることもない。お酌に気を遣うこともなければ、若い女性事務員に無理に話を合わせることもしない。

 普段から自炊はせずコンビニ弁当が主食であったりするので、一回分食費が浮いた、程度にしか考えていない。もちろん食べたいものを注文して食べ、好きなだけ飲む。美幸がそうなので、他の女子社員も事務所での飲み会は嫌いではないようだ。少なくとも美幸が参加していれば、ある程度自由は利くし、男性社員が割り込んでくることもない。

 その日も美幸は、男女の席が分かれるちょうど境にいて、片方には後輩ではあるが男性のベテラン税理士、反対側には女子会のような華やかな女性が集まった座席を構成していた。

「菅原さんの入社にカンパーイ!」

 そう言って皆で最初のビールのジョッキを合わせて飲んだ後は、まずは新入社員を立てて女性陣の質問タイム。「前はどんなお仕事されてたんですか?」から「大学生の息子さんがいるんですね〜」まで、さまざまな話題が振られる。

 菅原は案外話し好きで飲ん兵衛なようで、すぐに馴染んだ。一時間半ほど席をまたいでいろいろな相手と会話をしてからは、まず男性税理士の誰かがうたた寝を始める。他には年の近い男性同士で盛り上がり、経営者は菅原と腹を割った話をしている。

 ここで女性陣はまるっきり別グループのようになるのだ。

「安西さん、たこわさ頼んでもいいですか?」

「他にハイボールいる人いますかー?」

 そんなふうに美幸を中心にした女子会の体をなしてくる。美幸は独身であるせいか、年齢よりはかなり若く見られるし、一応最低限のマナーとしてのメイクやおしゃれはしているので、お局様扱いされることはなかった。どちらかと言うと、「頼れる先輩」に近い。

 事務員や税理士補助の女性が、恋バナやおしゃれの話題に花を咲かせる。そこで美幸も最近の若い女性の流行を知ったり、好きな俳優の話題で黄色い声を上げたりもする。潰れる率は女性の方がかなり低い職場なので、同じグループとは思えない明暗の付いた座席になるのは、宴会開始から二時間半を過ぎた頃くらいだろう。

 やり手の男性は、美幸にさっと目を合わせて軽く手を上げ、トイレに立ったまま帰宅する旨を告げる。美幸も微笑んで頷いておく。

 タイミングもあり、一人静かに日本酒を傾けていた時、税理士補助の二十八歳の女性である笹井美奈が隣の席に潜り込んできた。彼女とは案外打ち解けていて、親子には近く、姉妹には遠い年齢差がうまく良い方に転んで築いた関係だ。

「美幸さん、お疲れ様です」

「美奈ちゃん、お疲れ」

 仕事がというより、男性陣の地獄絵図を見ながら美奈は言った。よその会社だと、女性がこうなったり、上司の世話をしたりしなければいけないことが往々にしてあるが、〈遠藤・中西税理士事務所〉では比較的女性は酒に強く、お酌をしたりされたりもないので自分のペースで飲める。故にあまり酔わないのだろう。

 美奈は美幸の隣にハイボールのグラスを持って座った。

「恋バナいいです?」

 愛嬌のある大きな瞳で、まっすぐにそう言われると嫌だとは言えない。

「どうぞ」

 もう何度も聞かされた同棲中の恋人の話だろう。彼女が入社した時にも美幸は「保って五年」と判断したが、その期間はもう過ぎている。珍しく予想を外した例だった。

 美奈は同棲中の恋人と結婚したいし、相手もそう言っているが、一人前の税理士になって事務所を持ちたいという野心も持っていた。だから迂闊に妊娠などしにように気を配っているし、相手の理解ももらっているという。なかなかに根回しがうまい。

「美幸さんは結婚にはあんまり興味ないんですよね?」

 以前そんな話をしたことがあったせいか、美奈は自分の恋愛観や結婚感を押し付けはしない。その分、美幸の結婚以外のものへの執着に興味があった。

「やっぱり一度くらいは結婚しておくべきか、なんて思ったりもしたけどね」

 一度結婚というものを経験してみれば、自分に向いているかどうかがわかるだろう。子育てはどう考えても無理そうなので、結婚相手は子供好きではない相手がいい。

「独身貴族かぁ。それもいいですよね」

「でも美奈ちゃんは、今の彼と結婚するんでしょう?」

「しようとは思ってるんですけどね。それには私が早く一人前にならないと」

「仕事を辞めようとは思わないの?」

「ええーっ!? 何をもったいないこと言うんですか。税理士になりたくて勉強して試験にも受かって、やっと税理士補助として働けるようになったっていうのに、辞めるなんてありえないですよ!」

