第19話 小部屋の中

 閉めきられた城の小部屋の中、ユリィとジェイクは何も言わずに体を寄せていた。


 談笑しながら廊下を歩く侍女たちの高い声が扉の隙間から漏れ聞こえ、ユリィは少し身を固くする。まだ、もう少しこのままでいたかった。


 どれだけ言葉を重ねても、幼馴染が遠くに感じる気持ちはなくならなかった。先ほどのジェイクの説明に含まれていた、微かな嘘の匂い。何かを隠している。それがジェイクの世界のものだろうとユリィは理解していた。ただ寂しさが募る。


 ジェイクがほかの女性と、ほんの少し接点があるかもしれないと思っただけで心が真っ黒に塗り潰されそうになり、感情を隠すことも出来ず、露骨に不機嫌そうな態度を取った。


 幼稚だったと思う。優しく言いくるめられると、もうジェイクの方が余程、確立した自分の世界を持った大人なのではないかと恥ずかしくなった。


 ユリィは少し首を動かしジェイクの肩に頭を押し付ける。頭蓋に自分の速すぎる脈動が響いた。


 以前はこうしていてもただ胸が温かくなるだけだったが、いつの間にか変わっている。熱くて息苦しくてどろどろなのに、決して離せない。その感情をユリィは認めないわけにいかなかった。


 ユリィは改めて、ひしひしと感じた。小さかったジェイクはとっくに別の生き物に変わっている。体つきも考え方も、自分とは全く違う何かだ。


 ――なのにどうしよう、ジェイクにすごいこと言わせちゃった。


 ユリィは、王城にたくさんいる女性を激しく気にしていた。ジェイクの以前の職場は市場が主で、女性はほとんどいなかった。だから身近な女性である自分に、年頃なりの興味を持ったのかと思っていた。だが城で多くのきれいな女性を見るようになれば、変わってしまうだろうと予想していた。そうしたらそっと離れようとまで決意していた。


 けれどユリィは何度も自分自身への取り決めを破り、今はこうしている。こんなにひどい独占欲があったのかとユリィは自分を恥じていた。


 それでも腫れ上がってしまった嫉妬心のまま、ほかの女の子にもてなくなってもいいのかと訊いた。答えを誘導するように。


 ジェイクは『一生、ユリィしか好きな女の子はいない』と、いとも簡単に、なめらかに言った。もしかして普段からそう思っているのかと期待してしまう。ユリィは上がる体温に熱い息を吐いた。


 だが、求めていることを読み取ってくれるのがジェイクだ。自己暗示をかけさせるようにわざと言わせた自覚もあった。


 ――責任、取らなきゃ。


 気づけばかなりの時間、黙ったまま抱き合っていた。ジェイクが今何を考えているのか、急に不安になってユリィは少し身を離す。今は顔を見るのが気恥ずかしかったが、目が合って条件反射のように微笑むジェイクに胸の奥が狭くなった。


「あついね……」


 頭の中で渦巻いている気持ちは何一つ言葉にならず、ユリィはそれだけを言った。


「うん」


 ジェイクはその通りだと同意する。ユリィは手を伸ばし、ジェイクの首筋に伝う汗を何となく指で拭ってみた。


「き、汚いよ」

「ううん、そんなことない。私の方が汚い」

「ユリィはきれいだよ」


 どこが?と訊いてみたくなったがユリィは唇を噛む。それではまた自分の思う通りの発言をさせてしまう。


「私は汚いこと、ずるいこといっぱい考えてる……ジェイクにもっと好きになってもらいたくて」


 いつも誉めて、甘やかして、ジェイクが自分を好きになるように仕向けてきた。喜ぶ純粋な笑顔がかわいくて、過剰に構ってきた。幼い子供にそれをしたのは卑怯でずるいことだとわかっている。


「ごめん、僕の方がずるいと思う。僕もユリィに好きになってもらいたくて、色々と悪知恵を……」


 深刻そうな顔でジェイクは視線を外すので、その様子もユリィにはかわいく見えた。別に大したことではないように思う。ユリィが抱えている秘密に比べれば。


「ジェイクより私の方がずるい。絶対、私の勝ち」

「僕の方がずるいって」

「本当に?」


 ユリィは軽くジェイクの服の袖を引っ張り、瞬きもせず大きな栗色の瞳を見上げた。もっと決定的に、戻れないところまで行ってしまいたい気持ちがこみ上げてくるが、ユリィは自分から動く勇気がどうしても出せずにいる。


