第17話 継承
浅い眠りの中、ジェイクは夢を見た。思い出せる限り最も古い記憶、初めて文字を覚えた日の夢だった。
「ジェイク、一緒にがんばろ!」
隣の椅子に座っていた2歳のユリィがにこっと笑ったのを見て、ジェイクは何をがんばるのかもわからず嬉しくなって返事をする。
「うん!」
物心ついたときには、ジェイクの隣にはユリィがいたし、日中はほとんど一緒にいた。この頃には既に好きだった。何を覚えるのも早いユリィにいつも励まされながら後を追っていた。
ジェイクの記憶がない赤子の頃から、一緒にしておかないと泣いて仕方なかったと後になって聞かされた。ジェイクの母親が産後寝込んでいたので、ユリィの母親が預かり、ユリィの隣でしばらく育った間にそうなったのだった。
テーブルには本来ならもう何年か成長してから使われる子供向けの絵本が広げられていた。本は高価なので、村内で共有して使っていてあちこち擦りきれている。
「これは?」
ユリィの母親であるジーナが絵本に書かれた一文字を指差す。
「あう!」
それを見てユリィが声を張り上げる。次々と指の位置が変わり、その度にユリィは違う発音をする。隣で黙って見ていたジェイクの中でひらめきがあった。形が違うと音が違うんだ――
しばらく黙って見ていると、ジーナが何巡か前に指した形があった。
「しぃ!」
「しぃ!」
ユリィが答えるより先にジェイクが答えると、二人は驚いて目を見開いた。
「ジェイクすごい!もう文字おぼえたの?」
「あらあら、ジェイクもユリィ天才ね!二人ともかわいいわ!食べちゃいたい!」
ユリィとジーナに称賛され、ジェイクは胸がいっぱいになるような喜びを感じた。
「ぼく、もっとおぼえたい」
急に世界が広がったようで、今までとは見えていたものが、がらりと変わった瞬間だった。ものにはそれぞれ意味があるとわかった。全ての意味を知りたい、世の中の何もかも覚えたい――
目が覚めて、ジェイクは慌てて身を起こした。城内はまだ誰も起きていないのか、静まり返っていた。村の農作物を運ぶ仕事をしていたときの癖で夜明け前に起きてしまう。ユリィはことを済ませて静かに帰ったのだろうか。
落ち着かない気持ちで自分の身を整え、王太子が起きる時間まで待ち、身支度を手伝う侍女たちと共に入室した。
「殿下、お加減はいかがですか」
王太子は昨夜とは打って変わって爽やかな顔をしていた。波打つ金色の髪が朝日を受けてやけに輝き、白目も充血せずに碧い虹彩を引き立てている。その瞳の奥から自信のようなものが漲っていた。
「ああ、悪くない」
ふっと目元が上がり、次いで唇の両端もきれいに上がる。病的な痩身ではあるが、王太子は元々整った顔立ちをしている。その微笑みを間近で見た侍女の耳が赤く染まった。ジェイクも、見慣れたはずの王太子が芸術的に美しく見えて目を離せない。一体ユリィは、王太子にどんな魔法をかけたのだろう。一晩で人がこんなに変わるなんてあり得るのだろうか。
「またそんなに私の顔を見て、見飽きないのか?」
朝日が王太子を祝福しているのか、眩しいほど輝いて見え、いっそこの世の者ではない何か、神々しい存在に感じた。昨日の酒すら残っていない。――もしかしてユリィは殿下を殺してしまったのか?今見えているのは亡霊かもしれない。
「あ……二人きりで話したいことがございます」
「いいだろう。お前たちは下がれ」
侍女たちを下がらせて二人きりになってから、ジェイクは静かに尋ねる。
「ユリィは昨日何を?」
「聞きたいか?」
面倒な返され方をされ、ジェイクはようやく王太子が人間に見えてきた。今は少し意地悪そうな笑みを浮かべている。
「そうだな、ユリアレスもジェイクに頼まれて来たとは言っていたが……あれは、もっと心の奥底からの言葉であった」
「ええ、ユリィも殿下を心配していましたから。それで何と?」
