開戦
第44話 始まりのベルが鳴る①
“スラオーリの天啓”
万人が全く同じ意識を共有する唯一無二の瞬間。
その瞬間をどう表現すればいいのかは、何千年と経つのに未だに決まった言葉が生まれていない。
それは偏に人によって受け取り方が違うからだろう。
例えば、
「まるで温かい光に包まれているかのような体験」
「生まれ直したかのような爽快感」
「体の中心を何かが貫いたような衝撃」
そして、
「スラオーリと共にこの世界を俯瞰しているような全能感」
と表す人もいる。
人々は悟った。もしくは、知った。すべからく子供から老人まで。もしかしたら赤子までが。
たった今開戦され神試合に向けて谷が完全に塞がったことを。
辺りが一気に光ったような気がした。突然の浮遊感。本来ならそのまま落下に備えて体に力を込めるのに、まるでそのままゆっくりと着地できることが分かっているかのような安心感。
「ふ……」
満ち足りたため息を付いた。
どのくらいなのか分からないけど、僕はぼうっとしていたようだった。
自室。予知されていた日から十日早く。出陣式を三週間後に控えたその日。時刻は夜の十時過ぎ。
寝る準備を整えて机に向かっていた。
座っていた椅子から音を立てる勢いで立ち上がる。
天啓!
天啓だ!
不思議だ。とても気分が高揚している。
どうしても誰かと共有したくなって、慌てて掴んだ魔力端末が手の中で踊る。
「わっ、っと、あ、ぶなぁ……はぁ……」
ホッとしたことで心が少し落ち着く。手の中に収まった端末が新着の情報を教えるために何度も表示を上書きしていく。
あっと言う間に情報が広がり、世界がスラオーリの意思を共有していく。
すごい光景を目の当たりにしているのだと実感できる。僕と同じ思いをしている人が世界中にいるのだ。
リリン!
端末が着信を告げた。
『とうとうだな』
ヒダカからたった一言だけ文章が届いた。
『そうだね』
僕も余計な言葉は言わずに返信する。
受信入れにはたくさんの文章が届いているけど、一度端末をテーブルに置いて辺りの様子を伺う。
屋敷内が珍しく騒がしかった。みんなさすがに静かにしてはいられないのだ。
遠く、早くも浮かれて騒ぐ人々の声が届く。
窓に近寄ると、家々に段々と明かりが灯る。
いつもは閑静なこのエリアにまで商業エリアの歓声が届く。やはりこういうときに真っ先に動くのは商人だ。
今日はもう誰もまともに眠りにつくのは無理だろうな。
自分に変身魔法をかけると、クローゼットに近づいて変装用の服を取り出す。
コンコンコンと静かに扉を叩く音がした。こんなときに僕の部屋に来るのは一人しかいない。扉を開けて来客を招き入れた。
「どうぞ、兄さん」
「ルメル、大丈夫か?」
「うん。今から出ようと思ってたところ」
「いい判断だ。充分気を付けるように。みんな前回以上に浮かれてるだろうからな」
「うん、分かった。それよりここに来て大丈夫なの?」
「今は屋敷も落ち着かない。少しくらい大丈夫だろう。義母さんも舞い上がってパーティーの準備を始めているよ」
「なら早めがよさそうだね」
「ああ。あの様子だと明日の昼まで続くかもしれない。そうそう。行先はプロフェッサー・バレリエのところにしなさい」
「え、でも……」
「まさか勇者のところに行くつもりだったのか?」
兄が綺麗な笑みを浮かべる。
背後に何か恐ろしいものを背負っているように見える。連絡を取り合っているからといって、仲良くなったわけではないらしい。
「あー……じゃあ、セナのところは?」
「あそこにはヴェニーさんがいるだろう? ダメだ」
「エルゥは……」
「この騒ぎの中、教会に行くのは止めるべきだろう。巻き込まれるぞ?」
「だよね……」
多分、教会の中の慌ただしさは街中の比じゃない。スラオーリへの感謝を伝えるため、一晩中儀式と祈りを繰り返すことが簡単に予想できる。
「でもいきなり行ったらご迷惑をおかけするんじゃ……」
「大丈夫だ。いざとなったら訪ねてもいいと許可はもらっているから」
「さ、さすが兄さん……」
根回しは済んでいるというわけだ。
こうやって考えると僕の交友関係は本当に限定的だ。困ったときに頼れる人の少なさに笑うしかない。
「ルメル……。いや、メルシル」
「兄さん?」
久しく呼ばれていなかった名前で呼ばれていまいちピンとこない。
「いつか、必ずお前を解放してやれる日がくるはずだ。お前だけじゃない。あの子たちも。きっと今日が僕たちにとっての反撃の開戦の合図なんだ」
「兄さん……」
「今は戦うときなんだろう。本当ならもっと穏やかに暮らせたのにと思うと、父さんのこと、悔やまれる」
兄は本当に苦しそうな顔をした。思えば昔からこの人は苦しそうな顔ばかりしている気がする。
僕がヒダカと一緒にいる間、この人に助けてくれる人はいたのだろうか?
僕がセナやエルゥと笑っている間、心配してくれる人はいたのだろうか?
決意を込めて兄を見上げる。
「ありがとう、兄さん」
「メルシル?」
「いつも、私たちのために頑張ってくれてありがとう。戦うね。みんなのために、私のために」
僕は小さく兄を手招きすると、そっと耳打ちした。
「――血の契約は、呪いかもしれない」
はっきりと言葉にはしたことはないけど、兄は僕が血の契約をしたことを知っているはずだ。
音が出そうなほど勢いよくこちらを振り向く。
「メルシル……!」
「大変だと思うけど、そっちはお願いできないかな?」
「勿論だ。メルシル、お前もあの子たちも絶対に助ける。まあ、僕は騎士って柄じゃあないけどな。どちらかと言えば悪徳大臣か?」
茶化したような声に声を潜めて笑う。この人が意に沿わない、余り大っぴらにできないことをしているらしいことは知っている。
「ふふ。あのね、私は王子様らしいよ?」
「みんな言いたい放題だな。お前はどう見てもお姫様なのにな。助けるさ。誰からもお前らを守る」
「それは、僕の言葉かな。だって、兄さん弱いじゃない」
兄が傷ついた顔をする。これに関しては本当にかなり気にしているようだ。
「努力はしたんだ。それ以上言わないでくれ」
「僕は、僕の使命を果たすよ」
「ああ、頼んだ。僕はこの家を住みやすくするために、もう少し時間が必要そうだ」
兄が両腕を広げる。その胸に思い切り飛び込んで背中に腕を回す。ヒダカと比べるのは違うけど、細身の体だ。それでも僕より厚みのある、男性の体だった。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
「ああ、僕もパーティーに参加する準備をしないといけない」
「またね、兄さん」
「ああ、また会おう。ルメル」
きっと、兄妹として会えるのはこれから先、暫くは無理だとお互いに分かっていた。
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