第9話 逃走劇
「なにっ!」
いきなり扉が開いて、下っ端らしき声が響いた。心臓がゴトリと動いた。僕のことだろう。バレるのが早すぎる。もう少し回復してからじゃないと……。
「何をしているんだ! どうするつもりだ! もう時間がないんだぞっ!」
僕を人質にでもするつもりだったのだろうか。エイデンに対して効果があるかどうかは分からないけど、早めに逃げ出してよかった。
依頼人が焦ったように声を荒げて男を罵倒する。どうするつもりだろう。絶対に隠れていることはバレないようにしなきゃ。すると、それまで一言も言い返すことのなかった男が予想外の言葉を口にした。
「――降りるわ」
「……なんだと?」
「これ以上は分が悪い」
「なっ! 貴様!」
「商品は傷つけられねぇ、人質もいねぇ。どうしろってんだよ」
「貴様らの失態だろうっ!」
「だから、金はいらねぇって言ってんだよ。安いもんだろ? 前金分はしっかり働いた」
「待てっ! 貴様らっ!」
「引き際は見極めた方がいいぜ? おい、行くぞ!」
「リーダー! 待ってくださいっ……!」
言うだけ言うと、男はさっさと部屋を飛び出した。出遅れた下っ端が半泣きで後に続く。後には怒り狂う依頼人とエイデンだけが残された。
「くそっ! くそっ! 逃げるだと? ふざけるな! そんなわけにはいかんっ!」
「いい加減諦めたらどうだ?」
「諦めるだとっ! 平民の分際で私に指図するつもりか!」
もう”勇者様”を丁寧に扱う余裕もないようだ。依頼人の足が部屋の中を歩き回る。何かを呟く声だけが聞こえる。飛び出すべきだろうか。エイデンが何も喋らないのが気になる。彼もタイミングを見計らっているのかもしれない。
「そうか」
そのとき、依頼人が妙に明るい声で言った。
「そうだっ! そうさっ! くく、ははははは!」
突然笑い出した大人にどう対応したらいいのか分からない。僕も――多分エイデンも――呆然とした。
依頼人は続ける。
「勇者様。私はね、遠く、龍族の血が入っているんです。もう大したものは残っていないと思っていましたが……。翼だけは衰えなかったっ!」
「うわっ!」
ガシャン! 何かの瓶がエイデンに当たって割れて落ちた。中身は液体だったのか、絨毯に染みができる。
「なんだ……? 水?」
「無色透明ですからねぇ。分からないでしょう?」
何? 何をかけられたの? 無色透明の薬品? たくさんありすぎて分からない。
「何をした……?」
「認識阻害の薬品ですよ。使用していることを知らない限り、暫くの間は誰からも見えなくなる貴重な物です。これで私が貴方を運んでも誰も気づかない」
「は……?」
「さて、ここで私が先ほどのモノを飲んだらどうなるか? さぁ、行きましょうか。勇者様」
「行くわけ、ねぇ! だろっ! ……あ?」
「おっと、言い忘れておりました。この部屋の香りはお気に召しましたかな? 痺れ薬入りですよ。少量なら効果はないですが、貴方はここに数時間いましたからね」
「く、っそ……」
エイデンが膝を付いた。
まずいっ! 僕はドレープになっているベッドカバーを跳ねのけて飛び出した。そのまま依頼人に体当たりして突き飛ばす。ゆっくりと倒れ込む依頼人の腰へ馬乗りなってナイフを頭上に構えた。そこまでは自分でも流れるように動けたと思う。あの部屋を出てから叩き込まれていたことが役に立った。
でも、そこで止まってしまった。脅しで使うのとは訳が違うのだ。訓練はここまでしかしない。当然だ。人を刺す訓練なんてしないし、それはきっともう訓練じゃない。ロープは残っていないから、縛ることもできない。段々と手が震えだす。フゥー、フゥーと呼吸が荒くなった。
「……っは? 何だ! 貴様は!」
男の叫び声がして完全に体が硬直する。ナイフを取り落とした。
「あ、あ……」
「お前っ! いつの、間に……?」
エイデンも驚いている。僕の固有魔法は勇者様にも有効だったらしい。なのに僕に気付いているってことは、固有魔法の効果が切れたということだ。もう無理かもしれない。どうしよう、どうしたら……!
