水の星の子と黒い羽根

菜梨タレ蔵

第1話 木漏れ日の中で

 湖の水は水底まで透明で、湖畔には色賑やかに花々が咲き、新緑は爽やかな風に揺れながら光を反射していた。夏の前の暖かな日、少年は特等席の岩に腰掛け、釣り糸を垂らしてぼんやりと水面を見つめていた。ウトウトし始めると、ふいに頬を撫でる風の香りが柔らかくなった。近寄る気配に気付きながらも、彼は水面を見つめ続けた。水面に映る自分の後ろに、少女がそっと現れる。驚かす気だな…だったら。

「わっ!」

「きゃ!」

 少女は尻もちをつき、少年はそこに覆い被さる形になった。

「バレバレだよ、ミズカ。水に映って丸見えなんだもん」

「うぅっ、成功すると思ったのにぃ」

 ミズカはクリクリとしたブルーの瞳を潤ませた。視線が交わると咄嗟に、少年は立ち上がる。手を伸ばし、ミズカに掴むよう促す。ミズカはその手に恐る恐る自分の手を伸ばした。このまま手を伸ばしたらどうなるか、少年に過去にされたイタズラを思い出す。羽交い締めにされてくすぐられる事数回、助けてくれると思ったらまた押し倒されてくすぐられる事数回。少女の身体は幼いながらも敏感に反応し、少年はそれを見ては面白がった。今度は何をされるのだろう、少女は躊躇う。

 少年はなかなか届かない手を待ち切れずに掴み、少女を立たせた。手を離し、再び湖の方に振り返ると餌を奪われた釣り針を引き上げる。

「ミズカのせいで逃げられちゃった」

 言いながら手元に置いた小さな壺に指を突っ込み、ニョロニョロ蠢く小さなドジョウをつまみ上げた。ふと手を止め、再び振り向くとそれをミズカに見せるように掲げた。

「お詫びにこれ、付けてもらおうかなぁ…ミズカ?」

 いつもなら勢いよく悲鳴をあげるところだが、ミズカはただボンヤリと見ていた。気付いたように瞳を動かすと

「きっきゃぁあぁぁーっ!無理っ!無理です!そういうの苦手って言ったじゃないですかっ!」

 いつもの反応が遅れ気味だったことを不思議に思いながらも、少年は「だよね」と呟くと自らドジョウを釣り針に刺し、湖に投げ入れた。

「俺に何か用?」

「べ、別に」

「そう」

 彼は視線を湖に戻した。 少女は心の中に冷たい空気が満ちていく感覚をおぼえた。


「その日」を境に、毎日執拗な位にかまってくる三つ年上の少年が、急にかまってくれなくなった。喧嘩をしたわけではないし、何か気に触る事をしてしまった覚えもはない。


 血の繋がりは無かったが二人は兄妹のように育った。少年にはその更に二つ上の兄、ハルシオがおり、ミズカはいつも優しい彼を本当の兄のように思っていた。では少年のことは?彼はミズカに兄と呼ばれる事を嫌った。彼にとってミズカという少女は、言葉を話さぬ時から既に、特別な存在だったのだ。ミズカも同様に、少年に対してはハルシオに持つのとはまた別の感情を抱いていた。


「カラスさん」

 ミズカは少年の名前を呼んだ。

「用はないんでしょ?なら、もう行ったら?」

 カラスはこちらに振り返ることなく、突き放すように言った。ミズカはじわりと溢れる涙を手の甲でこすると、その場を離れた。屋敷へ帰る途中、木の根に引っかかり豪快に転んでしまった。膝と手の鈍い痛みが、こらえていた涙を溢れさせた。


 屋敷の庭のベンチでは、ハルシオが何やら分厚い本を読んでいた。12歳の彼はまだ幼いながらも、大人でも難しくて読み切れないような本を丁寧に読み込む。今彼が手にしているのは「図解人体学」、医学書である。将来、医者を目指しているわけではない。しかし医学は彼にとって必要な知識だった。彼には人間の身体の悪いところを見ただけでわかる能力があった。怪我や病がある部分がうっすらと黒く見えるらしい。未熟ながら、特殊な力で癒すこともできる。その力は「その日」に現れた。弟を救うために。

「ミズカ?」

 目の前を横切る少女に、ハルシオは顔を上げた。

「どうした?転んだのか?」

 立ち上がり、目を腫らす少女に近寄るとスカートについた泥を手で払ってやった。

「見せて…うん、大したことないな、良かった。」

 柔らかく笑み、少しすれて血のにじんだ膝に手を当てる。柔らかな光が膝を覆うと傷はゆっくりと消えていった。

「手もかな?」

 ハルシオは優しくミズカの両手を取った。膝よりも手の方が酷い擦り傷がある。

「これは痛そうだ。」

 そう言うと瞼を閉じ、集中する。先ほどよりも大きな光がミズカの両手を包んだ。痛みとともに、傷が引いていく。

「…ありがとうございます。」

「うん、気を付けるんだぞ。…どうした?」

 ミズカの顔は痛みがなくなったにも関わらず歪んだままだった。

「カラス、か。」

 鳥ではなく、弟を思い出しため息をつく。ミズカは元々泣き虫ではあるが、泣かせる原因は大概弟のいたずらだ。

「違います。これは、木の根に引っかかってしまって。」

「追いかけられた?」

「追いかけてもくれませんでした…。」

 ミズカの目には再び、涙が溢れてきた。ハルシオは慰めるように、そっとミズカの肩に手を置く。

「難しいかもしれないけど、今はそういう時期なんだって思ってくれないか?どんな態度をとっても、アイツはミズカを一番に思ってる。それだけは変わらないから。」

 諭すように優しく響く声に、ミズカは冷えた心が少し癒えたような気がした。

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水の星の子と黒い羽根 菜梨タレ蔵 @agebu0417

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