第4話

小里大輔は憔悴していた。数年前の流行病とゴリン中止の煽りを受け、当時都内の大学四年生だった彼は就職に失敗し、各地を日雇いで転々とした。今は京で宅配員をしながら何とか生計を立てていた。


夏の陽光が彼の額を照らし、汗を滲ませた。理不尽だ。くしゃくしゃの酷いくせっ毛が汗を吸い不快な臭いを出す。今日は目標あと十件。気を取り直して大きな架台の付いた自転車を漕ぎ、次の店に向かおうとしたとき、烏丸通りの十字路の奥から、銀色の貨物車がふらふらと蛇行しながらこちらに来るのに気づいた。明らかに普通の状態ではない。


なるべく遠くに、関わらないようにしよう。小里が漕ぐ速度を緩めたとき、象ほどの大きさのそれが彼の方に曲がってきた。


──ぶつかる。


そう思った時には既に貨物自動車の頭が彼の目の前に迫っていた。彼は死を覚悟した。


轟音とともに自転車が不自然な形の部品をばら撒きながら宙を舞った。通行人のけたたましい叫び声と驚愕の表情を、巨大な鉄の塊に吹き飛ばされた青年は静かな気持ちで見ていた。


ああ、こんな所で死ぬのか。せめて就職したかったな。あと彼女も欲しかった……


小里の目には薄雲から覗く強い太陽の光が、天からの死の使いのように感じた。


体は一丈半(四メートル程)も宙を舞い、和菓子屋の入口を粉々に砕いて吹き飛ばした。憐れな背骨が最奥の壁で砕けようという、その瞬間。

 

全身を液体が包み込んだ。身体は弾丸のような白い筋を立て切り揉みしながら底へ進み、そのうち速度を無くす。気を失った彼を、もうひとつの影が捕まえると、二人の姿が消えた。

 

次の瞬間彼は屋根の上にいた。文字通り頭から水を被ってビシャビシャだった。突如覚醒し、目の前の影を見上げようとすると盛大に咳き込み、水を吐いた。

「大丈夫、お兄さん」

若い男の声がまだむせている小里の頭の上から聞こえてきた。突然目の前に現れた男の声に小里は思わず後ずさった。ギシギシと色硝子が危険に揺れる。

「ちょっとちょっと、危ないよ」

男は小里の肩をとって建物の屋根に飛び移った。

「いったい……、何が……? ゲホッ 」


小里が見上げるとそこには同じく水を吸った制服姿の男子学生が立っていた。身長が高く、五尺半(170cm)ほどの小里よりさらに三寸ほどは高かった。濡れた制服が、細くしなやかながらもしっかりと筋肉が付いた体型を露わにする。顔は小さく、艶やかな金髪が陽の光を反射して蒼く輝く。目が大きく、まつ毛からはポタポタと水が滴っていた。どこからどう見ても美少年だった。


「君は……? 」

小里がその存在感に圧倒されながら聞くと、少年は爽やかに笑った。

「幸樹ナイル。通りすがりの男子高校生さ」

真っ白な歯が形のいい口から煌めく。

「え、芸能人? 王子さま? 」

思わず小里の口から考えていることがそのまま漏れる。ナイルは人差し指を立てて振った。

「違うよ。漢字ではこう書く」

そう言うと指先で中空に「那伊留」と書いた。


画数が多すぎて小里にはさっぱり伝わらなかったが、とりあえず流行りのピカピカネームというやつだと思い至り、頷いた。しばらくして我に返り、男は周りを見回した。ナイルはさらに語り出した。

「お兄さん、車に轢かれかけてたんだよ。たまたま街をブラブラしてた僕がいなかったら、たぶん死んでた。あ、実は転校してきたばかりでね。サボってたわけじゃないんだ」

小里はまだ状況が掴めていなかった。

「まあ、そういうことでたまたま街を歩いてた僕が事故現場に居合わせて、これは危ないと思ってね。自動車に吹き飛ばされたお兄さんを抱えて海に飛んで助けたってわけ」

……海に飛んで? 

「何を言ってるのかさっぱりわからない 」

ようやく呼吸が落ち着いてきた小里が訊くと、少年はまた爽やかに笑った。

「言い換えると、そうだな、瞬間移動……かな?

僕にはそれが、できる」


小里は驚愕を隠せないでいた。にわかに信じられないが、さっき確かに、水中にいた。何より全身から香る潮の臭いが、それが現実であることの証左だ。寒気がして肩をふるわせた。


「驚くのも無理ないよね。僕も最近までこんな能力があるなんて知らなかったんだ。まあ、とにかく、無事でよかった。それで、一つお願いがあるんだけど……今日経験したことは、内緒にしてくれないかな、お兄さん」

パチリと目配せすると、小里はまたウンウンと頷いた。なぜか赤面してしまう。徐にナイルが小里の肩を掴んだ。その瞬間、二人は事故現場近くの路地に現れた。


「さあ、行って」

そう促されると小里は小さく頭を下げて自転車の側に駆け寄る。配達商品は無残に散らばっており、自転車も前輪が四角形になるほどひしゃげていた。ああ、これは本部に怒られるな、そんなことが頭をよぎった時、不意に話しかけられた。


「……お兄さん、さっきまで自転車に乗ってなかったか? 大丈夫か? 」

それはしゃがれた初老の老人のような声だった。見ると、そこにはくたびれた背広に身を包んだ男が立っていた。年齢は小里よりひと回り位上に見えた。身長は高く、先程の少年と同じかそれ以上だった。白髪の多い髪を無造作な七三に分けている。

「はあ、おかげさまで、無傷です」

小里が適当にごまかすと、そうかい、と肩を叩く。ビシャリと海水が音を立てた。


「……水? 」

小里は慌てた。

「い、いや、あの、あまりの出来事にものすごく汗をかいてしまって。すみません、配達の続きがあるので……」

無理のあるでまかせだった。

「汗っかきなお兄さんだなぁ。いいのかい、実況見分立ち合わなくて。結構ふんだくれんじゃあないか? 」

「いえ、結構です。無傷なので。失礼します! 」


そう言って小里は野次馬をかき分け、早々に現場から立ち去った。壮年の男はその様子を鋭い眼光でじっと見つめていた。

「気をつけなよ! 」

そう声をかけたが小里は何も応えず、ボロボロの自転車を引きずって歩いていく。その背中は小さくなっていった。


「……やれやれ、無傷だから立ち会わないってか」

ペロリと指を舐める。強烈な塩分の味がする。

「汗にしちゃあ濃すぎだろ。ペッペッ」

男の目には鈍い光が宿っていた。

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