おもいで屋〜人生変えます〜

桜井直樹

〈女のしあわせ〉第1話

 また、事務所の女の子が寿退社した。

 そう言えば聞こえはいいけれど、要するに「できちゃった婚」である。結婚だけなら事務所の状況に合わせて退職の日程も変えられるのだろうが、お腹に赤ちゃんがいるとなれば、それはどう都合をつけることもできず、待ってもくれない。

 所長は「おめでたいことなんだから」と穏やかに辞表を受け取るが、その分のしわ寄せが他の社員に行くことは避けられない。辞めるのが事務員であるだけまだマシとも言えた。本職の税理士にそんな辞め方をされたら、残された方はたまったものではない。引き継ぎもろくにできずに顧客に何と言えば良いのか。

 安西美幸は心の中で溜息をつきながら、「また一人」と『番町皿屋敷』のお菊のごとく数え上げた。

 この事務所で働き始めてからはや二十年近くになる。男性であればすっかり独立して自分の事務所を構えているのだろうが、女性で野心家でもない美幸は、所長の遠藤と副所長の中西が共同で立ち上げた〈遠藤・中西税理士事務所〉で税理士補助の頃から働いていた。

 収入も一人で暮らすには十分過ぎるほどに頂戴しているし、今後家族が増える予定もない。実家の両親も、十年前に兄のところに二卵性双生児の男女が生まれてからは、おかげさまで美幸にも結婚だの出産だのとうるさく言わなくなった。仕送りさえ滞りなければ、盆や正月に帰省しなくても何も言われないのもまた、寂しいというより気楽な気持ちの方が勝っている。

 最後に男性と交際したのはいつだっただろう、と考えると、もうすっかり記憶の彼方になっていることに気付いて我ながら笑ってしまいたくなる。三十六歳の誕生日にプロポーズされたことを強烈に覚えているので間違いようがない。四十二歳の今からもう六年も昔の話だ。

 何故強烈に覚えているのかというと、あの頃はまだかろうじて流行りの隅っこにあったフラッシュモブという演出で大人数のエキストラに依頼をし、サプライズで誕生日を祝われたからだ。一人、また一人と楽器を取り出して『結婚行進曲』を演奏された。何事かと思ったら自分事だったのでひどく驚いた。

 そして楽曲の一番の盛り上がりの場面で当時の恋人が白いタキシード姿で登場し、美幸の前にひざまづいて、婚約指輪と思われるダイヤの指輪の収まったケースの蓋を開けて差し出した。

 二歳下の、さらに童顔で性格も明るく前向きな恋人だった。文句の付けどころはいまだに思い当たらない。だからきっと、相手もサプライズが成功することを疑わなかったのだろう。今思えば、その時だけでも相手を立ててあげられなかった自分が情けない。

 結婚を考えて交際していたわけではなかった美幸は、そのサプライズを妙に冷静に他者目線で見ていた。

 ──うわぁ、こういうことする人って本当にいるんだ?

 それが本音だった。だからかも知れない。美幸は差し出された指輪に喜びもせず、ましてや受け取りもしなかった。ただ開いた箱をそっと閉めて押し返し、「気持ちだけもらっておくね」と言った。相手は呆然としていた。周囲の人々も口を開けていた。こんな女が本当にいるのかとばかりにガン見された。お互い様だ。

 恋人はそれでも諦めなかった。それまでの付き合いで美幸が淡白な性格であることはわかっていたので、逆に派手な演出に引いてしまったのかも知れない、それは自分が悪い、と考えるような相手だった。ただただ「いい人」である。

「美幸さん、僕と結婚してください!」

 はっきり言葉と態度で示すしかないと判断したのだろう、そう言ってもう一度指輪の入ったケースを開けて差し出した。分相応な、シンプルなダイヤが一つ付いたプラチナの指輪。

 しかしこれを受け取るということは、彼と婚約するということだ。そんなこと、これまで考えもしなかったし、婚約すればそのまま普通は結婚に行きつくだろう。まだ結婚など考えていなかった美幸は、だから年下の相手を選んだという理由もあった。しかし甘かったようだ。男性でもある一定の年齢を過ぎると、結婚したくなるものらしい。

