第8話 夏休みにホタルはいない

 市内を流れる二つの川――犀川と浅野川に挟まれた小高い丘の海側の先端にK城は築かれている。元々は戦国時代のものらしいが、明治初めの火災で何度目かに焼失した後に復元され、周囲は公園として整備されている。

 街の中心に位置するが、とはいっても山が近いためなのか、伏流水の神聖な力が作用してるのか、公園内の水路――白鳥路では毎年6月にホタルを見ることができる。


 特に予約も参加費も要らないので、毎年私はふらっとホタルを見にゆく。今年も行った。

 まだ観光客も少なくて、ほぼ真っ暗な中で人々は黙って水路に眼を凝らす。


 淡い光。彼らは一匹が発光すると釣られる性質があるのか、群れの光は波打つようにゆっくりと光が流れるようにも見える。


 ひときわ大きな光になった時、私は小さく歓声を上げてしまった。

 隣にいた女子がこっちを向いたので、すみませんと謝ろうと視線を向ける。ホタルの光が顔の輪郭を微かに見せる。ほぼ闇の中でも分かる美しく整った顔立ちだった。

 しばらく二人で並んでホタルを見て、何も言わずに別れた。彼女は私だとは気づいていないと思う。


 左織が一人でホタルを見に来ていた理由は知らない。

 多分、ホタルが見たいなあ、ぜひ見たいよねえ、とアピールしてみたが、奥手の春雨には夜に女子を誘うというハードルを突破できなかったんじゃないかな。今度、聞いてみよう。


 短い回想を終え、再び顔を上げて左織と眼差しを交差させる。

 彼女は今からおかしなことを言い出しそうな予感がしている。


「パペタ氏はどこにも行っていない」


 やっぱり彼女はさっき言ってた変な見解を繰り返した。

 いやいや、私が去ったと言うんだから、パペタ氏は去ったのである。

 

「今は黙ってるだけで、朱背を見守っているんだよ」


 うーん。心の中を改めて探ってみたがパペタ氏の気配はない。

 どう伝えようか考えているうちに諭すように繰り返す。


「パペタ氏は簡単に去らない、朱背の活躍をちゃんと見ようとしているはずだよ」


 野外劇について言ってるというのは分かったが、私は追っ手Bだからね。私がいなくても劇が成立するんでは、とか一瞬思ったが、追っ手たちは劇の愉快さを増す重要な役だし、春雨と組んで精一杯やるよ。


「朱背は公女プリンセスをやりたがってたって聞いたけど」


 春雨め。

 私の気の迷い的発言を左織に伝える前に、もっと大事なことがあるじゃろ。彼自身の気持ちについて。


公女プリンセスやってほしいなあ、ねえ、朱背、ってよ」


 突飛な指名だ。ふざけているのかと思って顔をよく眺める。

 彼女は劇について冗談を言う人物ではない。

 本気で公女プリンセスの配役を変えようとしている。彼女の考えを形成した、スケールのおおきな事象――積乱雲をモコモコと成長させる上昇気流のようなものを感じ取っておののく。


 元々どうだった? 左織は、公女プリンセスって、左手で大きく手を振る。

 右夏ゆうかにも春雨にもバイバイして、一人で学校を去ろうとしていた。あるいは、そういう自分を春雨に見せつけて、彼に変わって欲しいと願っていた。そうじゃろ?

 でも今は彼女の決意が揺らぎ、変わり果てている。 

 

 右夏ゆうか! 左織を導いてやってくれ! 頼むよ。


「朱背の声はね、ちょっと似てるからね、右夏ゆうかに」


 は? 何言ってんの。


「朱背が公女プリンセスやったら、春くんはちゃんとお別れできると思うな」


 彼女は意図を告げた。


縫丸ヌイマル縫丸ヌイマルじゃないって騒いだでしょ昨日。ちゃんと春雨は自分で選んだ。縫丸ヌイマルじゃないかもしれないぬいぐるみを。だからね、同じようなことをもう一回やりたいんだ、朱背のおかげで春くんは変わっていってる」


 どうやら左織の世界は春雨中心に回っているようだ……。いや違うか。彼女は心の中心――奥底に右夏ゆうかを残しているのだ。


右夏ゆうかの声で、春くんにバイバイって言って」


 そしたらやっと、春雨は右夏ゆうかにバイバイって言い合えるってか。

 

 左織の右手は太ももの横で固く握られている。

 様子のおかしさにようやく私は慣れてきた。


 ――右夏の事故から左織は右手を失ったように感じている。


 右手を見る度に不思議に感じるのだ、右夏ゆうかがいないことに。

 突然いなくなった右夏ゆうかのことを忘れられないままでいる。

 多分、春雨じゃなくて自分がそうなんじゃないかな。私は彼女の強さを大きく感じすぎていた。


 ――右夏ゆうかにバイバイって言って欲しいのだ。


 左織は自分で言えない。彼女は、パペタ氏とのお別れさえも受け入れられず、急な決別に怯えている。ずっと抱えていたのは、春雨や降秋くんだけじゃなくて、左織は完璧に隠していただけなのだ。超絶に綺麗なひねくれ者の公女プリンセス。王子を一途に好いている……?


 二人の、4か月の間だけの交際の話を思い出す。

 

 犀川の河川敷で手をつないで――正確には縫丸ヌイマルを真ん中にして二人と一匹で手をつないで歩いた時、彼女は縫丸ヌイマルの手を握った。だから、右夏ゆうかの代わりとして交際したんじゃないし、左織はやっぱり自分の心から春雨を好いていると私は直感する。


 気持ちを確かめてみる。


「おい左織、君が春雨に抱いている気持ちを二文字くらいで言い表してくれないか、今すぐに」


「私は……」


 なんだって? 全然聞こえんからいつもみたいに声張って。踊り場は舞台とおんなじだよ。


「私は……」


 言えてねえ。

 

 右夏ゆうかを気にしてるのか?

 期間限定で付き合ったのも、無理やりにバイバイしようとしてるのも? そのせいか。


 ようやく気付きはじめた彼女の心を考える。 


 パペタ氏を見つめる彼女の顔は、いつもはない戸惑いを帯びている。


 まあ、全部、春雨のせいだ。


 うじうじと悩んでるから左織も考えざるを得ないんじゃよ。

 今日の稽古前に、がばっと抱きしめて好きって言ったら全てが円満に解決したかもしれん。


 うん、全部、春雨のせいだ。


 そもそも、交際中の6月、K城のホタル見に行こうってちゃんと春雨が誘っていれば、二人は淡い薄緑――きっと神聖な力がこもっている柔らかな光を浴びて、問題は全て解決していたような気もする。 


 うん、全部、春雨のせいだ。ともかく、春雨の活躍を急かすとして……。


 6月に光ってたホタルはもういない。今ならその子供たち――幼虫が巻貝をばくばく食べながら大きくなってるはず。私は毎年パンフ読んでるんでホタルの生態には詳しいんだ。幼虫も光るらしいから、二人で網もって白鳥路に掬いに行けばいいね。今夜なんてうってつけじゃないか。


 左織の変な思い付きにはちゃんとトドメを刺しておくからさ。

 

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