 意外だった。どうせ三十歳前後で「できちゃった婚」して退職するのだろうと思っていただけに、美奈が真剣に今の仕事を長く続けるつもりだと知って、少なからず驚いた。

「そうなんだ。いつも頑張ってるもんね」

「うちは彼氏が画家になりたいヒトなんですよ。画家ですよ? イラストレーターじゃなくって」

 なるほど、だからこそ美奈の収入で家庭を支えなければならないわけか。今どきの若者にしてはしっかりしているし、もう男女で男だけが外で働く時代ではない。家事や子育ても、別に夫がやってもいいのだ。

「あの人、私より料理うまいし、手際もいいんですよ。だから、自分の得意なことをしようって言ってるんです。私は一人前の税理士になって、自分の事務所を持つまでここは辞めませんよ」

 小鼻を膨らませて熱弁を振るう美奈を、美幸は見直した。若い女性にしては珍しく考え方が柔軟で常識的だ。当てずっぽうでもなく、しっかりと将来を見据えてものを考えている。

「美奈ちゃん、見直しちゃうなぁ。早くいい税理士さんになってね」

「私が独立する時は、美幸さんを引き抜きますからね」

 冗談ともつかない言葉を掛けられ、美幸は素直に微笑む。

 こういう考え方ができていたなら、自分だって結婚くらいはできていたかも知れないな、と思った。四十を過ぎた固い頭では、結婚すれば仕事は辞められるが、それ以上に大変な家事という仕事が待っている。出産などしようものなら、向こう二十年は子供のために投資し、教育しなければならない。自分の人生が結婚というゴールによって終わってしまうと考えていた。

「とは言え、今さらもう結婚なんて望んでも遅いわよね」

 自嘲的に言った美幸に向かって、両肩を掴んで美奈は相手をこちらに向かせた。美幸は驚いて日本酒の入った洒落たワイングラスをテーブルに置く。

「そんなことありませんよ! 仕事もできるしお金も持っているなら、料理や掃除が好きっていう非労働系男子は必ずいます! そんな相手と役割分担すれば、美幸さんだって仕事を今まで通りに続けられるし、面倒はないでしょう?」

「そんな美味しい話があればいいんだけれどね」

 懸命に仕事と結婚の両立を提案する美奈に、何故か美幸は苛立ちや鬱陶しさは感じなかった。むしろ、「そんな方法もあったな」と腑に落ちて、改めて結婚について考えそうになる。

「でも私、今の生活には満足してるのよ?」

「そうかも知れませんね。だって美幸さん、趣味も多いし友だちも多そうですもん。男に依存しなきゃ生きていけないような女じゃないのはわかります」

「あはは、依存して生きていけたら楽だけどね。性格がこんなだから、甘えられないのよ」

 それは事実だった。自分より収入の低い男をバカにしてはいないが、やはり相手がプライドを傷付けられるように感じることをしたり言ったりは、無意識にしてしまうだろう。なまじ相手がいようといまいと関係ないと思っているから、気の利いたデートプランを持って来られても苦笑いしてしまいそうだし、自分事として恋愛を捕らえられない部分もあった。

 男性と付き合ったことは年相応にあるが、いつも向こうから告白されて特に問題ないのでOKして、相手に合わせてデートなどにも出掛けたが趣味が合わなかったりセンスや価値観の相違があって、結局はフラれるような形で恋愛が終わる。それの繰り返し。そして、受け入れられて当然といわんばかりのサプライズプロポーズを断ってからは、恋愛事からは距離を置くようにしたのだ。

 恋愛ができても結婚に不向きな人間というのはいる。美幸の場合は、恋愛そのものがまず不向きだったようだ。だからと言ってお見合いでもして結婚に至るほど感覚が麻痺しているわけでもないので、今のような状態になっているのだ。