 一方、美幸の中には結婚のけの字も願望はなかった。むしろ生涯独身なんだろうな、と漠然と思っていた。別に特別それを望んでいたわけではない。良い機会や相手に恵まれれば結婚も悪くないと思っていた時期もあったのだが──生憎、その恋人がプロポーズした頃にはそんな時期も過ぎてしまっていたのだ。

 だから再度差し出された指輪も、改めて丁寧に押し返してしまった。「ありがとう。でも私はもらえないな」と。

 さすがにそこまで大恥をかかされて、再々度プロポーズする男性もいないだろう。周囲の協力者に丁寧に頭を下げて、最後に美幸にも頭を下げて、「ごめんなさい」と何一つ悪いこともしていないのに謝って去って行った。彼とはそれっきりだ。泥沼にならなかったのは、ひたすら相手が良かったと言うしかない。

 以降、美幸は男性とは縁がなかった。繋がりそうになったご縁も、そうなる前に避けた。一応勉強はしたのだ。

 そうして仕事一筋、プラスいくつかの地味な趣味を一人で楽しみ、今に至る。収入源さえしっかりしていれば、別に恋人や友人とベタベタした関係を築かなくても、それなりに楽しく充実した生活を遅れるものだと知った。この税理士事務所で働いてからも、もう何人の女性の寿退社を見送ってきたことか。

 男性も独立していったりして、この事務所に長くいるのは所長の遠藤と副所長の中西の次くらいの古株になってしまった。役職も〈シニアマネージャー〉の位をもらっている。もちろん収入もそれに見合うだけあるし、責任も背負っている。そして美幸はそれにまったく不満はないのだった。


「まだ結婚しないの?」

 恋人がいた頃は、友人にもよく言われていた。浅く狭い付き合いの友人は皆、その頃にまとまって結婚したり出産したりしていた。お祝いが痛いなぁ、とは思わなくても良いほどに収入はあるので助かったが、六月に三週の週末が披露宴に呼ばれたことで潰れたことにはさすがに驚いた。やはり何だかんだで「ジューンブライド」には憧れがあるのだな、と、本当に他人事のように思ったものだ。

「しないなぁ」

 美幸は乾いた笑いとともにそう答えるしかなかった。これから結婚する女性や、幸せな結婚生活の中で出産を迎える女性の前で、「結婚なんて何がいいの?」などと言うほど美幸も非常識ではないし、友人を大切にもしている。

 親の世代ならともかく、同じ世代の女性に「結婚はいいよ」などと言われると、少しはリアルに感じたりはした。が、それから随分時間を経た今、少ない友人のうち二人は離婚してシングルマザーになっている。もう一人は子供がいないままの離婚。しかし正社員の仕事がないと嘆いていた。無駄な数年間を過ごして、仕事まで失ってしまったと、かつてあんなに人前でも構わずにイチャイチャしていた友人が手のひらを返したように冷たく愚痴る。

 ──ほらね。

 美幸は心の中ではそう思う。結婚するとなると喜びで何もかもが輝いて見えるのだろうが、それは最初の数年間だけだろう。ただの恋愛だってそう長続きしないのに、一生を一人の男性に捧げて生きることのリスクは、美幸の中では非常に高い位置にあった。

 今では独身で高給取りな美幸を友人たちは羨みの目で見る。何なら彼女らの夫よりも稼いでいたりするので、余計にそう感じるのだろう。子供の習い事のためにパートに行く友人、子供の送り迎えのために車の免許をとって中古車を購入した友人、毎日接待の飲み会で電車で帰宅できない夫を迎えに行くのが当然になっている友人。

「これじゃあ私、自分のことなんて何一つできない」

 古井戸に毒を吐くように、彼女たちは美幸に愚痴を零す。心のどこかでは「どうせわからないでしょうけど」と思われていることも、美幸は経験上知っていた。だから、話を聞くだけで何もアドバイスなどしない。今さらできるアドバイスなどないし、唯一現状を変えるとしたら、過去に戻って結婚を破棄することくらいだ。もちろん、そんなことは不可能だから、美幸は少し困った顔で頷くだけ。

 結婚する頃は「結婚って最大の女のしあわせよね」とか「子育てって女にしかわからないしあわせだと思うの」などと言っていた友人を、しかし美幸は突き放したりはしない。友人の中でも幸せに長続きさせている女性もいるし、毎年年賀状と称して子供の成長の記録のような写真を送りつけられることにも慣れた。