呆然とエイデンを見上げていると、何かを言おうと口を大きく開いている。何だ? に? げ? ろ? にげろ? 逃げろ!
その瞬間首に悪寒が走ってその場から床へ転がり落ちた。振り返ると依頼人が上体を起こしていて、僕を捕まえようとしたのだろう両腕が空振りしていた。すぐに四つん這いでエイデンの方へ逃げる。二人並んで肩を寄せ合った。
「は、はははっ! どうやって入ったのかは知らないが、奇襲は失敗したようだな」
男がジリジリと近づいてくる。エイデンはもう暫くは動けないだろうし、僕ももう限界だ。せっかく来たのに、何の役にも立てていない。このままじゃエイデンが連れて行かれて、僕はまた――。
「来るなっ!」
思わず叫ぶと、いきなり男の動きが止まった。
「え……?」
エイデンの間の抜けた声が聞こえる。僕は急激に荒くなった呼吸を整えるのに精一杯だ。胸を抑えて小さくなる。
「これ、お前の固有魔法か……?」
ゆっくりと立ち上がって依頼人の肩を指先で突いている。さすがは勇者様だろうか。痺れ薬の効きも悪い上にすぐ切れるらしい。しかもたった一回で僕の固有魔法に耐性ができたようだ。呆れて息を強く吸った瞬間、喉を強烈な違和感が襲った。
「ゲホッ! ガッ! ガハッ!」
「おいっ! おい! どうしたっ!」
口元を押さえた手には血が付いていた。無理をし過ぎたのかもしれない。契約完了前に死ぬわけにはいかないのに。
「血吐いてるじゃん! おい、お前大丈夫なのか!」
「い、ゲホッ、ゲホッ! いい、から。今の、内に……ゲホッ、ゲホッ!」
「で、でも……。分かった。歩けるか……?」
苦しい。無駄に話しかけないで欲しい。本気で睨みつけると、痛む体を誤魔化しながら無言で頷く。本当は立ち上がるのも辛かったけど、ここで歩けないと言って何になる。床に両手を付くと、でもそれが精一杯だった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
「お前……。乗れ」
「……はぁ、ぇ?」
目の前に、しゃがんで背中を向けたエイデンがいた。どうやら運んでくれるらしい。普段なら断るところだけど、もう魔法を維持するだけで精一杯だった。力を振り絞って背中に乗る。
「ぅ、っし! 行くぞ」
重かったらしい。それはそうだろう。僕らはほとんど体格が変わらないのだから。
小さく頷くとエイデンは依頼人の隣を通り過ぎ、静かに扉を開いた。部屋を出てからは楽なものだった。僕の魔法は目に入る範囲にしか効かないけど、男は何が起こったのか分かっていないのか中々部屋から出てこなかった。廊下には誰もいない。さっき見た人たちのほとんどがあの男の部下だったみたいだ。
エイデンは悠々とそこを早足で抜けていく。
「ど、こ、ぃく……?」
「話して大丈夫なのか?」
首を横に振る。胸の辺りが痛くて痛くて仕方ない。
「とりあえず騒ぎが起こってる方に向かってる」
なるほど。確かにそちらへ向かえば警護官や味方がいる可能性が高い。
「オレ思ったんだけどさ、いま、お前浮いてるように見えるんだよな?」
「……?」
何の話だろう? 首をかしげる。
「だってオレ、見えてないんだろ?」
「ぁ……」
どうやって警護官に説明しようかと悩んだけど、とうとう色々限界だったみたいで。その後の僕の記憶はない。
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