第28話 可能性
翌朝、エミリアーノ王の寝処から王の服を運んでいく侍女の姿をジェイクは目にした。どうやらラウラリア王妃の部屋で身支度を整えるらしい。
寝処にあった途中の書類を王の執務室に運び、ひとりで仕事を始めながらジェイクは待った。やがて不機嫌そうなエミリアーノ王が入室してくる。横目で姿を確認したジェイクは、それがただの照れ隠しだと察した。
「陛下、王立動植物研究所の設立費用について概算が出ました。つきましては、国庫の赤字を補填するために借金を民間に申し出たいと……」
「ジェイク、お前は童貞のくせに私を焚き付けたな」
「は?何をおっしゃっているのかわかりません」
昨夜のことには触れずに話しかけたのに、エミリアーノ王のふざけた物言いについ口調が固くなる。大体、いつものことだが周囲には近衛騎士カストやネイ、文官がいる。
「ラウラが言っていたぞ。紅顔の美少年の頬に触れてやったら、更に紅くなった。神に仕える教会の清童よりも純朴なのでは、とな」
「そうですか」
昨夜はうまくいったらしい。得意になって煽ってくるエミリアーノ王の挑発に乗らず、ジェイクは書面に集中しようとした。なぜここでそんなことを話すのか、内心腹が立っていた。今までユリィを守るために下らない噂に乗っていた努力も水の泡だ。
「まあ?お前も早くこちら側に来れるといいな?」
本気で人を殴りたいと思ったのは、初めてだった。ジェイクは言葉を失う程に、血が頭に昇った。
「はは、この話はこれで終いにしよう。良き働きをしてくれたジェイクには、いずれ改めて礼をするからな」
エミリアーノ王は上機嫌でカストの引く椅子に着席した。もう絶対、この国王夫婦のいざこざには関わるまいとジェイクは目を閉じた。ユリィは今頃、小麦の刈り取りに領地中を駆け回っているのだろうか。頭の中で、刈られた小麦の匂いと吹き抜ける爽やかな風すら想像できた。ユリィの力ならば一人で数十人分の働きが出来る。力を失って、来年からの小麦の刈り取りには人員を補充する必要があるだろうが。
彼女の為にやることはいくらでもある、とジェイクは目を開いた。
数日はあわただしく過ぎた。
会えない間のやり取りは、ユリィの愛鳥、
それに橙色と黒の派手な翼と、黄色の大きく鋭い嘴は隠密には全く向かない。しかしユリィが特製の餌を与えた結果飛ぶ速度が尋常でなく、誰も捕まえられないのでジェイクは存分に手紙の交換を楽しんだ。
小麦の刈り取り作業を終えた頃、ユリィに合わせてジェイクは休みを取った。件のモンスターに会い、ユリィの力を全て明け渡す際に付き合ってと言われていたからである。一日の仕事を終えた夜には村に移動した。
「ジェイク」
ユリィの邸の玄関に着くと、ユリィが立っていた。夕食用のハーブを摘んでいた様子ではある。待っていてくれたのかどうかまでは聞かなかった。しかし、妙に久しぶりな気がして、お互いに緊張感があった。
「ユリィ、体調はどう?」
数日ぶりに見るユリィは、照れたように微笑んだ。日が沈んだばかりの、物の輪郭が曖昧な時間なせいか、現実感がない美しさがあった。本当にそこにいるのか触れて確かめたいと思ってしまう。
「ものは食べれてないけど、大丈夫。ジェイクのご飯はハンナさんと作ったから」
「僕なんていいよ」
「ジェイクは今夜はたくさん食べて、ゆっくりして」
そう言いながらユリィは、ジェイクの肩に触れた。もしかしてユリィも自分と同じような気持ちなのだろうかと、ついその手を取って握った。ほっそりした指先は簡単に包めてしまう。
「……何か、変な感じ」
「僕もそう思う」
笑うしかなく、二人でそろって邸に入る。近くに居られるだけでこんなに嬉しいのだから、もう仕事も何もしないでずっとここで穏やかに暮らしていたいと思ってしまった。ユリィの為にと努力するほど一緒にいられる時間が減る。いつから、どこから別々の道を歩み出したのかは不思議と記憶にない。
