3
七瀬が泣き止むまでには随分時間がかかった。といってもそれは章吾の体感時間のことだけで、本当は数分間のことだったのかもしれない。
ぐしゃぐしゃになった頬を両手で隠すようにしながら、ふらりと七瀬が立ち上がった。
「ごめん。」
いつもの喧嘩のセオリー通りに、章吾が先に折れた。
俺こそごめん、と、七瀬が返してくることはなかった。
いつもだったら、どちらが悪くても悪くなくても、話はそれで済むはずだった。男同士の2人暮らしは不安定すぎて、そうやって辛うじてつま先立ちをしていないと、あっという間に崩れてしまいそうで。
七瀬は顔を両手で覆ったまま洗面所に引っ込んで行った。また随分と長いこと、蛇口から勢いよく水がほとばしる音が聞こえていた。
章吾は洗面所までとぼとぼ歩いて行き、七瀬の隣に立った。
鏡に映る自分は、随分と情けない顔をしていた。
「ごめん。潰れて後輩の女の子に介抱してもらったんだ。そのときなんかのはずみで口紅ついたんだと思う。」
随分半端な嘘になった。じゃぶじゃぶと冷水で水を洗う七瀬は、なにも答えなかった。強張った背中が章吾の方に向けられていた。
嘘がばれていることを、その背中を見て章吾は察した。
だからと言って今更本当のことが言えるはずもないし、嘘の上塗りをする気にもならない。
章吾は黙って鏡の中の七瀬を見つめていた。
いつもはヘアピンでとめている前髪も頬にかかる髪も、全部濡らして顔を洗い続ける幼馴染。
なんと言ったら許してもらえるのだろうか。誰かに教えてほしかった。
「寝てれば? 今日の講義は俺が代返しとくから。」
顔を洗う合間に、ため息みたいに七瀬が言った。
うん、と、章吾はその言葉に従って寝室へ向かった。それ以外できることが見当たらなかったのだ。
ベッドの中に転がり込んで、ばしゃばしゃと続く水音を聞いていた。もう七瀬は顔なんて洗っていなくて、泣き声を隠すために水を流しっぱなしにしていることは分かっていた。
そしてそのまま眠ってしまった章吾が目を覚ますと、辺りはすっかり闇に包まれていた。
時間が分からないまま、癖みたいに傍らの幼馴染の身体に触れようとして、そこに七瀬がいないことに気が付いた。
「……またか。」
リビングで布団にくるまっている七瀬を思い浮かべる。
どうしたら機嫌が取れるのか分からなかった。悪いのは自分だと全部認めて謝ったところで、七瀬はもう章吾を許しはしないかもしれない。
転々と寝返りを打ちながら、眠れない章吾はそんなことを一晩中考えていた。
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