第8話 泥沼
突然身分を明らかにしたエミリアーノ王太子をジェイクは改めて見た。声をかけてきた時点で何者かはわかっていた。
ポンの商会の関係先で肖像画を見たことがあった。ただやけに親しげに「古典的排中律についての本を探しているのだが、君はわかるか?」などと声をかけてきたので気づかないふりをした。ジェイクはユリィ以外にはあまり興味がない。
なので現在、ユリィに近付きすぎている点は気に入らなかった。いつだって彼女は特別な、注目を集める存在で、それは王太子でも変わらないだろうとは理解できる。
「私の求める少年とユリアレスが友人関係であったとはな。私は運命などは信じないが……私にとっては僥倖である。ジェイク、君はきっと私と分かり合えるよ」
振り向いてジェイクを見据える王太子の碧い瞳は暗く淀んでいた。言われた通り、その淀みには親しみを感じてしまう。心の奥深くに本当の自分を隠し、防衛のために知識を身につける人間ではないかと思われた。
「殿下、ジェイクは私の大事な友人です。もしこの図書館の管理人にされるおつもりならおやめ下さい……」
ユリィが少し掠れた声で訴えた。
ジェイクは心配してくれているのはありがたかったが、彼女の声や、赤みのある目元が気になった。先ほどの自分の行動がそんなに彼女を傷つけてしまったのかと胸がきりきり痛んだ。
「そうではない」
王太子は硬い床を踏みしめ、再びジェイクへと歩み寄った。
「まもなく新しい時代が来る。急がねばならない。ジェイク。私の侍従として私を支えてくれないか?」
突然の誘いにジェイクは、はっとした。
「……今日初めて会った私に、王太子殿下からそのような栄えある御言葉を頂戴できるなど想像も致しませんでした」
意外な申し出に驚き、はいともいいえとも言えなかった。更に『新しい時代』という言い方は政権交代を予想させた。
王位継承権第一位のエミリアーノ王太子であるので、手荒なことは何もする必要がない。ということは現在の国王に死期が迫っているのかとジェイクは初めての情報に胸騒ぎがした。なぜ、そこまで話すのか。
「私は権力闘争のしがらみがない、優秀な人物を探していた。そしてここの管理人から、図書館の本を全て頭に叩き込んだ平民の少年がいると話を聞いて待ちわびていたのだ。どうだ。私の下に来てもらえるか」
王太子は朗々と詩でも読むようによく通る声で話す。彼の肉のない体からよくそれだけの声量が出るものだとジェイクは関心してしまう。王族としての教育なのかと思った。
「ジェイク」
後ろから、ユリィが小さく名を呼ぶのが聞こえた。心配そうな声だった。しかし、ジェイクの心はもう決まっていた。
「……王太子殿下のお心のままに」
逃げではないと自分自身に言い訳しながらジェイクは答えた。例え雑用であっても、次期国王の下につくことは今までよりずっとユリィの為になるだろうとは確信があった。
ユリィの特別な力はときに危険視されるものでもある。現国王に良く思われていないのも知っていた。
王太子に付き従う騎士からいくつかの細かい話があり、3日後のジェイクの登城が決まった。
ジェイクとユリィは図書館の出入口の階段から外へ出た。まだ大雨は降り続いている。
「ユリィ、ちょっとだけ話をしてもいい?ポンさんの事務所に行こう」
「うん」
路地裏を歩き、別の路地裏へ。その間には雨が強すぎて会話は出来なかった。
改築を重ね、バランスの悪い建物にたどり着く。ジェイクが慣れたポンの商会事務所だが、ユリィは数年ぶりに訪れた。
中にいたポンとアミルは、雨風と共に陰鬱な空気をまとって入室してくる二人を見て目を丸くした。この世の終わりのように暗い顔であり、いつも仲良しの二人の間に何かあったと察するには十分だった。
「お……おかえりジェイク。あ、ボクこれから商談があるんだった。アミルもだよね?」
「そうだった! 俺としたことが、忘れてたなあ」
