5 紫煙の夢境

「……目の前で困ってる人を放っておいたら夢見が悪いのよ」

 口では格好つけているが、私の胸は不安でいっぱいだった。獏の化け物は、ほう、と余裕そうな表情を浮かべながらまた少し歩み寄る。

「あと、この辺りは路上喫煙禁止区域よ」

 喋りながらも、女性を助ける方法はないかと思考を巡らせる。変身ができるのなら、念じれば武器くらいは出せるかもしれない。右手で胸元の石を強く握りしめるが、魔法のステッキひとつも出てきてはくれない。化け物は「初耳だ」と鼻で笑った。

「煙草消しなさいよ。携帯灰皿あるんでしょうね」

 何か、何か戦う術がないか。何でもいいから出てきてくれと念じるが石は応えてくれない。化け物はついに私の目の前に迫っていた。舐められている今なら不意をつけるかもしれない。

 化け物は、少し屈み顔を近づけると「うるさい口だ」と囁いた。煙草と獣の臭い、それから甘ったるい香りが鼻をつく。化け物が口元に人差し指を当てがう。きっとまたあの紫の霧の中へ引き込むつもりだ。あれに引き込まれたらまずい気がする。


 私は今しかないと、化け物の腹に向かって思い切り右の拳を打ち込んだ。が、化け物は片手で私の腕を止める。「やる気は認めよう」と言うと、化け物は私の右腕を捻り上げ、強い力で私の身体ごと投げ飛ばした。私の身体が後方へと宙を舞う。背中がアスファルトに叩きつけられ、鈍痛が私を貫いた。息を整える間もなく、襟ぐりを掴まれ無理やり体を起こされた。

「嬲りすぎてはいけないと分かってはいても、この表情は堪らないものだな」

 化け物は、空いた左手で私の頬をそっと撫でた。きめ細やかで死人のように冷たい手だ。化け物の右腕を振り払おうと藻掻くが、なかなか逃れられない。化け物は口の端を上げて笑うと、左手を頬から首筋へ這わせる。それから肩、腹へ。私は足をばたつかせたが、黒紋付の裾を少し汚すことができただけだった。そして、怯える私の表情を楽しむと、化け物はそのまま私の腹を殴り上げた。思わず声が漏れる。


 その時、視界の端に、足を引きずりながら逃げる女性の姿が見えた。こんな状況なのに、女性が無事逃げられたことに私は安堵した。化け物は私に夢中でまだ気が付いていない。怪我は心配だが、きっと逃げ切れるだろう。

 私も逃げなけれないけない。きっと戦って勝てる相手ではない。私は、服を掴み上げている右腕に思い切り噛みついた。化け物ほど鋭い牙はないが、予想外の攻撃に化け物は一瞬隙を見せた。私は咄嗟にその場を離れようとしたが、化け物はすかさず口元に人差し指を当て「しい」と息を漏らした。すると、化け物の吐いた煙がやはり紫色の霧となって私たちを包んだ。お互いの顔も見えないほどの濃ゆい霧だ。私はなんだかそれを吸ってはいけない気がして、咄嗟に口を左腕で覆った。


「一度は見逃してやったのに」

 背後から声がして振り向いたが、黒い袖がひらりと見えただけで、化け物の位置はすぐに分からなくなってしまった。

「それにしてもお前は母親とは似ていないんだな」

 次は斜め前から声がした。私の名前だけではなく母のことも知っているなんて。

「日向にしてはそそらない匂いだ」

「それなのに、どこからそんな気力が湧いてくる」

「人間はやはり理解できない」

 前から、上から、右から、あちらこちらから化け物の声が聞こえてくる。私は右腕を闇雲に振るったが、空を切るばかりで何の感触もない。完全に化け物の舞台に引きずり込まれてしまっている。

「やはり夢境でも動けるか」

 私は口元を覆うのも諦め、声を頼りに辺りを殴った。戦い方なんて分からない。高校まで新体操をしていた以外に運動の経験もほとんどない。変身したこの服だってどれほど力になっているのか分からない。それでも、ただ声を頼りにひたすらに霧を殴った。他になす術がなかった。化け物の声と、私の荒い息だけが響いている。


「お願い、力を貸して」


 私は石に両手をかざし、縋るように言った。その時、霧がまるで爆風を受けたかのように一気に晴れた。


 混乱する私の足元に、化け物が腹を抑えて伸びている。その先の砂埃から、私と同じような華美な服に身を包んだ青年が姿を見せた。青年は少し屈んで右脚を前に出し、肩を揺らして息をしている。


「だから逃げろと言ったんだ」


 それは、確かに石の声だった。けれど、喋っているのは石ではなく、数メートル先に立つ青年だった。

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