第10話 懐かれた
鳥のさえずりが聞こえる。瞼の裏が明るい。あの部屋を出てからこの明るさに慣れるまでかなり時間がかかった。朝起きて外が明るい。それが当然になったときは心の底から安心したな、と思い出す。
「ケホッ、部屋……?」
朝日の手招きに逆らわず、ゆっくりと瞼を上げる。僕の今の部屋だ。弾力のあるベッドと清潔なシーツ。何だかとてもその質感が懐かしくて、顔を寄せて頬ずりした。
僕は一体どうしたんだっけ? 一般的な子供部屋に比べれば広い室内をぼんやりと見る。ここにいるってことはあそこから助け出されたんだろう。エイデンは大丈夫だったかな。特に怪我もしてなかったし、きっと大丈夫だったんだろう。じゃないと、僕がこの部屋に戻れるとは思えない。
何度か瞬いていると喉が渇いていることに気付いてしまった。飲み物を取りに行きたいけど、体がだるくて仕方ない。でも、呼び出せるような人は僕にはいない。仕方なくゆっくりと体を起こした。
ガチャ。突然扉が開いてエイデンが現れた。予想外のことに呆然としてしまう。
「あ、お、起きてんのかよ!」
寝起きの頭に大声が響く。力の抜けた体では耳を塞ぐのも一苦労なので、首を竦めて不機嫌な顔をしてみせた。
「あっ、悪ぃ……」
沈黙。なんなのだろう。彼はなんでここにいるのか。だめだ、頭が回らない。とにかく何か、
「のみもの……」
「あ、ああ! 喉渇いたんだろ!」
焦ったように早口で聞かれて、怠いのに三回も頷いてしまった。
「待ってろ!」
なんでエイデンはあんなに元気なんだろう。様子がおかしい。でも、あの調子なら何か飲み物を持ってきてくれるかもしれない。
今の僕は清潔な部屋や栄養のある料理、教養なんかの“首相の息子”らしい生活はさせてもらってるけど、基本的にこの屋敷で誰とも会話ができない。兄さんはいつの間にか寄宿舎に入れられていた。僕に会わせるのは不都合があるからだろう。妹たちも親戚の家に預けられたし、明るい光の下に出ても僕は一人きりだった。
だから。
だから、誰かが僕のために動いてくれていることに少なからず感動してしまった。体調が万全じゃないからっていうのもあるかもしれないけど。
五分も待たない内に、エイデンと使用人がワゴンを持ってやってきた。その上にはホットミルクや水、湯気の立つスープ、柔らかそうなパンが乗っていた。
見た瞬間、いきなり目の奥がキリキリと痛みだした。乾いた喉を無理矢理動かして、何度も瞬きをして誤魔化す。
「何飲む? 水? ミルク?」
「みず……」
「ん。お前さ、三日も寝てたんだよ。熱も高くてさ、死ぬんじゃないかと思った」
手渡された水を両手でそっと掴む。冷たくも熱くもない温度が体温に馴染んで、そっと口に含むとジワリと体に溶けていった。
「美味しい……」
「そっか……。ゆっくり飲めよ?」
柔らかい声に静かに頷いた。
エイデンは僕が水を飲み終わるまで静かに側の椅子に座って待っていてくれた。
「水、まだ飲むか?」
それには首を横に振る。
「じゃ、スープは? パン、は口乾きそうだよな……。て言うか、お前ミルク好き? オレは好きなんだけど」
「ありがとう」
「ぇ……?」
「水、美味しかったよ。ありがとう」
顔を笑顔にするのも一苦労だったけど、口は自然と上向きになった。
「エイデン?」
エイデンは何故か僕の顔を見たまま止まってしまった。暫く眺めていたけど、余りに動かないので声をかけた。
「ヒダカ」
「え、なに?」
「ヒダカだよ、オレの名前。前の世界ではみんなそう呼んでた、と思う。あんまり覚えてないけど。だから、お前はオレのことヒダカって呼べよ」
「いいの?」
「ルメル」
僕は目を見開いた。
「名前、知ってたの?」
その質問に、ヒダカは顔をそっぽに向けて答えてはくれなかった。
それからさらに三日間、僕はベッドから出ることができなかった。固有魔法の過剰使用と極度の疲労。予想通りの診断結果だった。
「オレさ、固有魔法ってあんまり詳しくないんだけど、制限があるんだろ?」
「うん。僕は一回に長時間使うと体力をすごく消耗する」
「オレもあるのかな、固有魔法」
「うーん、どうかな。勇者が固有魔法を持ってたっていうのは聞いたことないなぁ。その代わりに無詠唱で色々な魔法が使えるらしいけど……ってこれはさすがに知ってる、よ、ね……?」
ヒダカは僕が眠っている間も、その後の三日も、そして出歩くことを許可された今日も見舞いに来てくれた。毎回何かしらの見舞いの品を持って来てくれるものだから、僕の部屋の小さなテーブルの上は彼からの花やフルーツ、お菓子で埋め尽くされている。
お陰で怖いくらいにシャリエの機嫌が良い。あの人の思い通りになるのは少し悔しいけど、ヒダカと仲良くなれた――と僕は思ってる――のは素直に嬉しかった。
「知ってるよ。ちゃんと勉強した」
「そう……? なら、いいんだけど」
拍子抜けした。ヒダカのことだから、また食ってかかってくるかと思った。彼は苦笑して出された紅茶を飲んだ。
僕たちは今、庭に出て面と向かってお茶を飲んでいる。ガーデンテーブルには僕一人のときには絶対出ないような高価なお菓子が並んでいる。こういうところでも、ヒダカが来てくれるのは助かる。食事は栄養満点だけど、嗜好品は余り出してもらえないから。ここぞとばかりに甘さ強めのお菓子に手を伸ばす。
「ふーん?」
「なに?」
「元気そうだなって」
「病気じゃないしね。もうかなりいいよ」