ポンとアミルはコートを羽織り、チラチラと横目で様子を窺いながら事務所を出て行った。
「……ユリィ、ここに来てくれる?」
ジェイクは長椅子にかけ、その横の座面を軽く叩く。今までの二人の距離であれば何でもないはずの距離だった。来てくれるかどうか、試していた。
「うん」
意外なことにユリィはすぐに、そしてごく自然にジェイクの隣に座った。少し上目遣いに見られてかえって動揺した。
ユリィは単に呆然としていた。王太子に侍従の職に誘われ、ジェイクがあっさり引き受けたことがショックだったのだ。
常に王太子のお側につく必要かあるので、お城に暮らし、もうほとんど会えなくなるんだと悲しみのあまり思考停止していた。
「仕事が変わるから、今までみたいに毎日はユリィに会えなくなるけど、ユリィのために出来ることは多くなる。僕がんばるよ」
「私のことはいいよ。応援してる。ジェイクの才能を生かせる良い機会だと思うから」
ユリィはジェイクの頭の良さには常々関心していたのでそれは問題なく言えた。
「……ねえユリィ。さっきはごめんね」
「え?」
ジェイクにしては主語術語のはっきりしない言い方にユリィはなんの事かと聞き返す。
「馬車の幌の中で」
「あっ……。ううん、いいの」
ショックの上書きによってユリィはもう動揺しなくなっていた。ずっと側にいて欲しいと思った直後に裏切られた、王太子殿下にジェイクを奪われたと思っていた。
「僕は……」
「うん」
雨に濡れてしまっていつもよりへたって見えるジェイクの猫柳色の髪の毛をユリィはぼんやり見つめた。
「僕はユリィが好きなんだ。ずっと」
色素の薄いジェイクの肌が赤くなっていくのをユリィは瞬きもせず見つめた。背後にある鳥の置物や、タペストリー、大きな金庫が目に入った。巻かれている羊皮紙の束、壺に無造作に入れられた銀貨や銅貨、大きな秤も認識した。
「……僕のこと、そういう風に思えない?迷惑?」
ジェイクに焦点を合わせると、大きな栗色の瞳に涙が溜まっていく。その涙を止めなければとユリィは思った。
「私も好き……」
「違うんだよ。ユリィのは違う意味なのはわかってるよ。だ、だからずっと言えなかった……」
違う意味の好きとはどういうことか、慌ててユリィは考える。もうジェイクの涙は決壊寸前に盛り上がっている。
「待って……えっと」
回転の鈍くなっていたユリィの頭脳が急に動き出した。
――ああ、そっか。ジェイクは私のことが恋愛的に好き……。と勘違いしてるんだ。一応身近な女性だから。子供っぽくてかわいいな。いつかは終わるとしてもちょっとならいいのかな。
「ジェイク」
「え?」
ユリィは勢い余ってジェイクの手を強く握る。
「ジェイクの言ってるのは……キスするとかそういうのを含めた好きでしょ?」
「そ、それだけじゃないけど。でも含んではいる」
今までにない分野の会話に、ユリィもジェイクも赤面する。
「確かに私は、今は違うかもしれない。けど、これからちゃんとお付き合いしてけば、段々そういう気持ちになると思う」
――何言ってるの私は?上からか?
言った直後にユリィの心に津波のように反省と後悔が押し寄せた。存在ごと収縮して消えたくなった。慰めたい、まだ少し惹き付けていたいと思っただけなのに何か決定的な間違いを犯した気がした。
だがユリィの発言は確かにジェイクに届いた。
それはジェイクにすら導き出せなかった、ジェイクが心の奥底で最も欲しい言葉だった。
愛する人物からの大きすぎる愛情と許しの前に、ジェイクの少年らしい自尊心は脆く崩れた。どんなに情けなくても、甘えてすがっていたいと願わせた。
「ユリィ、ありがとう……じゃあそうする。そうしよう」
ジェイクは握られていた手を握り返し、両手で包んだ。まだ潤んだ瞳のまま、ジェイクは微笑む。
ユリィは見慣れたはずのその笑みに少し違和感を覚えた。
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