第30話 目覚めてから

「うっ……」


 ジェイクはしきりに頬を舐められる感触で目を覚ました。眼前に、ミルのしっとりした黒い鼻先があった。起こしてくれたらしい。まだ舐めようとしてくるので白銀の滑らかな顎を撫でてなだめる。


「……ユリィ!」


 傍らにユリィが目を閉じたまま倒れていた。息はある。外傷はないようだったが、あまり揺らしていいのかわからない。


「ユリィ、ユリィ。起きて」


 軽く頬を叩くが、何の反応もなかった。ミルが切なげに鼻を鳴らしている。


 周囲を見回すと、湖畔に寝かされていたようだった。辺りには宝石が散らばり、湖には小さな波が立っている。氷の壁も、透明な障壁もなくなっていた。ただの澄んだ湖になっている。


 混濁した意識のせいか、雪のようなものが視界にちらついていた。まだ夏の終わりだというのに、目がおかしくなったのかと目をこすった。青白く輪郭の定かでないものは、ユリィの頬に、ジェイクの手のひらに、ふっと溶け消える。


「君にも見えているかな?それは祝福だよ」


 突然話しかけられて、ジェイクは驚き振り返った。褐色と象牙色がまだらに入り乱れた肌をした、エズリが長い髪をまとわせて立っていた。湖の中に封じられていた人がここにいるということは、ユリィは成功したらしい。


「魔力とも呼ばれている。ユリィが解き放った力だ」


 声は低く柔らかな響きだった。男とも女とも判然としないのに、ジェイクは初めてユリィ以外の人の美しさに胸が熱くなった。神秘的な雰囲気があった。傍らに黒い竜のヴェプナーを従えた姿は絵画のように完成されている。ただ、ヴェプナーは余程嬉しいのか大きな体を何度もすり寄せていた。


「ありがとう、経緯はヴェプナーから全て教えてもらった。君たちに私は救われた」

「僕は何もしてません……それよりユリィが目を覚まさないんです。どうしたら?」


 エズリは唇を芸術的な笑みの形にした。瞳はオーロラのように色彩が定まらず、幻惑されそうになる。


「ジェイク」

「は、はい?」


 本当にヴェプナーから全て教えられているらしく、名乗った覚えはないのに名を呼ばれた。彼らには便利な情報伝達能力があるものだと羨望を覚える。


「ユリィが強くなれたのは、君がいたからだよ。そして、君の為に力を手放した」

「どういうことですか?」


 つかみどころのない話にジェイクは眉を寄せた。結論から言ってくれと、喉まで出かかって我慢する。


「そのままだよ。ユリィはこことは違う世界から来たことは知ってるね?」

「はい、それは」

「ユリィの元いた世界は獣と人間の境がなく、溶け合う素晴らしい世界らしい。彼女はその魂のままこちらに来た。だからこの世界でモンスターのみが享受している魔力を扱えた。魔力は願いを叶えるものだから、君を守るために強くなった。まあモンスターが強い力を持つのと同じだね」


 確かにユリィは、モンスターにとりつかれた少女などと幼い頃は噂されていた。ジェイクは黙って話の続きに耳を傾けた。


「私がここに封じ込められた大昔の罪とも関係あるけれど、人間は気持ちの揺らぎが大き過ぎる。だから人間は魔力を僅かしか受け入れないようになっていた。だけど、神のご意思なのか、間違いなのか、ユリィは魔力をその器以上に受け入れてしまった。特にジェイク、君が揺さぶりをかけるから」

「かけてませんけど」


 ユリィに対してひどい仕打ちをしたように言われて心外だった。しかしエズリは軽く首を振る。


「かけたよ。まあ悪い方向に行かなくて良かったけど、愛っていうのは表裏一体の大きな感情だから、おかげで私を封じていた障壁を壊せるまでになった。でも、強すぎる力に体が耐えられなくなって、ユリィは自分の意思で捨てたんだ、君と生きていくために」

「そんな……」


 ジェイクはユリィの顔を改めて眺めた。今は安らかな表情をして眠っているように見える。自分がユリィの力の増大に関わっているとは思いもしなかった。自分などちっぽけな存在で、特別な能力もなく、決して世界の運命なんかに関わっていないはずなのに。


「そんなに悲しい顔をしなくてもいいよ、ジェイク。君たちには解放してもらった恩がある。君はどうしたい?」

「ユリィが以前のように、自由に何でも出来るようにしてください」


 ジェイクは、考えるより先に声が出ていた。


「本当にいいのかな?」

「はい」

「君に全部与えてもいいんだよ」

「ダメです、ユリィのものです」


 迷いなくジェイクは答える。エズリはとても嬉しそうに、淡い瞳を輝かせた。


「そうか、良かった。じゃあ手を貸すよ。あとは君がユリィに言ってあげればいい、以前のままでいいと。それだけだよ」


 さっとエズリが手を振ると、きらめく光が舞った。ユリィの体に降り注ぎ溶け消える。


「僕が言えばいいんですね?」

「そう。思いを言葉にする、それが私たち人間に与えられた本来の力だから。言葉は祝福にも、呪いにもなる。ジェイクはユリィに祝福を与えるんだ。できるね?」

「はい」


 約束めいた返事はジェイクの胸に染みて、心の奥に響いた。思いの込もった言葉には確かに力がある。そんな経験をいくつもした。


「ところで、ユリィはどうしたら目覚めるんですか?」


 ジェイクの質問にエズリは苦笑し、横のヴェプナーはゴロゴロと巨体の喉を鳴らした。それは地響きかと思うほど低い音だった。


「いやあの……笑ってないで教えて下さい」

「ユリィはちょっとだけ、自分に都合の良い魔法をかけて眠っているよ。ふふっ、私は数千年封じられていたから最近の人間の常識を知らないのだけど、後ろを向いていた方がいいのかな?」

「あ……」


 ジェイクはやっと、どうすればいいのか理解した。


「じゃあ私たちは後ろを向くから」


 エズリはヴェプナーと共に方向転換をした。その背中から視線を下ろし、眠っているはずのユリィの唇を見た。微かに笑んだ血色の良い唇は、起きているかのように思える。


 確かにここは美しい場所だった。ユリィが望みそうな雰囲気である。大した我が儘なのか、ささやかな願いなのか、ジェイクには判別出来ない。とにかく途轍もない状況を作り上げたユリィに、そっと口付けた。


 見る間に白かった頬に血が巡り、ユリィは赤く輝く瞳をぱっちりと開けた。そこには覗き込むジェイクの影が映っている。


「……起こしてくれてありがとう、ジェイク」

「おはよう、ユリィ。もしかしてずっと起きてた?」

「まさか」


 元気に否定するユリィに安心感が込み上げた。

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