『連絡船』 中

 三原から今治に向かう『三原今治国道フェリー』は、瀬戸内海に出た後、生口島と大三島の間を抜け、さらに大三島と伯方島、大島の間を航行して、今治に至っていた。


 1時間45分掛かっていた。


 現在は、尾道から今治まで、島伝いに橋が連なっている。


 途中、多々羅大橋と、大三島橋、さらに最後、来島海峡大橋で、かつてのフェリー航路をみたび跨ぐ格好になっている。


 これらの橋は、ばらばらに作られたので、フェリーが走っていた当時でも、1979年に開通した大三島橋など、かなり早くからあった橋もある。


 橋が全通したため、フェリー航路は、1999年に廃止された。


 だから、この当時はまだ最盛期にあって、かなりの利用者があった。


 実際に、その時も、たくさんのトラックなどが待ち合わせしていて、そのドライバーさんたちが待合室で成り行きを見守っていたのだ。


 待合所には、うどんの販売所があり、結構流行っていた。


 やましんべたちも、当然ながら、この時も、おうどんを頂いたのである。


 実は、フェリーや連絡船には、うどんが付き物だった。


 港だけではなくて、船の中にも、ショップがあったのだから。



 定刻をかなり過ぎてから、船会社は、出港を決断した。海運当局がどう判断して連絡していたかとかは、やましんべには分からない。


 しかし、確かに三原港では、それほどには、波は高くなかったのだ。


 なにしろ、瀬戸内であるから、あまり大浪が立つと言う印象は、やましんべにはなかったが、大正生まれの両親は、多少なりとも、内心では心配していたかもしれない。


 というのも、瀬戸内海にあっても、大きな海運事故は、かつて、いくつもあったからである。


 その代表格が、まず、宇高連絡船紫雲丸事故である。


 紫雲丸は、就航以来、事故を5回起こしているが、一番知られるのは、1955年の事故だった。


 1955年5月11日、午前6時56分。


 修学旅行の子供たちを沢山乗せた紫雲丸は、高松港沖で、第三宇高丸と衝突し沈没。死者168人を出してしまった。


 前年には、1155人の死者、行方不明者を出した、青函連絡船洞爺丸事故があったばかりだった。


 瀬戸内海では、先立って、戦後まもない、1945年11月6日に、尾道~今治連絡船、尾道発の第十東予丸が、その伯方島の沖合いで、突風に煽られ転覆し沈没した。


 この事故では、死者行方不明者、397人が出てしまった。定員の3倍は乗せていたらしい。今ではあり得ないが、戦後の混乱期にはよくあったらしい。


 これが、後にやましんべも利用したことのある、連絡船航路である。


 やましんべの父は、まだ満州にいたかもしれないが、母はこの時は今治にいた筈であるから、よく知っていたに違いない。


 だから、もしかしたら、台風の中での航海は、これを思い出させたかもしれない。


 伯方島には、慰霊碑が立ち、海岸沿いにはお地蔵さまがあるようだ。やましんべの従姉妹は、ここで教師をしたことがある。

 

 やましんべは、近くを何度も行き来したが、それには気がついていなかった。



 伯方島のどちらを通るかなどの大きな違いはあるかもしれないが、行き先が同じだし、わりに似たような航路になっていたはずだ。


 なお、この付近では、1957年4月12日にも、生口島の瀬戸田港(耕三寺で名高い島である。)から、尾道に向かっていた第五北川丸が操船ミスで座礁転覆して、死者行方不明者、113人を出している。


 沢山の島が折り重なるように連なる海域で、大事故が起こるなどとは、ちょっと想像しがたい感じがするのだが、やはり、海は甘くみてはいけないのだろう。


 このあたりは、船の銀座みたいなもので、せまい海域を、大小多数の船や、漁船が行き交う要衝であるから、穏やかな時に乗船して行方を眺めていても、ぎりぎりを通過するような、素人が、やや、はらはらするような光景は、しょっちゅうだった。しかし、そういうときの操船というのは、なかなか感動的で、よくもまあ、大きな船も小さな船も、お互いが、こうも、巧みに交わすものだと感心したものである。ちょっと大きな船は、自動車みたいには、急に進路は変えられないし、周囲は島や岩礁だらけだから、余計に海が荒れたら、危なくないとは言えない気がするのだ。


 

 とにかく、フェリーは、無事に三原港を出た。


 やましんべは、最初のうちは、座席に座っていた。


 港を出るあたりというのは、たくさんの色とりどりの灯りが海岸沿いに並び、陸にある建物や工場が闇に浮かぶ。

 

 なかなか、良い眺めなのだ。


 出港したときには、大して雨も降ってはいなかったし、風もそんなに強いイメージではなかった。


 まあ、不気味ではあったが。


 だから、船もさして揺れたりはしていなかった。


 『まあ、このくらいならば、大丈夫かな。』


 と、運転士さんたちも、言い合っていた。


 暫くは、港のなかの工場地帯を抜けて走るから、両側とも陸地である。


 やがて、糸崎の沖合いに来ると、進路を四国に向ける。


 すると、向かって左側が大きく開けてくる。


 その本州側には向島があり、右手には因島がある。


 右手側には、国鉄(現在は、JR西日本)呉線が走るから、昼間ならば電車が良く並ぶことがあるが、この時間になると、さすがにあまりは通らない。しかし、この時代には、まだ、夜行列車があったのではないか。たとえば、長い伝統のある、急行『安芸』がそうだ。これは、後に特急『安芸』になり、呉線経由で走っていた。昭和40年台には、やましんべも乗った。


 しかし、この時期にどうだったかは、ちょっとはっきりわからないが、ちょうど、昼間の急行に切り替わっていた時期かもしれないから、夜間には走ってはいなかったかもしれない。昭和43年の時刻表では、実際にこの時間には客車は走らなかったようだ。


 高根島を越えたあたりから、航路をぐっと左に変えて、本州からは、離れる。


 生口島と大三島の間を伯方島に向けて航行する。伯方島と大三島の間には、非常に狭い海域があり、鼻栗の瀬戸と呼ばれる。ここは、島の間が300メートルくらいしかなく、しかも、潮の流れが早い難所であるが、フェリーはそこを通過する。今で言えば、大三島橋の下にあたる。


 この辺りから、様子はどんどんと、おかしくなっていった。


 激しい風雨になり、波がかなり高くなってきた。やな雰囲気である。


 当然ながら、船はかなり、揺れ始める。


 『わわわ。来ましたよう。』


 鼻栗の瀬戸を通り抜けるあたりが、ちょうど航路の中間点になる。


 ここを越えると左側は広い海域で、あまり大きな島はない。右側(つまり、西側)も、倉橋島あたりまでは、あまり大きな島はない。吹き抜けである。


 しかし、前方には大島があり、この先には最大の難所である来島海峡が広がる。


 で、さらに大嵐になった。


 波が船の両側の通路を超えて上がり出す。


 多少大袈裟だが、遠洋漁業の船みたいになりかけている。そんな感じがしてきた。



        🌊🌊🌊🌊🌊


  

 


 


 

 


 

 


 しかし、


 


 


 

 

 

 

 

  

 

 


 


 


 

 


  

 


 


 

 

 

  


 


 

 

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