3 路地裏での遭遇

 私はもう、何と答えていいのか分からなかった。喋る石に従って走り出した自分はやはり平常心ではなかったのだろう。石は「説明してる時間がない。とりあえずそれ以上近づくな。戻ってくれ」と言う。それでも、私の足は動かない。混乱で、足を動かすことができなかった。

「近くにいるとまずい。……巻き込もうとして、すまなかった」

 相変わらず石は不愛想だったが、その声はわずかに優しさを含んでいた。


 私は路地裏に座り込んで、この状況を呑み込もうとした。石は、私を戦いに巻き込もうとしていたらしい。石が光って喋るなら、平和な土曜日に近所で戦いが起きようとしていてもおかしくないのか。


『もしも、世の理に外れるようなどうしようもないことが起きたとき、この石におまじないの言葉をかけるといいんだって』


 母の言葉を反芻する。母が、もしこんな未来を予想していたとしたら、なぜ私に石を預けたのだろう。母も同じように、今どこかで事件に巻き込まれているのかもしれない。考えすぎか。こんなところ早く立ち去った方がいい。明日のバイトは早番なのに。ぐるぐると巡らした思考ががんじがらめに絡まってゆく。


 その時、ざり、ざり、という足音と、何かを引きずるような音が聞こえてきた。それは、どんどんこちらに近づいてくる。掠れたような女性の呻き声もする。石の忠告通りすぐ逃げなかったことを悔やむ暇はなかった。もう音はすぐそこまで来ていた。

 私は、ビルの陰からその音の正体を確かめようと、息を殺して音のする方を覗いた。逆光でよく見えないが、女性は何者かに長い髪を引っ掴まれ、地面を引きずられていた。石の光は確かにその残酷な光景に向かって伸びている。

「そんなに喚かないでくれよ。味が落ちる」

 右手で女性を引きずり、左手に紙煙草を挟みながら、男が酷く爽やかに言った。男が女性を見下ろすと、その横顔が露になった。私はその男の異様な姿に、思わずひっと声を上げた。男、と言っていいのだろうか。黒紋付を纏った人間の胴体に、まるで獣の頭部が乗っているようだった。顔の中心が前方に突き出し、先のすぼんだ長い鼻の下に小さな口。伸びた鼻の付け根には、真横に向かって付いた白目のない真っ黒な瞳。その斜め上に、ぴんと立った耳。これによく似た動物を私は知っている。獏だ。


「妙な匂いがすると思ったら、日向の者か」

 私の小さな悲鳴に気付いた化け物がこちらを向いた。どうやら獣なのは頭部だけで、人間の言葉を話すらしい。この化け物も、なぜか石と同じように私の名前を知っている。光のないつぶらな瞳に射抜かれて、私は話すことも逃げることもできずにいた。女性が「たす、けて」と声を絞りこちらを見つめる。雑に扱われたであろう彼女の体は、あちこち擦りむいて流血している。白地に花柄のワンピースもところどこ擦り切れて黒ずんでいる。対照的に、化け物の黒紋付は皺ひとつない。その黒色は、私に死を連想させた。数秒後には私も地面に這いつくばっているのが想像できる。それほどに、私は男の醸し出す覇気に気圧されていた。

「今は見ての通り忙しいんだ、すまないね」

 ただの野暮用なんだというように涼しい声でそう言うと、化け物は私から視線を逸らした。それから女性を寝かせ、その傍にひざまづいた。

「食事の邪魔をしないでくれるかい。君も新顔のようだから、立ち去るのが賢明だろう?」

 男はこちらを見もせずにそう言った。この女性にしか今は興味がないのかもしれない。私は何とか足に力を込めた。今のうちに逃げなければと思うが、恐怖が足元に纏わりついて動けない。女性もわずかに声を振り絞るだけで精一杯のようだった。  

 そんな中、男が口元に人差し指を当て、「しい」と息を漏らした。男が吐いた煙が、紫色に怪しく染まり広がってゆく。それが煙草の煙なのか、それとも化け物の見せる幻なのか、私には分からなかった。紫色の煙はやがて霧となって、二人をすっぽりと覆い隠してしまった。先ほどまで聞こえていた女性の呻きはもう聞こえない。辺りには砂糖菓子のような甘い香りが漂っていて、まるで獲物をおびき寄せるための罠のように感じられる。何をしようとしているのかは分からないけれど、まずい状況だということだけは分かった。私はようやく動くようになった足で、急いでその場を立ち去った。

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