自分がいて、ユリィがいて、母がいて、ユリィの父がいる。これが完璧な状態であったのに、どうしてジェイクが城で働き出す以前は別々に暮らしていたのか。もっと前からこの状態であれば、現在の地点には辿り着かなかっただろう。却って結婚の話には至らなかったかもしれない。
初めて泊まる、ユリィの邸の客室でそんなことを思った。安眠効果があるというハーブの匂いがついた枕に顔を埋めた。邸の周囲は畑なので、虫や、蛙、野鳥の鳴き声は賑やかだが、その一定の調子には安心感がある。だが部屋のドアがコンコンと小さく叩かれる音には身体が跳ね上がった。
ベッドから降りてドアを開けると、ナイトドレス姿のユリィだった。
「どうしたの?」
「ごめん、緊張して眠れなくて……」
目を閉じれば数秒で眠りに落ちると豪語していたユリィが眠れないなんて、とジェイクは事の重大さを感じた。
「ねえジェイク。一杯だけ飲まない?」
「飲むって、お酒のこと?」
「うん。あのね、最近お父さんとハンナさんがたまに二人で飲んでるのが羨ましくて……」
ジェイクの母、ハンナは積極的に飲むタイプではなかったが、ユリィの父であるアウグスと仲良くやっているのだなと意外に感じた。
「でも、ユリィは夕食も食べなかったのに、お酒は飲めるの?」
魔力が溜まりすぎたとユリィは食べ物を口にしなくなっていた。夕食のときも限りなく水に近い薄そうなスープを、食卓の雰囲気に合わせて飲むだけであった。
「一杯くらいは何とかなるでしょ。こっち来て」
ジェイクは、ユリィがやりたいと言うことを今まで全く断ってこなかった。結局誘われるがまま階下に降り、棚に色々とある酒瓶を眺める。
「私はお菓子か料理用のお酒を舐めるくらいしかしないけど、ジェイクは付き合いで飲んだりするの?」
「まさか。陛下とは飲もうと思わないよ」
「あはは、そう」
ユリィは赤ワインの瓶を選び、ジェイクに押し付ける。自身はグラス2つとコルク抜きを持った。
「私の部屋で飲もう」
いたずらっぽい笑みのまま、足音もさせずに歩くユリィは、子供の頃から見慣れた姿のようで、全く違う姿でもある。ユリィの部屋のソファに並んで座り、横から彼女が手慣れた動作でワインを開封する様を見ていると、現実とは信じられない気持ちになった。
「なんかもう楽しいね!お泊まり会って感じ」
「うん」
くすんだ野苺のような赤い液体がグラスに注がれた。ジェイクは慎重に一口飲んでみるが、苦味や酸味ばかりで、おいしいとは言い難い。喉だけが熱くなった。ユリィも味の感想を言わない。苦笑してグラスを置き、寄りかかってきた。
「もういい気分……」
「早いよ」
ユリィの柔らかな杏色の髪の隙間から、赤くなった耳が見えていた。急に動悸が激しくなる。ジェイクは落ち着こうと、ワインを呷った。
「ジェイクに言いたいこと、いっぱいあったのに、忘れちゃった」
「明日でいいよ。あさってでもいいし」
「そうだよね。ねえ、全部終わったら、二人で王都のおしゃれなお店で飲もうね」
「……その言い方は何か不吉だからやめよう」
まるで不死の病の床にいる者か、戦地に赴く者の台詞のようでジェイクは心配になった。
「やっぱりジェイクもそう思う?これ、死亡フラグって言うの」
「それ、前世での言い方?わかってるならやめてよ。僕だって、そういう約束が果たされない古典作品はいくつも読んだことがある」
寄りかかったまま肩を震わせて笑うユリィに、ジェイクは本気ではないが怒ってみせた。
「ごめんね」
「怒ってないよ、心配なだけ」
思ったよりしゅんとなってしまったユリィに慌てて何か言わなければと思う。
「ユリィが落ち着いたら、お店でも何でも行くから。誰かに聞いて調べておくよ」
「ほんと?」
「うん。僕達、そういうこともしないとね」
急に気付いたが、一般的な男女交際らしいことを何もしないままここまで来た。
「楽しみにしてる」
ワインより鮮やかに赤い唇をそう動かしたユリィは、やはり消え入りそうに現実感がない。寄りかかられた肩に温かさや重みを感じるのに、なぜか遠くにいるようだった。
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