Chapter2 覚醒

9 日常へ

 まず、好きな音楽をかける。これは早番の特権。小刻みで心地の良いイントロが流れ、空調の無機質な音と混じり合う。とろけるようなボーカルの声に体を揺らしながら、私はサロンに着替えた。肩の傷は癒えて、体のあちこちにあった痛みも消えている。太陽色の石のネックレスは、ロッカーに大事に閉まった。タイムカードを押すと、私は厨房に入った。

 私しかいない店内には、包丁があらゆる食材を刻む音と、小気味のいい音楽だけが響いている。早起きは苦手だけれど、一人で作業するこの時間は嫌いじゃない。なんだかすうっと気持ちが研ぎ澄まされていく気がするから。


 今日から、夏限定の桃のパフェが始まる。毎年定番のメニューだから、作り方は覚えている。大学一年生から働き始めたこのカフェも今年で五年目だから、私はいまやもう古株だ。泣きながら内定の報告をしたのに、そのあとすぐにひょっこり戻ってきた私を、店長は笑いながらも受け入れてくれた。

 桃を一つ手に取ると、甘美な香りが鼻をついた。十字に包丁を入れ、ねじりながら開くと、その香りが厨房いっぱいに広がる。私はなぜか、昨日の獏を思い出していた。人を惑わす餌ばへ招く、あの芳しい紫色の吐息を。黎は、あの紫の霧のことを夢境と呼ぶんだと教えてくれた。そこへ迷い込むと、並の人間は動くことすら叶わないらしい。

 昨日の戦いはあまりに非現実的で、今でも夢の中の出来事なんじゃないかと思う。黎は昨日ワイシャツ姿だったけれど、いつもは普通に働いて、たまにはカフェにでも行くのだろうか。血生臭い戦闘なんてなかったような顔をして、今日も日常を過ごすのだろうか。あの生意気な物言いの黎がかしこまって働いている姿は、少し想像しにくい。


 全ての桃を八つにカットし終えた時、客席の明かりがついた。

「おはよ、永理ちゃん」

「おはようございます」

 黒髪をかきあげながら裏口に立つ恵子けいこさんの姿が見えた。私の少しあとに入ってきたパートさんで、歳は六つ離れているけれど、一番気が置けない相手だ。けれど今日は、恵子さんの長い黒髪に、襲われていた女性の姿を思い出してしまう。


「かわいい歌声だね、この人」

「わ、すみません」

 音楽をかけたままだったことに気付き、私は慌ててスマホを止めた。

「止めなくてもいいのに。私も一人で仕込みの時は推しの曲流してるしね」

 恵子さんは朗らかに笑った。

「前に言ってたアイドルですか?」

「そうそう、自分たちの店で流したいなあって旦那に言ったら、もちろん嫌がられたけどね」

 カウンター席の椅子を引きながら、恵子さんは嬉しそうな顔でぼやいた。座ろうとする恵子さんに「のろけてないで早く手伝ってくださいよ」と声を掛ける。恵子さんは「はいはい、永理先輩」といたずらな笑みを浮かべ、スタッフルームへ入っていった。


 恵子さんは、イタリアンで修行中の旦那さんと、自分たちの店を持つことを目標にしている。惰性で生きてきた私にとっては、そんな夢を語る恵子さんの笑顔が痛いほどに眩しく見える。獏にとっては、恵子さんの夢もただの餌なのだろう。獏が私に『そそらない匂いだ』と言ったのは、私に夢も目標もなかったからかもしれない。恵子さんが瑞々しい桃のような味だとしたら、きっと私は、せいぜいかさましのフレーク味だ。

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