 彼女たちの言う「女のしあわせ」は、きっと女性であることを利用して幸せになることなのだろう。それができていない美幸にはわからないが、女性であろうとなかろうと、今の美幸は十分に満足した生活ができている。

 もちろん、今の職場が女性であることなど何の武器にもならないからというのも一つの理由だろう。税理士とは言え、やはり担当になる旨を顧客に伝えると、「女性ですかぁ」と溜息をつかれることもあった。最後には満足してもらえる仕事ができるため、顧客に舐められることはなかったが、若い頃は本当に苦労した。仕事の能力もまだ付いていなかった頃は、やはりミスもしたし、それが男性だったらそこまで文句を言われることはなかっただろうというような理不尽な扱いも受けた。今のように、ちょっとしたことでセクハラだのクレーマーだのとは言えなかった時代だ。

 それでも踏ん張ったからこそ、今の美幸の地位と収入がある。仕事はいい。自分の能力が認められれば、それに見合った評価をしてもらえる。主婦のように、辛いのに値段の付かない仕事など、美幸には考えられなかった。苦労しても当たり前のように誰にも褒められず、失敗すれば責められる。

 現状の自分を、美幸は自分の努力の結果だと思っているから、理不尽に耐え、ハラスメントを受け入れ、ひたすら自分の職業的価値を上げた。

 結婚。出産。それらを捨ててまで手に入れた、安定した独身生活。不満はない。ただ、もしも別の人生を選べたとしたらどうだろうと、最近になって少し考えることが増えたのも認めざるを得ない事実だ。

 普通に一般的な男性と結婚し、愛し合った末に子供を授かり、家庭という職場とは違う場所で生きていく。そんな人生もどこかの分岐点であったのだろうかと思う。前の恋人でなくても、その後の出会いを避けなければ。積極的に受け入れていれば。こちらから歩み寄っていれば。

 そんなことを考えるのは、兄夫妻の双子の子供のうち、女の子方が言った言葉のせいかも知れない。

「おばちゃんは、どうして赤ちゃんいないの? どうして赤ちゃんのパパと結婚しないの? ちぃのイトコはおばちゃんが結婚しないとできないんだって。ちぃ、イトコ欲しいなぁ」

 どうせ母親あたりに入れ知恵されたのだろう、理解しきれていない言葉を使って、要するに血縁の子供と盆や正月に集まった時に、他の子供の家庭のように親戚一同が集まって楽しく過ごしたいというような理想をぶつけられた。

 まさか姪に出産を求められるとは驚いたものだったが、双子の相手が異性だと、やはりそこまでいつでも何でも一緒というわけではないのだろう。女児特有の、お姉さんぶりたい時期だったこともあり、親に妹か弟が欲しいと言ったところで、美幸にも子供がいればいいのにね、などという話に持っていかれたのかも知れない。大きなお世話、いい迷惑である。

 姪に美幸が子供を持つ気がないことを説明するのも面倒だし、そこは兄に話を渡したが、最初から話をまとめておいて欲しいものだ。

 職場でもう何人も寿退社する女性を見送ってきただけに、退職理由を伝える時の彼女たちが奇妙に浮足立っていることがわかるようになった。何なら入社時から、相手によっては「この子は長続きしなさそうだな」とか、「すぐに子供ができそう」ということが皮膚感覚でわかるようにさえなってきた。

 今回の事務員の女性にしても、そう接点があるわけではなかったが、前任の女性が自分が辞めるので迷惑を掛けないようにと、最小限の事務仕事くらいはできる知人として紹介していった時から何となく「保(も)って二十五歳かな」というのがぴったり当たった。

 今どき結婚適齢期も何もあったものではないが、平均的な女性の結婚年齢よりは早くに離脱しそうだと感じていた。栗色の髪を緩いいウェーブに巻いて、長めの爪の手入れもぬかりない。当然その時点で付き合っている恋人はいただろう。結婚を前提にした交際かどうかはともかく、子供が宿るのは結婚云々とは関係ないところで起きる。

 美幸の女性に対するそんなセンサーだけは、求めてもいないのに奇妙なスキルとして磨かれていった。

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