第29話 空と湖

 久しぶりの村の夜は、瞬く間に過ぎた。気付けばユリィの飼育している鶏の鳴き声によって朝へと切り替わっていた。


 ユリィは毎日の牧場の仕事を終えてから出発するというので、ジェイクも手伝った。動物の世話はともかく、畑仕事は慣れている。もしユリィの体調が今日以降悪ければ、代われるようにと色々と聞いておいた。


「じゃあそろそろ行こう」


 牧場を見回し、ユリィはごく軽い口調ながら、緊張した面持ちで出発を呼び掛けた。虚構の穏やかな時間の終わりであった。ジェイクは、今朝からの緊張が更に増したと感じた。


「ミル、お願いね」


 ユリィの愛犬、通常個体の倍はある火灰狼コールティコのミルだけは落ち着いて白銀の睫毛を少し伏せた。ミルは子犬の頃から飼い始めたが、今ではユリィの母親であると言いたげに妙に威厳のある顔つきをしている。


 背中に二人で乗って、空中へと浮き上がった。ミルは滑らかな白銀の被毛の下にハーネスを装着していて、そこを掴めば安定した。


 ユリィの言う北の山――正確にはフィズィッリ・ディラブリア山の、頂上にそのモンスターはいるという。

 この山の高所は飛竜の寝床、巣窟であり、夕方になると群れをなした飛竜がこの山に向かっているのを昔から眺めていた。まさか頂上に向かうことになるとはジェイクは思いもしなかった。


 ミルは力強く空中を駆け、高度を上げていく。冷たい雲の層をいくつも抜けた。空気が薄くなり、次第に息苦しくなった。


 ミルがいなければ、誰も辿り着けない場所だとジェイクは感じる。通常の馬も空中を闊歩するが、臆病な気質ゆえに、ある程度以上の高さには上がらない。高い空は飛竜などのモンスターの領空となっているからだ。


 ときどき威嚇するかのように飛竜が横を掠めるが、当たってはこない。前にいるユリィも慣れた様子だった。耳や指先などの末端が冷えて痛いが、それすらも感じていないようだった。


 不意に眩しくなり、すぐ近くに太陽があるのかと錯覚した。いつの間にか雲に入り、また抜けたらしい。


 山の頂上より高いところにいた。眼下に、正円に近い巨大な湖らしきものがあった。ぽっかりと空いた穴、あるいは鏡かもしれないとジェイクは判断に迷う。ミルが降り立つために湖に近付くと、違和感は更に強くなった。湖は空を映し、太陽光を反射しているが、全く揺れていないのだった。さざ波ひとつ立てない湖と、低い木立の広がる不可思議な場所だった。


「きれいなとこでしょ?」


 ユリィはミルから素早く降りて、笑顔でジェイクに振り返った。


「うん……」


 湖の周りは黒い灌木が生えているが、動く生き物の気配がない。秘密の場所に二人きりという感はあった。ユリィが水鏡のような湖に手を差し入れ、ようやく波紋が広がる。動いてしまえば何の変哲もない水に見えた。


「ここで泳ぐと開放的で気持ちいいんだよね」

「ここで?裸で?」

「だってほかに人は来られないしいいじゃない……」


 ジェイクがつい気になる点を聞いてしまうと、ユリィは責められたと感じたのか、眉を下げた。


「僕は危ないんじゃないかなって思うけど」

「そう?ジェイクは私と一緒に泳ぎたくない?」

「泳ぎたくないことはないけど……」


 あまり開放的な格好をされると、冷静ではいられない気がした。意識するまいとするほど顔が熱くなる。


「私も微妙かなって思って誘わなかったの、ごめんね」


 ユリィも同調して赤くなった顔を手で扇ぎ、空を見上げた。大きな影が、音も無くゆったりと翼を動かしていた。手を翳して良く見ると、真っ黒い巨大な竜と思われた。観測されたモンスターについては全て暗記しているジェイクだが、未知のモンスターであった。これが例のモンスターらしい。


