『連絡船』 下
やがて、船は大揺れになった。
そうなると、ゆったり、椅子になんか座っていられなくなる。
ちょっと、気持ちが悪くなってくる。
軽い船酔いなのだろう。
やましんべには、船乗りの才能は無さそうである。
波は、どんどんと大きくなってくる。
かなり、恐ろしい。
『横になりなさい。』
やましんべたちは、質素で軽い緑色の、ただし、所々、何かが溢れたような跡もないことはないじゅうたんが敷いてある区画に移動して、やっとこしょと、横になった。
ドライバーさんを中心にした乗客はそれなりにあったが、横になれないほどではない。
後にも先にも、フェリーですっぱりと上向いて寝た体勢になったのは、他に覚えがないくらいである。
それでも、さらに、揺れる揺れる。
まさしく、ますますの大揺れになった。
寝ていても、大きい波が船の側面からかなり高い場所にまで次々に舞い上がるのが見えていた。
フェリーは、良く耐えていた。
しかし、とくに、船内放送とかがあった覚えはない。
中学生あたりのやましんべは、怖がりで、弱虫だったことは間違いがない。(現在も変わらないが。)
だから、周囲の立派な大人たちは、平気だったのかもしれないとは、思う。
病気がちの母は、どうだったのか?
あまり、そこらあたりの記憶はない。
だが、それまで、いろいろあたりと話しをていたドライバーさんたちも、さすがに、異様に静まり返っていたようにも思う。
フェリーには、大きな開口部があるが、前述のような様々な遭難事故から教訓を得て、浸水対策などは、かなり進んでいたに違いない。
最後の来島海峡あたりでは、相当に難航していたに違いないが、とにかく、無事に今治港にたどり着いた。
『当船、まもなく、今治港に入港いたします。』
との、アナウンスがあったときは、ほっとしたと思う。皆そうだったろう。
今治港は、広くて良港である。
当時は大きな旅客ターミナルビルがあった。
多少港から内陸に離れた、古い木造の国鉄今治駅よりも、はるかに立派なビルだったのだ。(今は新しいおしゃれな建物になっていて、一方、今治駅はその後立体化されて見違えるくらい立派になったが。)
港の中は、比較的静かになった。
接岸もそれほどは苦しんだりはしなかったと思う。
忘れがたい夜になり、明け方近くには、ようやく母の実家にたどり着いたのである。
フェリーは、それ以降、暫くは欠航したらしい。
いまでは、尾道や三原から今治への直行の連絡船やフェリーの船便はないのだと思う。ただし、因島から尾道までのバスを併用したら、まだ島伝いに渡ることは、可能ではないかと思っている。
祖父は、その時はいったん持ち直したように覚えている。
やましんべが高校生のころ、こんどは危篤ではなくて、亡くなったとの知らせが電話で入り、『しんじゃったの?』と、言いながら、母は大粒の涙を流したのだった。
たいがい、父もそうだったが、危篤に陥っても、1~2回は、持ち直すことが多いみたいだが、しかし、その母はそうではなかった。
それは、10年ほど前のことだ。
おわり
『連絡船』 やましん(テンパー) @yamashin-2
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