第8話

素晴すばるは大学生である。長い夏休みに飽いたこの活発な女性は、ここ三週間ほど、ある浮気調査の張り込みをしていた。


電信柱の影から、古都タワー横の、いかにも高そうな新築マンションの出入り口をずっと監視していた。とは言えもう二十日も経つこともあり、その顔には疲労の色が浮かんでいる。

対象の女性は五十代、研究所の臨時職員。彼女はいつも朝六時に家を出て、十七時に帰宅する。浮気の兆候など微塵もなかった。ジリジリとまだ蒸し暑い残暑の湿気が、スバルから水分を奪っていく。それでも彼女は飽きもせず、じっと柱の影から動かなかった。

 

十六時の鐘がどこかの寺から聞こえてくる。虫の音が淀んだ音と混ざり、彼女の脳は一瞬意識を失った。

「おい」

にわかに声をかけられて彼女は目を覚ました。ゆっくりと後ろを振り返る。

「おつかれさん。交代や」

目前にいたのは冴えない縮れ毛の男だった。

「なんだ、小里さんか」

スバルは胸を撫で下ろした。少し体型の崩れかかった小太りの小里はポリポリと頭をかいた。

「これ、差し入れ」

そう言うと彼は、セブントエルブの麻袋をスバルの前に突き出した。

「ありがとう」

中を覗くと、胡麻あんぱんと牛乳が入っていた。

「……なんでこの暑いのに毎回あんぱんと牛乳なん? 」

ウンザリしたようにスバルが毒づくと、いや、そういうもんやろと小里は呟いた。


「探偵言うたらあんぱんと牛乳。当たり前やで! 」

「相変わらずわざとらしい関西弁使わはるな。そんなんよう言わんよ」

意地悪に返すスバルに小里はぐむうと悶えて黙った。その様子を満足気に眺めると、スバルは、ほな後よろしくーと手をヒラヒラさせてその場を去った。

 

 

帰途、スバルは京を西回りに巡回する乗合自動車バスに乗った。席は一番前の少し高い席だ。この席は運転手の視界と近く、お気に入りだった。少しふやけた胡麻あんぱんを頬張りながら、彼女は妄想に耽っていた。ここは京。古から続く日本の中心。曰く深い場所や恐ろしげな伝承が沢山ある。にもかかわらず、彼女自身には霊感と呼ばれる類のものはなく、そう言った心霊的な経験をしたことがなかった。家の隣には、この地で斬首されたという徳川の首塚がある。わざわざそんな所を選んで引っ越してきたというのに、全くもう。このままでは夏が終わって直ぐに立秋だ。このまま二十歳の気ままな夏休みが終わるなんてやっとれんわ。

探偵の仕事もそんな好奇心から選んだものだったが、結果としてつまらない地味な浮気調査。もっとこう、少女探偵コナミみたいな連続殺人事件とか起こらんかな、などと不謹慎な想像を膨らませる。


バスは小路を右に曲がるところだった。ふと十字路の角で信号待ちをしている二人の女子高生と目が合う。無表情だったその顔が徐々に青ざめていくのが見えた。視線はスバルではなく、スバルの左後ろを見ているように見えた。その瞬間、悪寒が走る。左の視界の上隅にすさまじい速度で迫ってくる青い塊が見えた気がした。


 刹那。

 

 

今まで感じたことのない強烈な振動が左腕から伝わってきた。反射的にそちらを向いたスバルの目の前に、巨大な鉄の顔が迫っていた。それは能面のように無表情で彼女の眼前にあった。稲妻のようなヒビが、大きな窓に走る。スバルの身体は落雷を受ける直前のように、振戦する。

 

 

 あ、これ、死──

 

 

 

辛うじて紡ぎ出した言葉が心の中で発せられる直前。

彼女の眼前から蒼い鉄塊が突如、消えた。

 

 

静寂。

 

 

視界が早回しの録画ビデオのように早回った気がした。

 

時が止まる。

 

 

 



五つ数えたくらいだろうか、スバルは我に返った。ざわざわと乗合自動車内の乗客も騒ぎ始めた。

「え? 今、なんか来とらんかった?」

「……窓にヒビが」

「え? まじで怖いんやけど、なに? うせやろ? 」

「窓枠ゆがんどる」

「な、なんなん 」

 

 

取り繕うように車内放送が流れた。

「えー、み、皆さん、おケガはございませんでしょうか。当バスは次の停留所で緊急停止し、車体の確認をさせていただきます」

 

 

 

バスが止まり、乗客が下ろされる。騒然とした空気は冷めやらなかった。各々、携帯端末スマホを触り、壮年の男性は電話を、若い女性はしきりに何かを打ち込んでいる。スバルは未だ事態が飲み込めずにいた。深呼吸する。心臓の鼓動が鳴り止まらない。なにこれは? どうゆうこと? 