なかなか本質にたどり着かない応答にジェイクは苛立ち始める。
「そう急ぐな」
「急いでいません」
くっくっと王太子は機嫌良く笑い出す。ジェイクは焦らされて気になって仕方がなかった。
「ユリアレスから捧げものを受け取った」
「……捧げものとは、何でしょうか?」
ジェイクの記憶では、昨日のユリィは短剣くらいしか持っていなかった。それはないだろうから、あとは彼女自身しかない。
「お、お前……そんなに面白い顔をするな……笑ってしまって、言えないだろう」
王太子は腹を抱えて笑い出した。苛立ちによって、ジェイクのこめかみがドクドクと音を響かせる。やっぱりこの人は嫌いだ、絶対好きなんかじゃない、と内心で思う。
「教えて下さい、何を受け取られたのですか?」
「……忠誠だ」
息を継いだ王太子が答えた。
「忠誠、ですか……」
「そうだ。先王には決して、ひとかけらも捧げなかったそうだが、それを私に寄越すという。そして、私をこの国の王として認めると言われた。ユリアレスならいつでも私を殺し、この国の王になれるというのに」
ジェイクは動揺を悟られないように唇を噛む。昨夜ユリィが、『この国をめちゃくちゃにしてやろうと思ったこともある』と言及していた。それでも、ユリィは選び、決断した。彼を王にすると。それがジェイクの為なのか王太子の為なのかはどうでもいい気がした。
「ユリィの決断に間違いはありません。それがこの国の為に一番良いと思ったのでしょう」
「はは……そうだろうな。ユリアレスが私を王にすると言うのなら、この世界の王も同然だ」
軽く笑う王太子の尊大な態度は今に始まったことではないが、昨日までよりずっと威厳があるようにジェイクは感じた。
王太子はどうやら良くも悪くも、精神の状態が肉体に強く影響を及ぼす体質らしかった。今までは母親からの増悪が王太子の心身を削っていた。だが、子供の頃から憧れていたユリィに王として認められたことで自信が生まれたようだった。
「それから、記憶がある限り……覚えている限り人は死なないと、ユリアレスに教えられた」
昨夜は酒瓶が置かれていたテーブルに目をやり王太子は呟く。侍女が片付けていったので、今は何もない。亡くなった国王の話になると、ジェイクは胃がすくんだ。まだどういう顔をしたらいいのか、何と言うべきかわからない。
「精神論ではあるが、頷ける点もある。私はいつも記憶に囚われ苛まれているのだから。だから心の中の父上に自信を持って、『勝った』と言えるまで戦えと言われたよ」
「そうですか」
ユリィらしい考えだと感心しつつ、ジェイクは心の中に自らの父を思い浮かべた。ときに助けてくれるが、強く頼れる父の境地は遥か彼方で、まだまだ遠くに思えた。もちろん、美化してしまった部分も大きい。
「長い戦いになるでしょうね……父を超えるというのは」
「全くだ。まあ、少しずつでもやるしかあるまい」
残酷なことだが、国王が亡くなってから王太子がやるべきことはいくつもある。まずは国葬を執り行い、それから王になるための戴冠式が予定されていた。
怒濤のような日々が過ぎ、エミリアーノ王太子は正式に王位を継承し、国王になった。祝賀式や宣誓式など、更に式が続く。
いつの間にか季節は夏へと移り変わっていた。王城へ照りつける陽射しは強くなり、窓を開けても室内に熱気が籠る。通り抜ける風はぬるく、気を付けないとしたたる汗で書類を濡らしてしまうのだった。
「毎日熱いですね。という訳で今日は冷たいお菓子を持って参りました」
ユリィは式がある日を除いて、毎日城を訪問していた。エミリアーノ国王陛下への忠誠の証として、体調管理まで請け負うことになったらしい。
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