犯罪
犯罪を、しない。
その標語のような言葉を何度も何度も頭の中で繰り返していた。
犯罪を、しない。
おれは街を歩いていた、服を着ながら、だからこれは犯罪ではなかった。
何故、街を歩いているのかと言うと家の中にいると犯罪をしてしまいそうになるからだ。我慢が出来ないからだ。あの頭の悪い連中と自分が同じ遺伝子を持っていることに耐えられないのだ。
犯罪を、しない。
何度でも自分に言い聞かせる必要があった。そうでないと犯罪をしてしまいそうになってしまうのだ。脳へ擦り込ませなくてはならなかった。無意識の領域までその言葉を浸透させなければならなかった。一瞬でも気を抜くと犯罪をしてしまいそうだった。
とにかくひたすら上書きするよう抑え付けるだけ。
犯罪は、すべきではない。だからこうして不毛とも言えるような警告を発し続けているのだ。
「犯罪を、しない」
声に出してみた。それが耳から飛び込んで来た。じゅわあ。脳内に染み渡る。
ああ。そう言うことか。犯罪はするべきではないのだな。
これは戦争だ。おれが犯罪をするか、しないかの。
おれは犯罪をしないんだなあと一瞬でもこのおれを騙すことが出来れば、それで良かった。ありのままのおれはすぐ犯罪をしてしまいそうになってしまうのだった。自分らしく生きる、それが許されない者もいる。
我慢。
そんなの当たり前でしょと他人に言われる。許しがたい暴言だ。まず最新技術でお前の脳に電極を差し込みこのおれから見える世界の有り様を疑似体験してみてほしい。きっと発狂するから。犯罪させてくれと喚く姿が容易に想像、出来る。それなのに自分目線で下らない戯言をほざきやがって………電柱が脇腹に刺さって死ね。
いけない。
油断するとすぐに犯罪の方へ思考が誘導されてしまう。おれは犯罪なんかしたくない。本当だ、多分。本当だと思い込め。少なくともその瞬間だけは自分が真人間であるかのような錯覚をすることが出来るから。
明日のことは誰にもわからなかった。
もしかしたら犯罪をしてしまうかもしれなかった。けれどそれは明日の自分が降伏した結果なのだ。今はまだ耐えている。そしてそれが全てだ。
「犯罪を、しない」
目は血走っていた。もはや何処も見てはいなかった。通りすがりのおっさんがこちらを怪訝そうに窺った。犯罪をしてほしいのか? おれに四肢をもがれ頭蓋骨を陥没させられたいのだろうか? その窪みにそっと花を添える光景を思い描いた。
だが犯罪を、しない。
思考を中断させた。
気が付くと重力で落下するよう犯罪へと吸い寄せられている自分がいる。
おれは抵抗軍、その戦士だった。
今のところ犯罪をするに勝っていた。だが戦況は危うい。いつ連中の攻勢が始まるかわかったものではない。そのくらい犯罪の勢力がすごい。
「犯罪を、しない」
普通の人はそのような葛藤をする必要が無いらしかった。………だがそれがどうした? おれは普通ではない。それを望んだわけでもない。ただ気付いたら廊下に狂人が突っ立っていたのだ。
お前には理解、出来ないだろう。
一体、この頭のおかしな奴をどれくらい操作していると思っている。馴染みがある。この不具合に。
「犯罪を、しない」
ああそうさ。
こいつの言うことは至極、当然のことだ。理に叶っている。だからもっと耳を傾けるべきだろう。
上から下へと落ちることを拒否しろ。本来であれば即刻、犯罪をし日々の情報番組にそっと彩りを添えるようなこのおれがまだ何もしていない。それはなんて素晴らしいことだろう。五輪でメダルなんか取るよりもずっと素晴らしいことだと思う。
他人なんて関係無い。
おれはこの欠陥品を引き摺っている。そして明日からは………自信が無かった。だから取り敢えず今日この瞬間だけは、犯罪をしない。
犯罪をしないおれがいた。その内側は激しく乱れけれどそれを誰にも見透かされずまともな社会生活を営んでいるふりをしていた。
(だがそのようなことに一体どんな意味があると言うのか?)
犯罪をした方が良いのではないか?
