第5話
能力に目覚めてから十日ほど経ったその日、ユウリは烏丸通の事故現場に居合わせていた。
「なに? 事故? 」
一緒にいたカヤが肩から顔を覗かせる。
「……今、消えてた」
呆然とユウリが呟くと狐目を細めて訝しげに覗き込む。
「どういうこと? 」
「いまな、自転車が貨物自動車にひかれとったのにな、消えてん、自転車の人が。もう一人おったような……」
ユウリの発言にカヤの目が険しくなる。
「確かに見たの? 」
ユウリはこくりと頷いた。
「まさか、ユウリと同じ……」
カヤが独りごちると二人の後ろからダボンとなにかを引きずるような音が聞こえた。思わず二人は振り返った。
そこには痩せた少年が制服の端から水を滴らせて立っていた。異様な風体にカヤは警戒し、ユウリの後ろに隠れる。たぬき顔の少女は置物のように固まった。ユウリの瞳は少年の星空のような瞳に吸い込まれていた。少年は視線に気づき、にっこりと笑った。
「……やあ、こんにちは。なに? 」
ナイルがそう聞くと、カヤが警戒心を隠さず尋ねる。
「あなた、なんでそんなに濡れてるの? 雨なんて降ってないのに」
鋭い視線に少年は身動ぎしてしまった。
「い、いやあちょっとそこの、側溝に落ちちゃって。足を滑らせて」
動揺しつつも落ち着いた笑顔でナイルは答えた。少女二人は微動だにしなかった。居心地が悪そうな顔をして、少年は、じゃあ、と軽く手を振って街の雑踏に消えていった。その後ろ姿を二人は見送った。
「あの人、怪しい。側溝に落ちて全身濡れるわけない。ね、ユウリ」
固まっていたユウリが寝起きのように何度か瞬きする。
「……イケメンやったなあ。うちの学校の制服よねあれ。なんて人やろ。訛りないし転校生かなあ。やばない? 滴っとったで! 水が! 美少年水が! 」
夏樹ユウリは男女問わず面食いだった。くねくねしながら、陶然とした顔でまだ人混みに少年を探すユウリを、カヤは冷ややかに見ていた。
「うち、決めたわ」
数日後の日曜、錦小路近くのカフェに呼び出されたカヤは突然の告白を聞いた。
「お父さんに会いにいく」
苺のパフェを食べながらボーッと話を聞いていたカヤは、意外な発言に我に返る。
「お父さん、家にいないの? 」
ユウリは頷いた。
「……ずっと外国で暮らしてる。もう3年くらいおうてない」
そう言うと携帯電話の写真をカヤに見せた。そこにはユウリによく似た壮年の男性が写っていた。多少の皺が目立つが、整った顔立ちだ。
「……お父さん、何してる人? 」
カヤが聞くと、ユウリは冒険家や、と答えた。カヤはため息をついた。
「文化人類学って言うて、地方の風俗や慣習、昔話なんかを実地調査するんやて」
ユウリは得意そうにふふん、と鼻を鳴らす。
「大学の先生とか? 今はどこにいるの? 」
「南亜細亜。イセ族って部族に会いに行ってるらしい」
カヤはなにか言いたげだった。
「……大丈夫よ。そんな何度も飛ばんようにするし」
慌てて付け足すと、カヤは諦めた。
「分かった。でもひとつだけ、約束して」
カヤはユウリの眼を真剣に見つめる。
「私も連れて行って」
意外な提案にユウリは目を丸くした。
「え、ええけど……虫とかたぶんいっぱいおるよ」
それを聞きカヤは少し身震いする。
「いや、い、いい。大丈夫。絶対。たぶん」
ユウリはふーんと首を傾げた。
「ほな行こか」
え! とカヤが今度は目を丸くした。
「いや、でもその、虫除けとか買わな」
カヤが全て言い終わる前に、二人の姿が喫茶店から消えた。
京より更に湿度の高い蒸し暑さが突然二人を包んだ。気持ち雲の隙間から見える太陽の光が眩しい。
「いと。ちょっとまって」
カヤが先の続きを言うともう着いたで、とユウリは答えた。
「ここは……どこ? 」
二人の周りには瑞々しい光沢を放つヤシの葉と、無造作に生えた草が密集していた。緑の臭いが強い。
「……えっとー、前にお父さんが送ってくれた写真のとこに来た」
ユウリはそう言いながら周囲を見渡した。一面の草、木、緑。濃厚な酸素に二人の息が噎せ返る。
「いやもうちょっと考えてよ! 住んでる所とかの写真ないの?! お会計もしてないし……」
カヤは顔を真っ赤にして少し涙を浮かべながら、ぶんぶんと体にまとわりつく大きな羽虫を手で払いながら抗議した。
「そっかーそう言われればせやな。でもこの辺りから近いって言うてたし。あ! 」
獣道ですらない道無き道を、ガサガサと草をかき分けてユウリが進むと、煙たい臭いがした。
「あの辺怪しい」
そう言うとユウリは目を輝かせて進んでいく。カヤは慌ててあとを追いかけた。
「ねえちょっと、勘で進まないでよ!」
さらに抗議したカヤは突然立ち止まったユウリにぶつかった。
「あれや……」
高い草木の間から、もくもくと煙突から煙を吹かせた、小さな直方体の建物が見えた。
