第7話
四人は蔦が無造作に絡みついた木造の小屋の前に立っていた。以前来た時のように身を隠すことはしなかった。それはユウリの希望だった。あの奇怪な人物が、彼女の父であることがまだ信じられなかったからだ。
ナイルが扉を何度か叩いたが、反応はなかった。しばらく置いてまた叩く。それを三度繰り返した。
誰だ。という低い声が四回目に聞こえた。
「こんにちは。あなたに用事がある。入っていいですか? 」
ナイルは少し怒ったような声で話しかけた。返事はない。
「あなたの娘さんが来てます」
「……俺に娘などいない。なんだ、村の連中の差し金か? 」
声は不機嫌そうに答えた。するとじっと黙っていたユウリが声を発した。
「……お父さん」
ガタガタと何かを落とす音が聞こえる。明らかに狼狽している。
「ユウリか? まさか……そんなはずはない。あいつはだ……」
その声に初めて感情が混ざる。
「お父さん。ほんまに私や。ユウリや。お願い。ここを開けて欲しい」
しばらくの沈黙。
だが、返された言葉は無常なものだった。
「帰れ」
ユウリの父は、娘を怯えさせたくなかった。それは当のユウリにも伝わった。そして恐れていた。その異形に拒絶されることを。
また、沈黙が流れる。声が聞こえるよう扉に耳を当てたユウリの足元を、小さな虫がまるで境界線のように列を為して蠢いていた。
金属音と共に施錠する音が聞こえた。
「お父さん! 」
感極まったユウリが、ドンドンと扉を叩く。錆び付いた扉はビクともしなかった。
同じく錆び付いた小さな扉の取っ手を力任せに回そうとしたが、動かなかった。そんな少女の様子を見て、ナイルは息をつき、扉に触れた。その瞬間、扉がユウリの眼前から消え去った。目の前に、男が現れた。
男の風体は、酷いものだった。膨れ上がった鼻からサボテンのように小さな球体が何個も連なって歯肉植物のようになっていた。目元はうす黒くくぼみ、異様に隆起した額の肉腫が瞼をほとんど埋めてしまっている。岩のような二つの塊の間から、淀んだ光が漏れていた。
首から下も痛ましい。細い首から背中のラインにかけてふしくれだった盛り上がりが目立つ。腰骨を押すのか、姿勢が右に寄っている。ずれた重心を支えるために、右手に杖を持っていた。
だが、ユウリははっきりと理解していた。間違いない、お父さん……
どうしてこんな大変な状態なのに家族に頼ってくれないの。
大粒の涙が浮かんだ。男はすぐさま目をそらす。
「ユウリ。どうして来た。どうやって……! やめてくれ、帰ってくれ。この病は伝染るかもしれない。治療法が確立していない病なんだ」
そう言うと庵の奥に走り出した。
「待って! 」
そう叫び、ユウリは飛んだ。呪い道具のような首飾りや星形の黒石が落ちて派手な音を立てる。背を縮めて逃げ去る男の目の前にユウリが現れる。咄嗟に足を止めようとしたが、間に合わず親子は共に倒れ込んだ。すぐに男は起き上がり、距離をとる。
「なんだ、一体? 何が起きた」
立ち尽くした男の後ろに、ナイルが立っていた。気配を感じて振り返る。
「な! 」
二の言を告げる前に、ナイルが男の顔を無造作に掴んだ。面食らう男にかまわず、強く、強く圧迫する。
「や、やめ! ろ! 」
声も絶え絶え、ユウリの父は手を振り回した。
肉腫が潰される痛みに窒息しそうになる。だが少年は力を緩めず、こめかみに指をめり込ませる。男の顔が真っ赤に、そしてさらに紫色に変わっていく。もうダメだ、諦めかけた時、急に圧迫が、消えた。
現れたのは、ユウリによく似た目をした壮年の男だった。
「お父さん……」
ユウリが呟くと、夏樹嶺一郎はまた顔を隠すように手を掲げる。
「これは……」
すぐに異常な自体が起きていることに気づいた。額、頬、鼻を確認するように触っていく。
「もう、治りました」
ナイルの澄んだ声が響いた。後方から、サヨリが嬌声をあげる。カヤは、ただ、その様子を見ていた。
「お父さん! 」
伏していたユウリが起き上がり、父に飛びついた。よかった、よかった……その声は震えて、嗚咽が混じる。強く首にしがみつく。
「な、なんだこれは」
ユウリの父がまだ事態を呑み込めずにいると、ナイルが爽やかに笑った。
「……飛ばしました。病原を」
「なんだって……!? 」
さらにその顔に驚きが溢れた。
「僕には特別なチカラがあるんです」
ユウリの父は再び顔や身体を触りながら確かめ、これが現実であることを確認する。認めるしか無かった。
「なんてことだ……それは、それは、まるで」
「奇跡じゃないか」
少し照れくさそうにナイルが笑った。
五人は、夏樹家に瞬時に帰った。夕飯の支度をしていたトマルは、突然居間に現れた四人と父に文字通り腰を抜かした。
「ただいま、トマ」
太く優しい声で嶺一郎が告げると、姉はまだ立ち上がれない体ごと、縋るように腕を伸ばして、父に抱きついた。それを見て感極まったのか、ユウリも父と姉の肩に手を回し、嗚咽を漏らした。
すまなかった、本当に心配をかけた。
嶺一郎も目に涙を浮かべて娘たちを見た。
「よかったね、ユウリ」
カヤが優しく肩に手を置く。サヨリは、よかったねえ、と何度も声を漏らしながらもらい泣きしていた。
「……なんで泣いてるの、八島さん」
