8 日向家と香月家

 黎が病院に行くのはどうしても嫌がるので、近くの私の家で手当てをすることにした。ワイシャツ姿の男と寝間着の女が、傷だらけで支え合いながら歩いている姿は異様だったようで、駅前では人の視線が痛かった。けれど、黎を放って何も聞かずに帰るなんて私にはできなかった。


「救急箱探してくるから、待ってて」

 洗面所に向かおうとすると、黎が「いや、必要ない」と私を引き留めた。

「肩、見せてみろ」

 黎の言うがままに、私はTシャツの袖をまくり左肩を見せた。細い切り傷から血が垂れて固まっている。

「獏の妖術でついた傷だ。包帯巻いて治すより、こっちのが早い」

 黎はおもむろに傷に手をかざした。すると、ワイシャツの隙間から青白い光が漏れだした。黎の胸元から腕へ、腕から指の先へ、その光が血管を辿ってゆく。そして黎の手のひらを介して私の肩に光が届くと、傷がきりきりと痛んだ。

「この程度なら夜には治る」

 黎が手をどけると、切り傷がみみず腫れになって赤くただれているのが見えた。いかにも化け物のつけた傷という風貌だ。これで本当に治るというのだろうか。


「何から話せばいいか、難しいな。日向、本当に何も知らないだろ」

 黎はコーヒーを一口啜ると話し出した。手当てを終え、私たちはローテーブルを挟んで向かい合っていた。もしかしたら、今頃、大介とここでケーキでも食べている未来もあったかもしれない。大介から別れの電話を受けたのは今朝のことなのに、ずっと昔のことのように思えた。

「そうね。私が聞いたのは、何かどうしようもないことがあった時、ネックレスについた石に『コウゲツ』っておまじないをかけると、何かが起こるってことだけ。母がくれたんだけど、母は祖母からもらったものだって」

「百五十年も経てば、正確に語り継がれることは無くなるんだな」

「ひゃく、ごじゅうねん……?」

「ああ、その石は明治時代から日向家で受け継がれているはずだ。俺の家にも同じように当主が引き継いでいる石がある。これだ」

 黎は、ワイシャツからネックレスを引き出した。その先には乳白色の石がついている。確か、黎が戦っていた時にベルトについていたものだ。黎が石を見せると、中心に月光のような青白い光の筋が見えた。さっき黎が傷を治してくれた時に光ったのは、きっとこの石だろう。

「当時の日向家の女当主は、三つの石に力を込めた。いつかまた大きな戦いが起きた時、この石が二つの家を助けられるように。そのうちの二つが、日向が持つ日長石にっちょうせきと、俺の持つ月長石げっちょうせきだ」

 日と月の石。確かに、それぞれ太陽と月の光を閉じ込めたような色をしている。

「戦いって、あの獏の化け物との?」

「そうだ。あれは見た目の通り獏と呼ばれてる。少数からなる一族で、元々は胴体も獣だったって話だ。夜に活動して、人の見る夢を餌にして生きてきたんだ。それがいわゆる夜の狩り。夢を食われることは睡眠を食われることに等しい。獏に夢を食われた人々は、だんだんと衰弱し、酷ければ死に至ることもある」


 遥か昔から、香月家は獏を相手に戦い、夜の守り人を家業としてきたらしい。ところが、百五十年前、獏が昼の狩りを始めた。眠っているときに見る夢ではなく、将来の夢や希望を食らい始めたというのだ。昼の夢を食われると、人はたちまち生きる気力を失い、数分のうちに抜け殻となり亡くなってしまうという。

 そこに現れたのが私の先祖、日向家の女当主で、香月家と手を取り合い獏の討伐に尽力したのだ。香月家は主に武力を、日向家は主に神通力を用いていたという。長い戦いに決着がついたのは、赤銅色の大きな満月の輝く日だったらしいと、黎は話した。


「そのあと、日向家は石を残して戦いから退いた。夜の狩りは続いたから、香月家はその後も石の力を借りながら今日まで守り人として戦ってきたってわけだ。獏の脅威は時代とともに忘れらさられて、もう稼ぎにはならないから、今は副業みたいなもんだけどな」

「それで、昼の狩りがまた始まったてこと?」

「ああ、今年の夏に入ってからだ。夜の狩りとは比べ物にならない死人が出る」

「信じられないような話だけど、実際に獏はいたわけだし、きっと本当のことなのよね」

 母は、こんなこととは知らずに私に石を託したのだろう。けれど、黎はきっと日向家が助けてくれると信じて、私の呼びかけに応えた。そして私は無謀にも獏と戦おうとした。

「ああ。だから、石から日向の声がした時、本当に嬉しかったんだ」

「百五十年前の絆が残ってるって信じてたの?」

「実際、来てくれただろ」

 黎はやさしく微笑んだ。

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