 ジェイクは固まったまま動かなかった。期待するように薄く開いている唇を見て、また瞳を見た。そのまま何秒も時が過ぎる。閉めきった扉の外からまた誰かが通りすぎていく足音が聞こえ、遠ざかる。


「ジェイクは女心をわかってないよね……」


 しばらく待ってもジェイクが動かないので、ユリィはため息をついて諦めた。袖をつかんでいた手を離す。


「……え?」


 驚愕にバランスを崩したジェイクは一歩だけ足を後退させる。


「今の沈黙ってもしかして……キスして良かったの? まさか、そんな……」

「もう忘れた、知らない、変なこと言わないで」


 やっぱりある程度はわかっていたのかとユリィは却って恥ずかしくなり、背を向けた。


「で、でもこんな部屋はちょっと、雰囲気悪くない?景色の良いところでやり直せってポンさんに言われたし」


 確かに食器を運ぶためのワゴンや、重ねて積まれた大量の食器だらけの倉庫のような部屋だ。雰囲気は悪い。だが、やり直せとはどういう意味かユリィは頭が沸騰しそうになった。つまり、最初のキスの場所をポンが知っているということになる。


「何でそんなことポンさんに言ってるの? バカ! もう知らない」


 ユリィはたまらずに部屋から飛び出る。あわてて後ろからジェイクが追いかけた。


「ごめん、言ったらダメだった?」

「ポンさんとはお菓子の材料の輸入のことで最近よく会ってるのに……ポンさんにずっと、馬車の幌でキスされた奴って思われてたなんて耐えられない、もう生きていけない」

「ポンさんはそんなこと思わないよ」


 両手で顔を覆いながらも器用に早足で歩くユリィを宥めつつ、そんなにも場所を気にしていたのかとジェイクは慚愧の念に堪えない。雰囲気という訳のわからないものをもっと研究する必要があると心に刻む。


「ユリィ、本当にごめん。今度やり直させて」

「……その言い方もあり得ない。もっとこう、甘い言葉じゃないと」


 我が儘を言っている自覚はあったがユリィは譲れなかった。


「ちゃんと考えておいて」


 いつの間にか王城の裏門に着いていた。言い争いながらずいぶん早足で歩いていたようだ。衛兵や様々な人がいる中、聞かれても良い単語だけを何とか選んでみたが、何を高飛車に言ってるのかとユリィは自分で自分にダメージを受けた。


「うん、考えておく」


 ジェイクはほっとして微笑んだ。ユリィはまた激しい後悔に息を呑み込む。精神的にはかなり歳上なのに、またかっとなってしまった。歳上の矜持は、ユリィの心象風景の中ではかなり前からボロボロのゴミのように片隅に転がっている。時々拾ってみるがここ最近はまるで役に立たない。


「また明日ね」

「また明日」


 短い別れの言葉を交わしてユリィは歩きだした。ひとり反省会をしながら、これからのことを考える。





「ただ今戻りました」


 エミリアーノ王の元へ戻ったジェイクは冷たい視線に迎えられた。執務室には財産目録が積まれている。


「遅かったなジェイク?私の寛容さに甘えてもらっては困る。その締まりのない顔を早くやめろ」

「はい。寛容な陛下にお願いがございます」


 ジェイクは、口をさっと擦って引き締めた。そしてユリィを不倫の噂から守るための口裏合わせをエミリアーノ王に頼もうとする。


「ほう。私がお前の願いを聞くに足る材料はあるのか?」


 付けペンを持つ手を止めてエミリアーノ王は目を細めた。ジェイクの予想の範囲内だ。底意地の悪いエミリアーノ王に素直に言うことを聞かせる材料をジェイクは持っていた。


「ございますが、ここで話してよろしいのですか?」


 室内には近衛騎士や各部門の文官がいる。ユリィに嘘までついて、エミリアーノ王の誰にも知られたくないであろう秘密を守ったのだ。多少嫌みな言い方をしてもいいだろうとジェイクは意味ありげに片目を閉じた。


「……夜になったら話せ」

「はい、陛下」


 こうしてジェイクとエミリアーノ王の仲は、周知のものとなっていった。

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