 

再度の深呼吸で、温度が下がるのを感じた。季節に見合わないほど冷たいその空気は、バスの方から漂ってきた。車体点検をしていた運転手も冷気に気づき振り返る。

 

そこには、先ほど見た青い鉄塊……飛行機が、白いなにかを大量に付けて止まっていた。その小ささから、おそらく最近流行している個人向け乗用機だ。冷気はその白いものから感じられる。雪だ。

 

 

盛夏をまわったといえ、もちろん雪など降っていない。その航空機の周りだけ、まるで雪山に突っ込んだかのような、白雪がこびり付いていた。気づいた他の乗客が悲鳴をあげる。運転手は固まったまま動かない。

ごすりと重い音を響かせながら、雪まみれの機体の側面が開く。ノロノロと、中から真っ白な粉雪に塗れた赤ら顔の中年が現れた。男はしばらく歩いたかと思うと、力尽きたように地に伏した。その様子を、野次馬たちは固唾を飲んで見守っていた。救急車やー、という声が方々から聞こえる。

 

 

「おねえ、大丈夫? 」

突如後ろからスバルは声をかけられた。よく知るその声に安心し、涙をうかべながら振り向く。

「か、か、か、カヤー、わ、わ、わわ、わ、わけがわからん」

少し背の高い妹の胸に、スバルは顔を埋めていた。よしよしするように、カヤは姉の頭をポンポンと優しく叩いた。

 

「お姉さんたち、ちょっといいか? 」

低くしゃがれたドスの効いた声が二人に話しかけた。カヤが声の方を見ると、くたびれた茶色の背広を着た初老の男性が立っていた。

「こういうもんだ」

上着の内側の衣嚢から、黒光りする手帳を取り出す。表紙に金色に光るサクラを模した徽章が見えた。パカリと手帳が開く。

「……警視庁の刑事さん? 」

カヤがずっとうずくまっている姉の代わりに話す。

「そう。漠武則という。その、ちょっと話を聞かせてもらえないですか」

顔を上げたスバルが頷いた。

「……何がありました? 」

漠は訊ねた。ゴクリと唾を飲み、スバルは口を開いた。

「わかりません。飛行機がバスに突っ込んできたと思たら、消えて……そんで……」

そう言いながらスバルはまだ白雪が残る青い塊を見た。

「またここに出てきました」

漠はその尋常でない様子を怜悧な眼光で睨めた。

「……ありえないですね。だが、この光景を見たら信じざるを得ない」

熟練の刑事の勘なのか、漠は素直に証言を受け入れた。そして思い出したように再度衣嚢をまさぐり、シワシワの写真を取り出した。

「この男に見覚えは? 」

そこには、くたびれた顔をした若い男が映っていた。

「……」

スバルの目はまだ何も見えていないようだ。我に返り、

「いや、知りません」

少し落ち着きを取り戻した声で答えた。

「本当ですか? お姉さん、近くでこの男を見なかったか? 」

漠が阿修羅のように眉を釣り上げて距離を詰めると、カヤが毅然とそれを制した。

「やめてください。おねえは怖がってる」

全く動じずに漠は整った狐目を睨みつけた。そのまま時が止まったように二人は動かなかった。今にも一触即発という状況だった。

 

 

 

「カヤちゃん! 」

沈黙を破ったのは少し間の抜けたのんきな京弁だった。

「ユウリ」

カヤが漠から視線を逸らし、駆け寄ってくる友人を見た。

「……いやー、大丈夫やった? 」

その発言に漠のこめかみがぴくりと反応する。

「私は大丈夫。その……」

視線を漠に戻した。

「……失礼。ありがとう、お姉さん。ここに連絡先だけ、申し訳ないが書いていただけるか」

漠はそう言うと、古都商工会議所の飾りの入った紙片と筆記具を突き出した。ため息をつき、カヤは姉と自分の名前と連絡先を書く。

「ありがとう。もしかしたらまた、話を聞くかもしれない。そのときはよろしくお願いします」

そう言って鋭い眼光をユウリにも向ける。

「こちらは、お友だち? 」

カヤは頷いた。

「そうか、お姉さん、大変だったね。今日はゆっくり休んで」

漠はそう言うと、スバルの背中をぽんと叩き、踵を返しその場を去った。その様子をのんきな顔でユウリが見送る。

「……今の、誰? 警察の人? うーん……」

眉間に小さな皺を寄せてユウリが何かを考えるような仕草を見せた。

「気をつけて。なんかやばいよ、あの人。適当にごまかすけど」

そう言うとカヤはユウリの耳に囁く。

「(あんたの仕業でしょ)」


聞いているのか居ないのか、ユウリは小さな皺を額にひとつ増やした。

「……あかん、めっちゃシブいやん、イケオジやん。いやでも、絶対ウチとおんなじかトマ姉くらいの子どもおりそうやな……」


それを見て、カヤは今日一番の大きなため息をついた。

 

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