第13話 登るのはたやすく

 雨が降りしきる夜、ユリィは城を見上げ、顔を覆う黒い布の下でひとり笑った。こんな雨では、城の見張り兵など役に立たないだろう。雨雲に覆われ、月も星明かりもない闇夜だが、ユリィの目には昼間と変わらずくっきりと世界が見えていた。


 希少なモンスターの素材を用いた、防水透湿の装備を着ているので雨も気にならない。ユリィは、輪をつけたロープを頭上で軽く回し、勢いをつけて飛ばした。


 王城は細い円錐形の塔をいくつも繋げた構造となっている。権力の象徴としてなのか、尖塔が天を貫く槍のように伸びていた。そこに輪を引っかけて登る作戦だった。


 ――流石にちょっと難しいけど。


 二回外し、三回目でようやく輪投げは成功した。あとはロープをすいすい登り、ユリィは頂きの尖塔に到着した。輪を外し、ロープをしまう。手に松脂の滑り止めを塗り、ジェイクの部屋のバルコニーにはフリークライミングの要領で降りた。


 城の構造をふと見たときに思っただけだが、ここまで簡単だなんてとユリィは拍子抜けしてしまう。尤も、魔力の恩恵を受けているユリィ以外には出来ることではない。


 ガラス扉をノックしようとして、布きれが挟まっているのに気付く。完全に閉まっていないので、ドアノブのない外側からも引っ張れば開いた。


「ジェイク?」


 ジェイクらしい気遣いだとユリィは思った。部屋は無人だが、中央にあるテーブルには水気を拭く布などが用意されている。室内履きまであった。豪華な絨毯を濡らさないよう、防水の装備を脱いでバルコニーのドアノブに引っかけた。ブーツも室内履きに替える。


 ユリィは水気を拭いながら、室内を見渡した。壁には切り込み細工が入って、燭台のひとつひとつまで細かな装飾があった。


 赤銅色の天蓋が付いたベッドに近寄り、ユリィはふと自分が何をしに来たのか疑問に思った。ただ以前のように二人きりで、遠慮なく話したいと思っただけだが、夜中にこんなロマンチックな部屋はいけない気がする。


 ジェイクの趣味ではなく、単に割り当てられた部屋だとわかっていても落ち着かなかった。


 どう待っているべきか悩んだが、無難にソファに掛けた。目の前のローテーブルに水差しがあったのでコップに一杯の水を飲み干し、手の甲で口元を拭う。


 微かな音を立て、ドアが開いた。ユリィはびくっと体を反応させ、手燭を持ったジェイクの姿を認めた。一本の蝋燭のつくる影が室外へ長く伸びていた。


「あっ……ジェイク。勝手に入ってたよ」

「う、うん。無事来れて良かった」


 ジェイクは後ろ手にドアを閉めて、鍵をかけた。


 闇に浮かび上がる彼女の白い脚を見てジェイクは驚いた。ユリィは雨に濡れた防水装備を脱ぎ、ショートパンツとスタンドカラーのシャツという軽装だった。ほとんどの女性はロングスカートを着用しているので、見てはいけないもののように思えた。


 それに今夜も王太子から戯れに、ねやの技術が描かれた巻物を見せつけられたばかりなのだ。ジェイクは落ち着かない気持ちになった。


 ジェイクは手燭をローテーブルに起き、勢いよく濃紺のガウンを脱ぎ出した。


「えっ? 何で脱ぐの?」


 ユリィは座っていた腰を浮かしかける。


「足が冷えちゃうよ……寒くないの?」


 ジェイクはガウンをユリィの足にかけ、心配そうな顔をする。下には白のシャツを着ていた。


「……あ、寒くはないけど、ありがとう」


 体温の残る温かいガウンを引き寄せたものの、ユリィは体が熱く感じていた。


 ――そう、まさかジェイクがそんなこと。勘違いしちゃった。


「ユリィ、ひどい雨なのに来てくれてありがとう。すごく嬉しい」


 隣に自然に座ったジェイクは微笑んだ。安心感と同時に、胸のざわめきをユリィは感じた。


「ううん、今は暇だから。雨の時期が終わったら種蒔きとかでちょっと忙しくなるし今のうちにゆっくり話したかったの……」

「話って?」


 ジェイクは控えめに首を傾げた。


「あ、話っていうのは……別に何もない……けど」


 ただ何となく、ジェイクが離れていくようで寂しかったなどとは言えず、ユリィは生地の厚いガウンを撫でた。膝を抱えようとして、行儀が悪いかとすぐに脚を下ろす。そんなユリィの様子をジェイクは微笑ましく見ていた。王太子や騎士たちの前では決して見せない姿だと思った。


