第26話 誘い
ジェイクが執務室に戻ると、何か聞きたげな顔のエミリアーノ王が待っていた。
「何でしょうか?」
「いや、お前は何故、私にユリアレスとの婚約のことを話さなかったんだ?」
今度はジェイクが、答えなくない気持ちで唇を噛む。しかしエミリアーノ王の突き刺すような視線は答えるまでは追及をやめないと語っていた。
「……それは、ですね」
「早く言え」
「……ユリィは僕のことを心から好きという訳ではないと思ってるからです。親しみや愛情は持ってくれていると思いますが。今は単に、結婚への憧れの気持ちからユリィはああなっているのでしょう。幻滅されるのが怖いです」
「……」
エミリアーノ王は、声もなく体を震わせ、口端を吊り上げ、喜びを瞳に湛えた。
「良いな。ジェイクは本当に面白い。素晴らしいな、流石私が見込んだ男だ。ずっとそのまま懊悩する姿で私を楽しませろ」
近寄って肩まで抱かれ、ジェイクは振り払いたくなった。明らかな挑発だ。
「陛下も他人事なら冷静になれるのですね」
何とかそれだけを言い返す。エミリアーノ王と王妃の夫婦関係は未だに、透明な壁があるかのように隔たりがある。病的な痩身からすっかり健康体になったが、長く時間を空けすぎた。どう王妃に歩み寄るべきかわからないようだった。
「それは……」
フン、と鼻を鳴らしてエミリアーノ王はどこか遠くを見る。
「さあ、ふざけるのは終いだ。やる事がいくらでもあるからな」
「はい」
その通りであるので、ジェイクは返事をして仕事に取り掛かった。財務部の問題、王立動植研究所の事業計画書。この数日の間に片付けなければならない。
夕方を過ぎ、夜になり、食事休憩や沐浴を挟んで、エミリアーノ王の寝処でもいつも通りジェイクは仕事を続けた。
ユリィから授受されたお守りはエミリアーノ王に活力を与えた。体力回復の効果は目覚ましく、二人揃っていつまでも働ける気がした。
「陛下、そろそろ寝ましょうか」
「む、まだ眠くないぞ」
お守りの使い方に慣れているジェイクが切りの良い所で睡眠を提案する。
体が疲労を覚えなくとも、頭の回転を保つにはどうしても睡眠が必要なのだった。エミリアーノ王の部屋を出て、隣のいつも寝ている部屋に移動したときだった。
ドアを閉めたジェイクの後ろに、素早く黒い影が音も無く尾いていた。生温い気配に、ほとんど無意識に頭を振り向かせたジェイクは引き攣った声を上げかけた。皮膚の硬くなった手のひらが、ジェイクの口を塞ぐ。
「ごめんなさい、驚かせて。私です」
聞き慣れた女性の声と、暗闇の中、間近に迫った顔にジェイクはますます混乱した。近衛騎士のネイであった。ネイは、口を塞いでいた手を外し、申し訳ない、敵意はないとばかりに両手を見せる。それはジェイクが肌身離さずつけているお守りが一切反応しなかったことからわかっている。
「ネイさん? 何で?」
ジェイクは小声ながらも驚きに声が裏返ってしまっていた。エミリアーノ王の近衛騎士として登用されている彼女とジェイクは、業務的な会話以外は交わしたことがない。ただエミリアーノ王を介して近くにいる、それだけだ。
ネイは無口な印象だった。短く切り揃えた黒髪と、ややきつめの目元が格好いい女性だとは思っている、その程度だ。恐らく20代だろうが正確な年齢も知らなかった。
「ジェイクにお願いがあって待っていました」
「いやあの……もう夜遅いですし、昼間に言ってもらえますか?」
高身長のネイは、まだ成長期のジェイクを見下ろしながらいたずらっぽい笑いを見せる。こうしていると案外と穏やかな人物に思えた。
「夜じゃないとだめなんです。だって、陛下には内緒のことですから」
「変なことには関与したくありません」
ジェイクは早く出ていってもらえないかと扉の方向に手を差し向けた。様々な欲望や陰謀が渦巻く王城において、身内だとは思っている。穏健に終わらせたかった。
「変なことじゃないです。私と一緒に、ラウラリア王妃陛下のお部屋に来て欲しいだけです」
「僕が?それは絶対にまずいでしょう……僕も一応男なんですが」
やっぱり変なことじゃないかと叫びたくなった。ラウラリア王妃の周囲は男子禁制という訳ではないが、エミリアーノ王に内密に、夜中にこそこそ出入りするなどあり得ない。
「お願い! 私は騎士の誓いを立てます。ジェイクの立場が絶対に悪くならないようにするから! お二人の為なんです!」
「もう王妃陛下はお休みなんじゃないでしょうか?」
「いえいえ、今宵はいつまでも待っているとおっしゃっていました。私、ジェイクを連れていくと約束してしまったんです」
ジェイクはつい、ネイを睨んでしまう。だが一歩も譲らぬ、退かぬとばかりに、暗闇の中でもくっきりとした黒目に見つめ返された。静寂が流れた。
これは頑固な人物かもしれないとジェイクはため息をついた。よく考えれば、エミリアーノ王が自ら選んで身近に置いている人間だ。自分も含めて、変わり者だらけに決まっている。ネイに悪意がないだけに面倒だとさえ思ってしまう。上手くいっていない夫婦間の橋渡し役などやりたくない。
「行くしかないんですね……」
「ありがとうございます! では参りましょう」
満面の笑顔を浮かべるネイに連れられて、ジェイクは部屋を静かに出る。無言で暗い城内の廊下を歩き続けた。
ラウラリア王妃の寝処に近付くにつれ、壁の装飾や大きな花瓶に生けられた花が増える。それに加えて化粧、香水などの甘ったるい匂いが鼻をついた。そこかしこに侍女の気配がある。男の気配は微塵もなく、ジェイクは自分が場違いに思え身を縮めた。
慣習として、そのようなことを行うときは王が、王妃の整えた寝処に出向いて歓待を受けるものとされている。だがエミリアーノ王が来たがらないのもわかる気がした。
仕事で男に立ち向かうときは、内側から奮い立つ勇ましい気持ちがある。負けてたまるかと燃え滾り、必死に頭を働かせるのは一種の快楽がある。
それが女の園のようなこの場所では、纏わりつく甘い匂いに闘志を削がれてしまう。弱い存在なのだから大切にしろと暗に主張されているようだった。
ネイが一際大きな扉の前で立ち止まり、騎士達に目配せをする。やっと男がいたとジェイクは安心しかけたが、すぐに悟る。ここの騎士達は、普段城内で見かけたことのない美麗な顔立ちであり、周囲に馴染んでいた。
「ラウラリア王妃陛下、ジェイクをお連れしました」
「どうぞ」
入る前からジェイクは疲弊していたが、ラウラリア王妃に向かってひざまずく。
「夜分に失礼致します。今宵は私をお招き下さり、誠に光栄の至りでございます。お待たせした非礼をお詫び致します」
「楽にして下さい、こんな処ですから」
ラウラリア王妃はナイトドレスではなかったが、晩餐のときに見たドレスよりはゆったりしたドレスを着ていた。髪も下ろしている。
「いつも食事のときには見かけますが、きちんとお話するのは初めてですね。いつも陛下の政務を支え、更に気難しい陛下の心まで慰めて下さって、ありがとう」
作り慣れた、美しい微笑みをラウラリア王妃はジェイクに見せた。公爵家から嫁いだラウラリア王妃は生粋の貴人であり、鈴を転がすような声音は柔和で一部の乱れもない。それでいて棘を含んだ物言いであった。
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