カヤが目ざとく見つけて突っ込みを入れる。ナイルも泣いていた。鼻をすすりながら声を漏らす。
「本当に良かった」
いやまだあなた知り合って二週間くらいでしょうと言いそうになったが、カヤは思いとどまった。
「ナイちゃん、ええことしたなあ! ええ子や! 」
サヨリが手放しで褒めると、ナイルはありがとう、と照れくさそうに笑った。
その晩、三人は夏樹宅で夕餉を共にした。トマルは料理の腕を振るい、ナイルたちを心からもてなした。献立はすべて家族の思い出が詰まった家庭料理だ。食べきれないほどのご馳走をいただき、一同は満足げに食後のほうじ茶を啜っていた。そして、能力についての話が始まった。
口を先に開いたのは嶺一郎だ。
「しかし、君の能力、すごいな。ものを飛ばすと言っていたね。あの病はどこに飛んで行ったんだい? 」
「……わかりません。ただ僕のイメージでは、宇宙空間です」
それを聞いてユウリは茶を吹き出す。
「え、ナイルくん、う、宇宙まで飛べるの? 」
ナイルは頷く。
「どこまでも。イメージさえできれば、距離は関係なく飛べる。きっとユウリも飛べる」
それを聞いた嶺一郎とカヤは、ユウリの顔を覗き込んだ。
「ん? ユウリにも……?」
ナイルはしまった、と口を紡ぐ。カヤが諦めて口を開いた。
「えーと、なんて言ったらいいのか分からないんですけど」
一息つく。
「ユウリ……さんも実は」
そう切り出して最近のユウリについて語る。嶺一郎はまだ状況についていけていないようであった。
「信じがたいが……だが、あの時、確かに、ユウリは突然俺の目の前に現れたし、瞬時に家に帰ってきた。うん、そうだ。そうなんだな。その……身体に異常はないかい、ユウリ? 」
急に心配されたユウリは食後の饅頭に夢中で、あまり事態が飲み込めていなかった。
「……不思議な力の影響が心配だよ……それにこんな能力が世に知れたら、とんでもないことになる。いや、北方のカゴ族の伝承にそんな逸話があったような気も」
狼狽を見せた嶺一郎は不意に一人思索に耽り始めた。彼は民族伝承や民間医術の専門家であった。しかしそれゆえに、社会のどこにも類することができない仕事であった。自らを現代の冒険家と称して、西洋医学と異なる観点で菌や微生物などを研究していた。
「なにも問題はないですよ。僕もこの力に目覚めたのはまだ最近です。何度も飛んでます。でも、特に体調を崩したり、ということはなかったです」
ナイルが補足する。嶺一郎はまだ半信半疑といった表情を見せたが、納得したのか、ため息をついた。
「まあ、わからないものをこれ以上追及しても仕方ない。ただ、ユウリ。身体に異常が出たらすぐに相談するんだよ」
ユウリは饅頭をまだ口の中に含んだまま、静かに何度も頷いた。カヤは心配そうな顔で彼女を見つめていた。なんとも言えない空気の中、その日は解散となった。
「で、どうなの、ユウリ」
明けて立秋の節、下校途中のカヤはユウリに直截に尋ねた。相も変わらず脳天気な顔で首を傾げる。
「なにが? 」
カヤは少し呆れた様子を見せ、しばらく懊悩した。
「……あの男。幸樹ナイルよ」
途端にユウリの顔が静止する。
「な、ナイちゃんがなんなん? 」
「……気になってるの? 」
その瞳は有無を言わさぬ異様な迫力があった。ユウリは意外な質問にどきりと震えると共に、謎の怖気に肩を震わせた。
「そ、そんなんちゃうよ〜。どっちかって言ったら、お、弟? みたいな」
カヤの瞳がさらに怪しく煌めいた。
「だったらいいんだけど。あの男子……絶対なにかやばいよ」
「そうなん? 」
「……あいつ、八島さんにもなんか手を出してるくさいし、どうしても信じられない。とても怪しい」
カヤは険しい顔で虚空を見つめている。その様子にユウリは圧倒されつつ、なんかおかんみたいな心配されとるなあ、と思った。
「そ、そうなんや、気をつけなあかんなー」
居心地の悪い空気が二人を包み込む。その日はあまり言葉も交わさず、じゃあね、と素っ気なく別れた。
帰り道、ユウリは逃げるように鴨川に架かる橋を渡った。幸樹ナイル。突然現れた謎のイケメン。
彼も私と同じ力を持ってる。意識しない訳はない。だがそれは、好きとか嫌いとか、そういうのとは、まだ別の話だ。なんでカヤはあんなにぶっきらぼうに聞いてくるのだろう。ユウリは少し苛立ちを覚えていた。彼は私よりこの能力についてよく知っている。お父さんを治してくれた。
病原体を宇宙に飛ばす。そんな事考えもしなかった。自分にもできるのだろうか。そう、今は好きとかそんなことを考える前に、もっと自分はこのチカラについて知るべきなんだ。決して誤った使い方をしてはいけない。
優柔不断で後先を考えるのが苦手なユウリがこのような思考に至ることは極めて珍しいことであった。もっと、もっと教えてもらおう。そう決意したユウリは、先程の苛立ちも忘れていつの間にか川の方に駆け出していた。
いつの間にか気分は高揚し、足取りが軽くなる。なんて、素敵な力。
そうだ、この力、飛び
薄く張った雲間から、さらにいつにも増して陽光が注いでいた。
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