10 守り人の屋敷

 慌ただしいランチタイムを終えて店を出ると、黒塗りの車が止まっていた。車に詳しくない私にも高級であることが見てわかる、艶やかな漆黒のセダンだ。今日は黎も仕事が休みらしく、石の使い方を教えてもらうという約束だった。


「お姫様みたい」

「どうぞ、姫。屋敷へご招待します」

 助手席のドアを開けながら、黎がわざとらしく言う。思わず笑うと、黎は「早くしろ」といつもの調子に戻った。車に乗り込んでから、バイト着のまま来たことを後悔した。薄手の白シャツに、漂白剤のしぶきが飛んでところどころ薄茶になった黒のパンツ。場違いかとも思ったが、運転席の黎も思いのほかラフな格好をしていたので安心した。黎は、昨日は真ん中で分けてアップバングにしていた前髪を今日は下ろしていた。その運転姿は、少し大人っぽく見える。

「石を使う練習をする前に、親父に挨拶だけしてくれないか? 昨日のことを報告したら会いたがってたから」

「分かった」

「もう守り人は引退してるけど、腕は確かだから。世話になることもあるだろうし」

 父親がもう一線を退いたということは、やはり黎が今の香月家の先頭に立っているのだろう。私とほとんど歳の変わらなそうな黎の肩に、どれほどの責任がのしかかっているのか計り知れない。


 車は郊外へと進んでゆく。海沿いをしばらく走ると、香月家の屋敷らしきものが見えてきた。南側を海に、東側を川に囲まれているらしい。川沿いの道へ入り、ぐるりと回って正面の門へ向かう。その距離の長さに、屋敷の大きさと香月家の歴史を感じた。

「日向永理さんを連れてきた。案内してくれ」

 門前で黎が窓を開け、スーツ姿の男に話しかける。その瞬間、車内へ潮の香りがなだれ込んできた。男が会釈をしてしばらくすると、大きな門が開いた。

「先に行っててくれ。俺は車を置いてくる」

「うん」


 獏のことも夢のようだったが、この屋敷も夢のように荘厳だった。門をくぐり進むと、屋敷の前に大きな庭が見えた。風情を感じさせる石組や灯篭のある庭は、丁寧に手入れされているようだ。向かって右側にある、樹齢何百年か想像もつかない大きな松の木と、左手にある大きな池が、存在感を放っている。男は、屋敷ではなくその池の方へと進んでいく。男の説明によると、日本でも数少ない、海水を引き入れている池なのだという。私の住んでいるアパートの敷地の何倍もの広さがありそうだ。

 男はその池に架かる橋の前で足を止めた。

玉兎ぎょくと亭で、旦那様がお待ちです」

 男は、潮入の池の中央を右手で指し示した。檜で造られた橋の先に、木造の平屋建ての建物が、池に浮かぶように鎮座している。水面に映るその姿に見惚れる間もなく、私は橋を進んだ。


 玉兎亭の前で、「私はここでお待ちしております」と男は立ち止まった。私はひとり、くたびれたスニーカーを玄関に揃えて置いた。「失礼します」と言ってから、和室のマナーでは言ってはいけなかったっけと冷や汗をかいた。そんな心配をよそに、障子の木戸の向こうから「ああ、どうぞ」と柔らかい声が聞こえた。恐る恐る木戸を開け、中に入った。

 室内は前後に二つの部屋があるが、それを仕切る襖は開け放されている。三方を囲む大きな窓からは、先ほど歩いていた庭がよく見えた。左手には、玉兎亭の名にふさわしい、霞がかった満月の形を模した丸窓がある。そして、座卓の奥に、紺色の着物に濃紺の帯を締めた初老の男性が座っていた。柔らかくも威厳のある佇まいだ。彼とこの部屋の雰囲気に緊張して、私は生唾を飲んだ。

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