 全体的には飛竜に似ているが、もっと体躯が太く、4本の足には一薙ぎで人間を切り裂けそうな爪が伸びていた。全身を覆う艶のある黒い鱗は性質の異なる何かが多層を成し、複雑に光を返している。骨と皮膜で構成された翼は、着陸と同時に折り畳まれた。


「こんにちは、ヴェプナー」


 ユリィは黒い竜に抱き着き、親しげに挨拶をする。黒い竜はユリィの瞳と同じ、赤い色をしていた。ただし体に比例して大きく、ジェイクは自分の拳より大きいだろうかと恐々近寄った。


「ユリィが名前をつけたの?」

「ううん、元々ヴェプナーって呼ばれてたんだって」

「誰から聞いたの?」


 かつては人間と交流があったのだろうかとジェイクは聞いた。


「ヴェプナーから。ヴェプナーは言葉を喋らないけど、触れると記憶が伝わってくるの。そう呼んでたのはそこの湖にいる人」


 ユリィは静かな湖を指す。ジェイクはそこに人がいるとは俄には信じられず僅かに首を傾げた。


 ユリィは困った顔で軽く片手を動かした。それだけで湖が割れ、湖水は高く聳え立つ一対の氷壁となった。壁になり損ねた氷の欠片が、空気中で乱反射している。


「すごいね……」


 それしかジェイクは言えない。ユリィの人間離れした能力は蝋燭に火を点けるだけではなかったらしい。こんなことが出来る人間はユリィ以外にいない。ほかには、遠い国にいる氷鳥というモンスターくらいだ。


「泳いでて見つけたんだけどね。もしかしたら呼ばれてたのかもしれない」


 ユリィに招かれるままに黒い竜やミルと連れ立って、湖の氷壁に挟まれた道を歩く。湖の底は、透明なクリスタルのような硬いもので出来ていた。これだけの重量がかかっても歩いてもびくともしない。


 湖の中央、透明な床の向こう側に男とも女ともつかない人間が、体を丸くして眠っていた。肌はあらゆる色調のまだら色で、長い髪も淡く、濃く色を変えて広がっていた。


「このエズリって人と、ヴェプナーがこの世界の最初の生命で、人間やモンスターはここから派生したんだって」


 ユリィが向こう側を見下ろして言う。


「僕、そういう伝説は読んだことあるけど、本当だったなんて驚きだね」

「うん。でもエズリは、遥か昔の人間の罪を背負ってここに封印されてしまった。そしてこの世界は歪んだ。だから私が違う世界から来れたし、変な力も持てたみたい」


 ユリィが手を振ると周囲の氷壁が砕け、氷は色とりどりの宝石へと落ちながら変化する。この世とも思えない光景だった。手のひと振りで湖を凍らせ、氷から宝石を生み出す。あまりに絶大な力だ。


「彼らが苦しんだから、私はジェイクと出会えた。だから、私は彼らの為にこれを壊そうと思うの。もう何も出来なくなっちゃうけど、いいよね?」

「ユリィがそう決めたなら」


 ジェイクは頷いてみせた。ユリィは瞳を潤ませ、息をを吸い込んだ。


「私、死なないけど、気絶くらいはするかもしれない。もしそうなったら起こしてね」

「どうやって?」

「前みたいにしてくれたら絶対、すぐに起きるから」


 いたずらっぽい輝きがユリィの赤い瞳に宿った。わかるでしょと投げ掛けられている。前とはいつのことか尋ねる間もなく周囲が一気に熱くなった。


 熱い空気の塊に押されて、ずるずると後ろに下がってしまう。


「ミル!ジェイクを連れて離れて!」


 ユリィの指示により、ミルが素早く動いた。ジェイクは服の首の後ろを咥えられ、遠くに引きずられた。ユリィを中心として、眩い光が広がっている。顔が灼かれるように熱く感じた瞬間、何かが砕ける音がした。

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