さっきだって、体力を戻すために軽い運動をしていた。体を伸ばしたり、庭を散歩したりという程度だったけど、固まった体には気持ちよかったし、何より解放感がよかった。そして、隣には当然のようにヒダカがいた。
「ねぇ、ヒダカ?」
「ん?」
「心配してくれてる? のは嬉しいんだけど、僕に合わせてたら勉強も訓練も進まないでしょ?」
「ああ、それなんだけどさ。お前、これから週に三回うちで一緒に訓練することになったから」
「ん?」
「本当はオレの家に来て暮らせばいいって言ったんだけど、それぞれの特性に合わせた勉強も必要だって言われたんだよな。だから、まあまずは週に三回」
「え? ちょっとどういう……」
「体調戻ったらさ、剣の相手してくれよ。な、ルメル!」
屈託のない笑顔でお願いされて「わかった」以外に言える人はそういないと思う。
ヒダカは強かった。勇者だからなのか、彼の素質なのかは分からない。でも、僕だって小さい頃からそれなりに訓練を受けてきて、身軽さと固有魔法で隙を突くことさえできれば大人にも負けないのに、彼の強さはそういうレベルの話じゃないと思う。目の前で国でも有名な剣士と訓練している姿を見ていると、知らない内にため息をついてしまう。
やっぱりと言うか見たままと言うか、誘拐事件まで、彼はまともに勉強も訓練もしていなかったらしい。この国に来る前に剣道とやらをやっていたと言ってたから、基礎ができているのは理解できる。でも、
「もう、強化魔法を使い分けし始めてる……」
「すごいでしょう? この目で勇者様の実力を見ることができるとは思いませんでしたね」
「……プロフェッサー」
話しかけてきたのは長身にワインレッドの髪をなびかせる美丈夫だった。僕たちの魔法の講師をしてくれている、この国一番の魔導士と言われているバイレアルト教授だ。頭を下げてから聞いた。
「授業は午後からですよね?」
「私の弟子たちはみんな優秀ですから」
「それにしても早くないですか?」
「勇者様の成長が著しいので、ぜひ見学してみたくて、ね?」
人差し指を口元に当ててウィンクをされた。普通ならその綺麗さにうっとりするところかもしれない。僕も劇団と言うキラキラした世界にいた経験がなければそうなっていたと思う。もしくは年齢でストップがかかっているのかもしれないけど。どういう意味かって? 人間族で言えば三十代くらいの見た目の彼は、実年齢百歳を超えた立派なおじいちゃんだからだ。悪魔族は一定以上に老いないので、見た目で判断すると痛い目に合う。内包する魔力を観察すればすぐに大体の年齢は分かるから、引っ掛かるのは小さな子供やドロップくらいのものだけど。
「急に真面目になりましたからね、魔法だけ見るのは勿体ない」
「誘拐されて、さすがに身の危険を感じたのですよ」
「ルメルはそう思うのですか?」
「どういう意味ですか?」
「まあ、それもありますね。生きているからと言って、自由を得られるとは限らない」
「……そうですね」
「でもね、きっと君の存在も大きいですよ」
「僕ですか?」
「彼は君のことが大好きみたいですからねぇ」
教授が質のよくない笑みを浮かべた。さすがは悪魔族。基本的に意地の悪いところがある。
「プロフェッサー?」
反対に僕は苦い顔をした。彼の言わんとしていることに察しは付いているけど、自分から言うのはちょっとどうかと思う。好かれてる自覚? あるに決まってる。だって――。
カァンッ!
高い音がして、教授と二人、咄嗟にヒダカたちの方を向く。剣士の振り上げた木刀がヒダカの木刀を跳ね飛ばしたようだった。ペコリと頭を下げると、ヒダカが真っすぐ僕の方に駆けてくる。満面の笑顔で、こんな子犬みたいな態度を取られたら、懐かれていることくらい嫌でも分かる。
「ルメル! 見てたか?」
「見てたよ。強化魔法、うまくなっててびっくりした。いつの間に?」
「秘密。お前のこと驚かそうと思って」
自慢そうにヒダカが胸を張る。
「毎晩、こっそり魔力操作の基礎訓練をしたんですよ」
ネタバレは速攻だった。教授が嬉しくて仕方ないといった顔で笑っている。
「じじい! 余計なこと言うな!」
「ちょっと、ヒダカ! プロフェッサーをそう呼ぶの止めてって言ってるでしょ!」
「こんなん、じじいで充分だ! 実際じじいだろうが!」
ヒダカが教授をこう呼ぶのには訳がある。初対面のときに、見事に年齢を勘違いした彼の一言が、教授には面白くて仕方なかったらしい。事あるごとにその話を蒸し返す教授についに彼が怒った結果だ。
「『王子様』なんて、ねぇ。長い人生、そんなキラキラとした存在に例えられたことはありませんでしたねぇ」
「や、め、ろっ!」
「ヒダカ。ドロップが悪魔族の年齢を間違えるのはよくあることだから……」
「フォローになってねぇんだよ!」
「そうですよ、ルメル。だからって王子様だなんて言いませんよ、普通は。魔王様とは言われたことはありますけどねぇ。心の清らかさが出てしまったんでしょうね」
「プロフェッサー……」
この人はとても優秀でいい講師で、僕は勿論弟子たちもみんな慕っているらしいけど、基本的にこんな性格だ。ヒダカも認めているからこそ強く出られなくて反発するんだろうな、とできるだけ存在感を薄めて穏やかな午前の風に目を細めた。
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