第31話 波立つ湖

「ねえユリィ」

「うん?」


 大きく腕を上げて、伸びをしながらユリィは答えた。まるで長い眠りについていたかのように、体の感覚を確かめている。


 太陽の位置があまり変わっていないので、それ程時間が経っていないとはユリィはわかっていた。けれどユリィの体は、数刻前とは明確に変わっていた。全身に漲っていた不思議な力はもうない。自分の腕の現実的な重さに加えて、大気の重さすら両肩にのし掛かって感じた。


「僕の初恋は7歳のとき、相手はユリィなんだけど」

「えっ……え?」


 ジェイクの突拍子もない語り出しにユリィはきょろきょろと、ジェイクの背後にいるエズリやヴェプナーの姿を見やる。エズリはもう遠慮のない、興味深そうな視線を二人に注いでいた。ジェイクは構わず続ける。


「それから何度も何度も、繰り返し好きになってる。僕はユリィが思ってるより、ずっとユリィのことを知ってる。その上でちゃんと好きだから」


 ジェイクは気持ちを口に出してみて、初めて自分で理解した気がした。空を映す湖は微風に揺れ、幾何学的な波紋を広げている。その風が頬を撫でて、髪の隙間を通り抜けいった。急に視界が広がったように、鮮明に景色が見えた。


「ユリィはそのままでいいよ」

「そのままって……いつの時点のそのまま?」

「ユリィの望む、そのまま」


 困ったように少し眉を下げるユリィに、ジェイクは短く答えた。そして服の下にいつも身につけていたネックレスを取り出す。ユリィが創り上げた魔力の込められたお守りで、ジェイクを守ってきたものだった。


「僕はもう、ユリィが思う程弱くない。守ってもらわなくて大丈夫。だから、これはユリィが着けて。僕は大丈夫だから」

「だめ、それはだめ。ジェイクが着けてて。私にはもう創れないから」


 赤い結晶のお守りを差し出すとユリィは激しくうろたえて立ち上がり、後ろに数歩下がった。


「ユリィ、僕はユリィが心配なんだよ」

「それは私もそう。だから、だめだってば……ジェイク。私、また制御できなくなりそうだから」


 後ろ向きに逃げようとするユリィにはジェイクはすぐ追い付いた。ユリィの細い手首をしっかりと握る。振りほどこうとしたユリィの顔に焦りが浮かんだ。きっと今までと感覚が違うのだろうとジェイクは力を緩めた。


「もう大丈夫なんだ。ユリィは無理して普通にならなくていいよ。それに、僕は自由な、そのままのユリィが好きだから」

「ど、どういうこと……」


 じわじわとユリィの顔が赤く染まっていく。


「だからさ、もう一回言うけど、ユリィのことずっと見てきて、その上で本当に好きだから。結婚するからって無理して普通になろうとしなくてもいいよ」

「……大丈夫なの?」


 大きな瞳を潤ませて、ユリィは問う。


「エズリも協力してくれたから、もう大丈夫。力が溢れすぎることはないよ。ユリィなら出来るから。もし心配なら僕が出来ること何でもする。僕は絶対にユリィの味方だから」

「……ありがとう」


 ジェイクがお守りを手渡そうとすると、烈しい光が迸った。それは二人の体を包み、吸い込まれるように溶け消える。ユリィは手を開いたり握ったりしながら、小さく息を吐いた。


「もう、ジェイクがそれを返そうとするから魔力、戻っちゃったじゃない。もうちょっと普通の女の子でいたかったんだけど」

「嫌?」

「ジェイクを押し倒せるから、嫌じゃない」


 これは照れ隠しだなとジェイクは笑った。ユリィは恥ずかしいとき、めちゃくちゃな冗談を言う。


「冗談もいいけど、これからは僕も何でも話すから、ユリィも本当の気持ちを教えて。少しずつでいいから」

「うん……本当は、ジェイクが受け入れてくれて、嬉しい。急に弱くなるのは不安だったから」

「しばらく表向きには隠しておくのもいいかもね」

「確かに」


 光が差しこんで、ユリィの瞳が耀いた。活動的で、情熱的な彼女らしい表情だ。すぐ近くに生まれ、長い年月を共に育ったというのに、考え方や感じ方がまるで違う。だからこそ好きなんだと感じ入る。


 これから更に長いときを重ねても本質的な理解には至らないかもしれない。それでも、ただ彼女を愛そうとジェイクは誓った。


 なぜユリィに恋愛感情を求めたのか、ようやくわかった。自身が傷つきたくなかったからだ。いつかユリィに本当に好きな人が現れて、去られてしまったら。そんな恐れで、臆病者として心を固めてきた。自分は弱いから、などと数多の言い訳を用意して、曖昧に振る舞ってきた。迷惑だと言われたらそれまでだが、傷つこうが構わず伝えれば良かったのだ。


「ユリィ、今までごめん」

「何が?」

「もっと早くちゃんと言えば良かった。好きだって。それに僕だってユリィを守りたいし、いつもかわいいと思ってるし」

「も、もういいから!」


 手で口を塞がれて、ジェイクは黙った。ユリィは耳まで赤くしている。背後からエズリの押し殺した笑い声と、ヴェプナーの地響きのような唸り声が聞こえた。


「ははは……初々しい愛だね!美しい」


 エズリは朗らかに称賛した。


「君たちはもう心配いらないようだ。どうか仲良くやって欲しい。私ももう人間の諍いに巻き込まれて封印されたくないから」

「そうですね。これからどうするんですか?」


 ユリィが尋ねた。


「私がユリィに解放されたのも神の思し召しだろう。これからは、私なりに迷う人々を導けるよう努めるよ。以前の私は怠けて我が子を放置してばかりだったから」


 笑って軽く言うエズリにジェイクは何と言うべきかわからない。ヴェプナーの、黒い鱗に覆われた赤い瞳を見た。物言わぬ黒い竜は静かに寄り添っている。


 人間の始祖であるエズリが封じられたのは、遥か昔のとある男が、自らの子を、自分に似ていないと殺めたからだとジェイクは古い本で読んだことがあった。相手の不貞を疑い、憎しみの果ての行為だ。現在でも似たようなことがないとは言い切れない。


「この国の王にでも会いに行こうかなあ、人を導くにはそれが早いから」


 エズリのオーロラのような瞳がちらっとジェイクに向いた。


「……お望みでしたら、王陛下をここに呼んできましょうか?」

「ううん、大変そうだから私が行く。でもその前にもう少し現代のことを学んでからにするよ。ジェイク、教えてくれるかな?」

「はい」


 まずは服くらい着た方がいいだろうなとジェイクは思った。色彩の咲き乱れる長い髪で大体は隠れているが、エズリは服を着ていない。高山の頂上にある、湖のほとりのこの場所なら神秘的だが、王城にはそぐわないだろう。威厳のある服を誰かに作ってもらおうとジェイクは決めた。ユリィも控えめに苦笑している。


「しばらくはここにいるよ。ユリィとジェイクは面白いから、私もまだまだ話したいことがある」


 艶やかなヴェプナーの黒い鱗を撫でて、エズリは片目を瞑った。そんな仕草をするエズリが意外で、二人して目を見合わせた。

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