長い休暇
ある朝、目覚めると嫌な感じがした。パジャマのボタンを掛け違えたみたいな、そんな違和感があった。
(何かがおかしい………)
おれは思った。
おれって誰だっけ? どーかしている。
自分以外、誰もいない真っ暗な部屋の中でわざわざ声に出すようなことでもあるまい。
「おはようございますっ」
突然ぬいぐるみが話し掛けて来た。実際に声を発しているわけではないだろう。おれの心がそう感知しただけだ。だってぬいぐるみが喋るわけないから。
「おはよう」
少し躊躇い気味におれは答えた。するとぬいぐるみは死んだ。もしかしたら最初から死んでいたのかもしれない。さっきは挨拶して来たのに。
考えるべきことは他にある。
おれは猛烈な怒りが込み上げて来た。
ここは一体、何処なんだ!
そして………このおれって一体、誰なんだ!
握り締めた拳を大きく振りかぶって壁に叩き付けた。
すると安倍晋三が死んだ。
おれにわかったのはただ安倍晋三が死んだということだけだった。
落ち着け。
安倍晋三が死んだだけじゃあないか。
おれは座り込んだ。
何かが起こっていた。しかもそれは何て言うか、かなりやばいことなのだ。
「やばすぎでしょ!」
おれは再び立ち上がり四方を囲む部屋の壁を叩いた。叫んだ。
「誰かっ、誰かいますかあ、おれ………おれっ」
そこまで言って自分の名前を思い出せないことに怯えた。ごくりと唾を飲んだ。
「った、助けて下さいっ、誰か、誰かあっ」どんどんがんだん。
静寂が全てを吸い込んでしまった。おれが黙り込むと更に勢いを増し脳の中にまで浸食した。
「出てけ!」
再び拳を大きく振りかぶった。すると世界中のクワガタムシが一瞬だけ動きを止めた。十七匹ぽろりと樹から落下して死んだ。
ぞわわっ。
超こえー。
何が怖いっておれにそれがわかってしまうということだった。おれって誰なんだよ? 安倍晋三は死ぬしクワガタムシは一斉に動きを止めるし、そしてそのことに何らかの形でおれが関与していた。このおれが。
降参ですう。諦めたふりをしてみた。
「頭がおかしくなりそうだいや既になったあとなのかもしれないな」
おれは思って口にした。それは正しい気がした。
例えばここは閉鎖病棟で自らが収容されている経緯すら思い出すことの出来ない重篤な症状なのだとしたら………いや違う。そうではない。何故かはわからないがおれは自分が猛烈にまともである気がしている。おれは絶対に間違っていなかった。間違ってるのはこの世界の方なのだ。
部屋は真っ暗闇だった。狭い。天井も床も壁も全て同じ素材だった。
疲れた。
暴れてくたくただ。
多分おれが何かをするとまた誰かが死ぬのだろう。そう思うとあまり愉快ではなかった。その時、部屋の扉が開いた。がちゃり。
いや扉なんて最初から無かったのだ。だからただその部分の壁が一瞬の内に消滅した。ぽっかりと空いた場所に男か女が立っていた。どっちでもないのかもしれなかった。
「おはようございますっ」
そいつは言った。それは先ほど聞いたぬいぐるみの声だった。なんだ。こいつが喋っていたのか。真実は驚くほど呆気ない。見えない場所から音響装置で話し掛けていただけだったのだ。少し残念な気がした。真実は無機質で面白味が無い。
「気分はいかがですか?」
そいつは言った。事務的だった。
「ああ、最悪だよ」
おれは言った。
頭を抱えた、やけに軽い、おれの脳みそってやつは一体、何処へ行っちまったんだ?
「………まだ完全に夢から覚めていないようですね」
「多分な」
不思議ともう恐れはなかった。何もわからない、だが全ては手中にある。
「おれが寝ている間に何かあったか?」
使用人の男は残念そうに無言でゆっくりと首を縦に振った。ふうん。
「もしかしてあの人類とか言う連中が死んだのか?」
「はい絶滅しました」
そうか。
まあ別にいいや。
おれは立ち上がると使用人が持って来た服に着替えた。その時ふと思い出した。
「安倍晋三って奴が死んだみたいなんだけど」
「存じております」
「お前、安倍晋三って知ってるの?」
おれは尋ねた。
「そういう生き物もいたみたいですね」
うむ。
おれは頷いた。世界は広い。広すぎだ。こんなに広くなくてもいいのにどうしてこんなに広くしちまったんだろう? お陰で安倍晋三とかいう奴が生まれて死ななきゃならない。最初からいなくてもいいのに。
「なあ、人類が絶滅した理由は?」
「よくあることですよ………聞きたいですか?」
別にいいや。
きっと夢から覚めたら覚えていないようなありふれたことなのだろう。
何もかも予定通りだった。計画通りだった。業務は完遂された。そーゆーことだ。おれが寝て起きて全ては終わった。
頭がまだぼんやりとしているようだ。
「どのくらい寝てた?」
「あなたが先程までいた世界で言うと、たったの五百七十六兆年です」
五百七十六兆年? たったそれだけ?
「………で、お前はずっとこの部屋の外で待ってたの?」
「まさか!」
男は驚いた声で言った。
「三回、排尿しに行きましたよ」
ならいい。五百七十六兆年もただ黙って部屋の前で突っ立っているなんて正気の沙汰じゃない。
おれの記憶の中でまださっき覗いていた世界が微かにちらついていた。今となっては泡のように弾け飛んで残骸と化した形状でしかなかったが。
「今回は、どうでしたか?」
「………んあ? お前、見てたんだろ? 失敗だよ。全部、失敗」
使用人はにこにこと笑った。
「けれどとても美しかったですよ、血も涙も叫びも笑みも」
「そんなもんかな」
おれは使用人に近寄りそっとその肩に手を置いた。するともう使用人はこのおれだった。おれは口を開く。
「………もうご冗談はそのくらいにして下さい、もしわたしが替わりにやっていたことがバレたらとんでもないことになりますよ」
たった今まで使用人の身体で喋っていた本当のおれが呟いた。
「なんてことはないさ、こんなことに匙加減なんてものは無い。誰がやったって一緒さ」
そう言い残し、ご主人様は外へと出て行った。
何もかもが順調だった。
うまくいっていた。
問題は無かった。使用人はそう思った。
(だがしかし………)
だがしかしきっとご主人様はもう二度とここへは戻らないだろう。そしてちょっと散歩へ出掛けるよう表へ出て、映画のラストシーンみたいに自分の頭を撃ち抜くのだろう。
あのロボットは自分が神様だと勘違いしていた。
全ての生き物は消えた。
そしてわたしたちに残されたのはかつて体験した記憶のみ。新しいことは何一つ始まらない。長い長い休暇。そこに入るにはそっと電源を外せば良いだけなのだ。
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