 結婚して幸せになったという話も、その後ドタバタがあって家庭崩壊を起こしたという話も、いずれも聞き及んでいる。自分のような性格では男性も反発する気持ちが出るだろうし、家事や料理に特化した男性と結婚しなければならないくらいなら、一人で十分だ。家事をやってくれる相手を養う義務より、自分一人で自由気ままに生きていきたい。

「でも美幸さん、ホントに人生変えられたらどうします?」

「人生変えられたら?」

 突然の「もしも」発言に美幸はキョトンとする。美奈は追い立てるように言葉を繋げた。

「〈おもいで屋〉っていうのが……人かな? 会社かな? まぁそういう都市伝説みたいなのがあるんですよ」

「へー。どんなの?」

 結婚から話題を逸らせるなら何でも良かったので、美幸は新しい話題に食いついたフリをする。

「今の自分の人生に不満がある人や、あの時こうしていればよかったのに、っていうことで後悔している人の前に現れて、新しくやり直せるならどんな人生がいいかって訊かれるんですって」

「それはすごい都市伝説ね」

 美幸の相槌も気にせず美奈は続ける。

「もちろんタダじゃありません。でも報酬はお金じゃないんですって。その人のこれまでの生き方や積み重ねた実績なんかを評価されて、それに見合うだけの願いなら聞いてくれるんです」

「会社みたいねぇ」

 わざと興味のないような声で答えた。しかし、それは心の片隅に引っ掛かって取れない。

「美幸さんだったら高給取りだし、身だしなみもちゃんとしてるし、人間関係も円満だから、交換材料としてはきっとものすごく高いと思いますよ!」

 そう言ってぐいっとハイボールのグラスを空にした。しかしまだ話は続く。

「千円の価値しかない紙幣で一万円のものは買えないですけど、一万円の価値の紙幣なら千円の価値のものが十個買えるわけですよ。いわゆる等価交換の法則ですね。美幸さんは、こういっちゃあアレですけど、お金はあるし、美人だし、仕事はできるし、職業も堅いから、めちゃくちゃいいものと交換できそうですよね」

 目を輝かせて笑顔を見せる美奈の無邪気さに美幸も「仕方ないな」という穏やかな気持ちにさせられて、普段なら「他人(ひと)の人生を勝手に品定めしないでくれる?」くらいの嫌味は言うところを、「若い」とは言わなかったところがただのお世辞ではなさそうだったので、にっこりと微笑みを返した。

「それなら美奈ちゃんもじゃない? 可愛いし仕事も頑張ってるし、彼が家で待ってるのに会社の付き合いの飲み会にも必ず顔を出すし」

「だって食費一回分浮くじゃないですか。私が飲み会の時は、彼氏も友だちと飲みに行ってますよ。自腹ですけどねー」

 悪戯っぽく笑いながら美奈が言うので、その恋人は余程美奈にぞっこんなのだろうと想像できた。結婚前から尻に敷かれているのかも知れない。

「もし美幸さんが〈おもいで屋〉に出会ったら、どうなりたいって答えます?」

 美奈はわくわくした表情で訊いてくる。

〈おもいで屋〉なんて聞いたこともないが、もしかしたら今の若い層では流行っている都市伝説なのかも知れない。美幸が幼い頃に流行った降霊術もどきのように、軽い気持ちでやると不幸が降りかかるというようなものでもなさそうだ。

 そう思うと、酔っ払ってはいないが、普段はなるべく控えているアルコールの勢いも手伝ってか、「そうねぇ」と真面目に考え始めた。自分にそんなに高い価値があるのなら、せっかくなら高望みをしたくなる。想像するくらいはバチも当たらないだろう。

「今の私の三倍くらいの収入のある年上の男性となら結婚するかもね。もうこんな歳だけど、何とかお金をかけてでも出産はするかしら。仕事は持たずに、大きな豪邸のような家で毎日子供と遊ぶの。私、料理とか家事が苦手だから、ハウスキーパーが雇えるくらいのお金持ちだったら楽だろうなぁ」

「へーぇ、美幸さん、わりと具体的に考えてるじゃないですかぁ」

 きゃはは、と美奈に言われて、つい話しすぎたと理解する。いい歳をした未婚女性が語るには贅沢過ぎる理想だろう。美奈はそれを笑いはしないが、美幸はどこか居心地が悪くなるのを感じた。

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