二十歩ほど進むと、視界が拓けた。先程見つけた小屋は、熱帯林の一部のような風体で、一際大きな木のそばにあった。蔓植物が外壁をみっしりと覆う様子は、小屋というより庵に近い。腰ほどもある草木は多少手入れされており歩くのに不都合はなかった。小屋の奥には人が踏み入るのを拒絶するような木製の柵がどこまでも続いていた。
「お父さん……」
ふらふらとユウリが庵に近づく。カヤも警戒しながらついていった。建物自体が燻製のような香りに包まれていた。流石にいきなり中に入ろうとするのははばかれたのか、ユウリは煙突の横の小さな木窓に向かっていった。蔓を掻き分け少し背伸びして中を伺う。
彼女の動きが止まった。カヤは心配そうな顔をしながら、横から覗き込んだ。
そこには、人間のようなものがいた。
その様子は普通ではなかった。顔は何度も殴られたように膨れ上がり、通常の人間の二倍ほどの大きさになっていた。背格好から推測するに、恐らく男だ。
顔だけでなく体も普通ではない。背中には不自然なこぶのような膨らみが何個もあり、今にも破裂しそうだ。身体に比して細い足は痩せさばらえ、椅子に座って何かを一心不乱にかき集めている。
カヤが思わず息を漏らすと、ユウリはその口を塞ぎ、首を振った。青ざめた顔のカヤは頷く。そして小声で囁いた。
「……あれは、なに? お父さんなわけないよね、ユウリ」
「……お父さんや」
え、とカヤは驚きの声を漏らしてしまった。コブだらけの男はそれを聞き逃さなかった。
「誰かいるのか」
二人は互いの口を手で塞ぎ、静かに耐える。時間にしておよそ数呼吸だったが、二人にとっては半刻もたったかのように感じた。ガサガサと、屋内のものをかきわける音が近づいてきた。
二人は窓の脇の鬱蒼と茂った草むらに身を隠した。窓から、凸凹の紫じみた顔が姿を現す。その色は、人間のものとは思えない。しばらく辺りを見回すと、スっと引っ込み、ガチリと木窓を施錠する音が聞こえた。二人はそろそろと建物から離れた。
「……どういうことなの? あれが、お父さん? 」
小屋から数百歩程離れたあと、カヤは疑問を口に出した。ユウリは虚ろな目でたぶん、とだけ答えた。
「さっき見せてくれた写真と全然違うじゃない。ウソでしょ? 」
カヤが質問すると、ユウリはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「……お父さんな、文化人類学の中でも、珍しい病気を調べるのが仕事やってん。たしか、ええと、最後に言うてたんは、らい病ってやつ。色んな国を回って、その土地の部族にだけ見られる風土病って言うんか。そういうのを調べて、医療と繋げて解決するのが楽しいって言うてた。今調べてるのは、イセ族だけがかかるらい病やって」
「だからって!……何でお父さんだと思うの? それに、らい病は感染するような病気じゃないって聞いたことがあるよ」
カヤがユウリの言葉を否定するようにまくし立てた。
「せやね。お父さんもそう言っとったよ。でも、でも、あれは絶対お父さんや。だって」
指を震わせながらユウリは自分の首元を指した。
「首に着けとったもん。うちがあげた、古都くんの首飾り」
古都くんとは、古都タワーの幸運の
そんなものの首飾りを肉親に贈るユウリの感覚は理解できなかったが、カヤは納得した。確かに間違いなさそうだ。
「つまり」
言いかけるとユウリは頷いた。
「伝染ったんや、未知の病気が。きっとわかっとったんや。だから、なんも言わず行ってしもたんや。うちらにうつさへんように。三年も。たまに送ってくる手紙には、元気やって書いてあったのに……」
そこまで言って、ユウリは泣き崩れた。ポロポロと大きな涙の粒が、数珠となってこぼれ落ちた。そのまま、彼女は動けなかった。カヤは背中をさすり、肩を抱いた。野鳥の鳴き声が、共鳴するかのように周囲からこだましていた。
「どうするの」
ユウリの嗚咽が少し落ち着いたのを見計らって、カヤは尋ねた。
「どうしよう」
ユウリは真っ赤に泣き腫れた目を潤ませたまま、カヤを見上げた。そう、想像以上の事態にユウリの頭は混乱していた。まだ甘えたい年頃の彼女はただ、父にもう一度会いたかっただけなのだ。
小屋に引き返して確かめるべきか、否か。だが本当に父だったとしたら。私は、堪えられるんやろか。ユウリにはわからなかった。
固まってしまった彼女を案じてカヤは一度京に戻ろう、と提案した。
「一回落ち着こう。もしかしたら、もしかしたらだけど……あの人はお父さんじゃないかもしれないし。少し考えて落ち着いて、そして一緒に決めよう」
キツネ目を大きく見開き、真剣な眼差しでユウリを見た。ユウリはまだ濡れた頬をカヤの胸に押し当て、うん、と頷いた。
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