第7話 記憶のしおり

 市場の馬車停めを出て、ユリィとジェイクは図書館へと歩いて移動を始めた。雨が強く打ちつけてもユリィは今だけは気にならなかった。寝起きにあった出来事に激しく混乱していたからだ。雨音で会話がままならないのも天の助けと思えた。


 秘密めいた路地裏から、非公式の図書館に続く。子供時代にアミルに紹介してもらってから長い。暗い階段を降りて辿り着く本の迷宮はそのままユリィの心を表しているかのようにごちゃごちゃと入り組んでいた。


「えっと、ユリィが言ってたビニール…みたいなものを作る方法いくつか考えたんだ。だけどちょっと難しい本の記述で、全部は覚えてないから手分けして本を集めよう」


 ジェイクは普段の調子で話すので、ユリィも何とか笑みを浮かべた。


「すごい、流石ジェイク」


「うまくいくかまだわかんないよ。ユリィは5-41-369の棚の『魔力の規則性と付加重合』という本を持ってきてくれる?」

「…うん」

「またこの場所に戻ってこれる?」


 本棚には細かく番号が振られている。王都の市場での仕事のついでに頻繁にここへ通い、自分の庭のようにジェイクは慣れていた。しかしユリィは年に一回、来るかどうかだ。ユリィが読みたい本はジェイクが運んでいた。


 心配そうなジェイクにユリィは拳を握ってみせた。


「大丈夫だと思う。行ってくるね」


 とにかく一度離れて冷静になりたい一心でユリィは足を急がせた。いくつもの本棚の角を曲がり、かなり離れてから、ようやく張り詰めていた気持ちを解放した。


 ――何なの、どうして寝てる私に勝手にキスなんてしたの?


 ユリィは自分の唇に指を触れてみる。指は唇の、唇は指の感触を伝えてくるがそれだけだ。さっきのものはまるで違った。


 ――唇って敏感なの知らなかった。


 思い出して赤面してくるのを誰にも見られないように蹲る。この迷宮で他の人間はまだ見たことはなかったが。


 ――ジェイクも男の子だし、そういうお年頃なの?興味があってしちゃったの?私で練習するつもりなの?それとも私が知らないとこで実はもう経験済みだから軽い気持ちだったの?


 溢れる疑問が渦を巻いた脳内は、気を抜けば停止しそうに混乱していた。


 ユリィは前世でそれらしい経験が何もないまま死んだ。趣味や仕事に没頭しすぎる性分が災いした。


 現世でも仕事に没頭しすぎた結果、ユリィは深刻にこじらせていた。


 最早何が恋愛感情か、わからない。恋愛というのは遠くにある星のようなもので、観測はできても生きてる間には到達できないものとしていた。自分の身に降りかかるなど想像の外だった。


 過分に与えられた能力によって、ユリィは養女ながら子爵令嬢となり、その他に農業への献身と大型モンスター討伐などの功績で聖女だ女神だと奉り上げられている。


 そのせいかまともに男性から声がかかったことがない。強すぎるから、女性として魅力がないのだろうと思っていた。


 ジェイクとも幼馴染なりの仲だと思っていた。小さい頃は、「大人になったら結婚しよう」「大好き」と花畑の花で編んだ指輪や冠のプレゼントと共に散々甘えてきていた。いつの間にか言わなくなったのは寂しいけれど、ジェイクが成長した証拠だろうと諦めていた。


 滲んでくる涙を止めようと慌ててあてもなく歩き出す。泣いてしまったら跡が残る。そうしてジェイクに気付かれるのは良くないと思った。


 ユリィは密かに、幼児のジェイクから「結婚しよう」と言われたあの瞬間をひどく大事に、勲章や宝物のように抱えていた。


だが、勝手にキスをされるのは違う。


大切な思い出を汚されたようでいやだった。ジェイクも大人になったと祝ったばかりだけれど、大人の男みたいなことをされたくないのだ。


「うっ……」


 喉が詰まり声が漏れた。こんなことで泣くのはみっともないと、気を紛らわす為にひたすら本棚の迷路を歩き続けた。



「迷った……」


 涙を止めることには成功したものの、ユリィは完全に道に迷っていた。ジェイクに頼まれた書棚の本だけは取り出してきたものの、帰り道がわからない。


 暗い気持ちでユリィは、懐から紫斃蛇ザンディーラの石を取り出した。嗅覚を強化する効果がある。


 ジェイクと子供の頃、一緒に北の山の洞窟を探検して『発掘』した石だ。ジェイクを危ない目に遇わせた苦い思い出も甦る。これを使って、慣れ親しみ、日だまりのように感じているジェイクの匂いを探すのも今はつらかった。


 ――やっぱりジェイクには大人になって欲しくない。ずっと子供のままで側にいて欲しい。


 間違った感情だと自覚はあったが、ユリィはそう思わずにいられなかった。


 石を使ってジェイクの匂いに近づくにつれ、他人の匂いと話し声をユリィは察知した。それも複数人だ。物陰から耳を澄ます。




「君は私の予想通り……いや私の予想を超えた人物だな」


 張りのある青年の声が聞き取れた。発音も美しい。

 誰だろうと本棚の陰から覗いたユリィは、ジェイクの後ろ姿と、相対する人物の顔を目にした。驚きのあまり夢かと思う。彼は令嬢教育で覚え込まされた、エミリアーノ王太子殿下の肖像画と同じ顔をしていた。


「君は……ジェイクの御友人だろうか?」


 波打つ肩までの金髪と、碧い瞳を持つ白皙の青年は素早くユリィを見つけ、つかつかと歩み寄った。この図書館が薄暗いせいだけじゃなく、青白い顔だなとユリィは思った。痩せこけ、目の下も落ち窪んでいる。


 彼の背後には、騎士二人がさりげなく身構えながらついていた。


「は、はい。御歓談中に失礼致しました。私はユリアレス・グラソーと申します」


 正式な挨拶をするべきかわからず、とりあえず子爵令嬢としての名前で自己紹介をする。彼は王太子としては随分、地味な服装をしていた。ジェイクに親しげに話しかけていたところからも、もしかしてお忍びかと推察したのだった。ジェイクは振り返り、曖昧な笑みを浮かべた。


「なんと、あの有名なユリアレスか?」


 眼前まで迫る青年に押されるようにユリィは後ろに下がった。彼はほとんど肉がついていない身体ながらユリィよりも背が高く、見下ろされる。


「その髪、その赤い瞳。まさにユリアレスだろう。威圧感が違う。まさかここで会えるとは……」


 青年は削げた片頬に皺を寄せた。笑っているのかとユリィは呆気に取られて見つめる。


「私は、バーフレム国の第一王子、エミリアーノである。ユリアレス、ジェイク。君達の力を貸してもらいたい」

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