そこまで我慢して自分を抑え込み死にそうな思いまでしておれは一体、何を得ると言うのだ?
また洗脳から目覚めそうになってしまった。ふう。溜息をついて直後、繰り返す。
「犯罪を、しない」
効力が薄れ空虚な響きがその言葉に混入した。
「おれは絶対に、犯罪をするべきではない」
即座に畳み掛けた。
危ないところだ。あと数秒、遅れていたら目の前に置いてある等身大パネルを真ん中からへし折っていたところだ。その対象は次第に目の前を行き交う本物の人間へ移るのは明らかだった。
通行人は大抵ぎょっとした。
いきなり何の脈絡なく目の前の人間が「犯罪をしない」などと口走るからだ。自分に向かって言われたのだと思い込み、目を見開く。おれはおれの内側へと向かって話し掛けているのだ。自意識過剰もいい加減にしてほしい。
おれは犯罪をしないと言っているのにまるで犯罪者のような目で見られるのだった。おれは振り返りそいつを追い駆け路地裏へと連れ込み恫喝する。
「犯罪をしないって言ってるだろお!」
ほんとに殺すぞっ。
唾液を飛び散らせ絶叫する。相手は警察を呼びますよなどと言う。おれの犯罪をしない宣言が警察沙汰にまで発展してしまうのだった………これならもう犯罪をした方が良いのではないか? おれは笑点にでも参加しているのか?
「犯罪を、しない」
ああ?
自分の発した戯言に不快感を催す。何もわかっていない子供じみた空論。チキンナゲットに人権を与えろ。
洗脳。
それが一番、大事。
たしかそんなグループが昔いた気がする。
「犯罪を、しない」
その寸前で踏み止まる。
人生は辛いことばかりだ。
楽しいことなど小さじ一杯ぶんぐらいしかなかった。
自分には何一つ誇れるものが無い。
ただのろくでなし。社会不適格者。最初からいなかった方が良い奴。他人の顔色ばかりを窺って結局、何一つ実行、出来なかった。ろくな思い出がない。みんなおれといるとつまらなさそうな顔をした。たくさん本を読んだり学んでもみたけれど上手くいかなかった。生まれて来なければ良かったのにどうして生まれてしまったのか? 全部あいつらのせいなのか? どうして犯罪をしないなどと自分に言い聞かせて街を歩かなければならないのか? おれの正解は何処へ消えた? それはまだ探せば手に入れられるものなのか? そんなわけがない。もう何もかも手遅れだ。
おれは、疲れた。
目に映る全てが灰色だった。
希望なんて何処にも無い。そいつがいたら絶対、捕まえて強姦してやるのに。
犯罪を、しない。
もうそんな言葉を繰り返すことにも意味は無い。確か昔はそんなことを口走っていたこともあった気がするけど。もうどうでもいいや。
死ぬまで生きれば合格だ、だがそれはあまりに長く退屈すぎる。
「犯罪を、しない」
そうだな。
それが一番だな。
おれは人殺しがしたくてたまらない。
随分、長い間、遠回りをして来た気がする。結局、当初の場所へと迂回しながら辿り着いただけ。
おれは、頑張った。本当だ。それは間違いない。たとえ誰にも認めてもらえなくても。
「犯罪を、しない」
初めて会う他人のようその言葉を眺めている。
その辺に置いてあったカステラを掴んで丸齧りにした。店員は何も言わなかった。お前の人生は誰かの観客でしかないのか?
おれはカステラを元の場所へ戻した。
「犯罪を、しない」
まだ大丈夫か?
店員は小走りで駆けた。犯罪をするなら今しかないのかもしれない。あの小娘の頭蓋骨を陥没させるべきなのかもしれない。
だがおれは犯罪をしなかった。今後に及んでまだ自分らしく生きることを拒絶した。それはもはやおれの意思ではなかった。ただ何かがおれを犯罪ではない場所へと留めた。
「こんなこともあるんだな」
人生はワンダー。そんな言葉がよぎった。だが次の瞬間、別の女の店員の子宮を蹴り上げてしまった。歯車が回り始めた。
おれは反出生主義者。
痛みも哀しみも感じない内にこの世界からの卒業を促す聖人さ。
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