「僕はユリィが居てくれるだけで嬉しいよ」

「ほんと?」

「ほんと」


 ジェイクは手を伸ばしかけて、勝手に触らないと誓ったばかりだと思い出し、引っ込める。気まずい沈黙がしばらく続いた。以前までの二人の間には決してなかったものだった。


「……ユリィ。僕ばっかり来てもらってごめんね。次は僕が村に行くよ。殿下が寝てからだから遅くなるけど……」

「ううん! 私が勝手にしてるだけだから、ジェイクは新しい仕事に集中して」

「でも……」

「本当に、がんばって欲しいの。気にしないで」


 ユリィが強い語調になるのでジェイクはそれ以上は言わないことにした。代わりに何か言えないかと必死に考える。


「僕に出来ること、何かない? ユリィがやってみたいこととかあれば」

「急に言われると……うーん……」


 特に何もないと言うのも少年の自尊心を傷つけそうで、今度はユリィが頭を悩ませた。ただ一緒に過ごしていたいとも恥ずかしくて言えなかった。必要最低限の家具しかない部屋で、何が出来るのか。


「か……壁ドンとか?」

「かべどんって?」


 苦し紛れにユリィは呟いた。前世の、埃にまみれた古い記憶を引っ張り出したものの、当然何のことかジェイクには伝わらない。栗色の瞳が未知のものへの好奇心で輝く様子にユリィは慌てた。もうこれは、やっぱ今のなしでは済まないと、長い付き合いで知っている。


「まあその……日常に刺激を与えるスパイス的な……? こっちに来て」


 ユリィは覚悟を決めてガウンをソファに残し、何もない壁を背にして寄りかかる。戸惑いながらジェイクも立ち上がった。


「もっと近くに」

「う、うん」


 ユリィはやけくそ気味に遠慮するジェイクの手を引っ張った。


「……それで、私の手首を掴んで、壁に押しつけて」

「な、なんか悪いよ」

「いいから」


 両の手首をジェイクに掴まれるとユリィも妙な気持ちになった。ユリィの力ならいつでも振りほどけるが、思っていたより動悸が激しくなった。


 ――ジェイクにこんなことさせて、私は何をやってるんだろう?


 ユリィの内心の問いに答えはなかった。考える余裕はもうない。


「これ、すごく悪いことしてるみたいでドキドキする……ねえ、ユリィはこういうの、どこで知ったの?」

「女子の間でだけ伝えられる本があるの」


 それは嘘ではなかった。ユリィの前世での経験だったが。ジェイクの顔があまりに近く、左右どちらの瞳を見たらいいかもわからなかった。自分の視線がさまよっているのが悟られていると思うと、恥ずかしさに顔が熱くなった。


 ――手首掴ませたのは間違いだったし……壁ドンは本当はこうじゃない。壁に手をつけるんだった。もう訳わかんない。


「ジェイク……これはほかの人に絶対やったらダメだからね」

「こ、こんなことしないよ!」


 訂正するのは諦めてユリィは誤魔化した。ジェイクも顔から耳朶まで赤くしているのが、はっきり見えていた。


 ――かわいい。ジェイクにこんなことさせて、ドキドキしてる私って変態だったんだ。


 昔に比べてジェイクの肩幅や身長が大きくなったのがよくわかったが、壊れものを扱うように触れている手の感触が、心臓の鼓動を速くさせた。


自分たちは、いつまでも続く関係ではないとユリィは感じていた。大人になるにつれ、変わってしまう。だけどもう少しだけ、とジェイクを見つめた。

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