2-1 能力社会

 それから五年の月日が経った。

 五年前に始まった「マーキュリー計画」が今年から導入される。ついに人は人という枠組みから解放される日が訪れようとしていた。

 元々、十年前に始まった戦争はAIによる技術格差の拡大が原因だった。テクノロジーの進化と反比例するように、人口は増え続けた。まず初めに食品問題や水問題が問いただされたが、そこは技術革新により、簡単に解決される。土地問題や、領土問題、難民問題なども、海上都市の建設を進め、事なきを得た。だがこれだけの文明の進化の裏には、やはりその根本となる問題が生じる。

 それは人自身の技術格差の問題だった。

 テクノロジーを発展させるのは人間である。産業革命が起こった時も、ウェブが誕生した時も、我々の生活は満足しうるものだった。テクノロジーは決して救世主ではない、それは進化というよりも、創造に近い。つまり現人類に見合わない、優秀な人間が必要となる。確かにそういった時代の寵児は複数人存在した。そして優秀な人間はAIによって複製することができた。つまりこの社会において、技術のない人間は不要となったのだ。人口が増えることによって、優秀な人間が生まれる確率は上がるが、それと同時に決して優秀ではない人間の数も多くなる。

「真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方である」ナポレオンがこう言葉を残したように、文明発展の最前線で、AIに劣る人間は邪魔だった。

 このような技術格差に直面した政府は様々な教育プログラムを充実させ、技術格差の拡縮に力を入れたが、それは大きな格差拡大を生むこととなる。

 確かにさらなる優秀な人材の獲得には成功したが、それによりさらに能力の差別化を図ってしまった。このテクノロジー世代以前の格差は、貧富の差であったり、家柄の差であったり、生まれた国の差であったたり、人種であったり、男女であったり、様々な要素による差異があった。だがインターネット社会が拡大し、もはや言語の壁すらもなくなってしまった現代では、生まれた差異は当人の能力次第でいくらでも変えることができた。ただそれは「出来ないこと」に対する言い訳はすべて失われたのと同義である。

 そこで優秀な能力を手に入れた者は口々に言った。「チャンスは与えた」と。「俺たちは努力をした」と。できないのはお前が悪い、家柄も性別も人種も貧富も障害も全てが平等化され、そして自分の努力次第で獲得できたその能力を、自らの怠惰で捨てた者たちに向けられた視線は、ただの軽蔑であり、それを救う者はどこにもいなかった。

 完全なる強者のみが生き残る世界。これはある意味では自然界の摂理なのかもしれない。過去人類史において、ネアンデルタール人が滅びた様に、劣等な因子は滅びるべきと考える学者も現れた。ここまでの教育問題を見直し、全ての人類に与えた平等は公然の不平等を作り出したのだ。

 だがそれは当然のことだった。全人類が決して怠けず、努力をできるわけではない、例え努力をしてもその結果に結びつけることができない者だっている。働きアリの二割が怠けている事実を、人類に置き換えて考えれば、この二割が八割にとっては公然に差別してよい対象であった。

 そして中枢都市から追い出された落ちこぼれたちは大きな劣等感を抱えたまま、ネットを介し、能力者と対立するコミュニティを築き上げたのである。

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