幕間エピソード クレアの想い——その2

 そんな打算のもとではじまった生活であるが、わたしは意外なことにここでの生活に満足しつつあった。


 というのも、この屋敷ではエルフゆえに不当な扱いを受けることがほぼなかったからだ。


 ルドルフ様はエルフに対する偏見がなかった。

 わたしに対してわがままを言うことはあっても、それが憎悪や悪意に満ちたものに変わることはなかった。


 この事実は、わたしにとっては衝撃的であった。

 人というのはすべからく生まれた時から、わたしたちエルフを嫌っているものと思っていたからだ。


 しかし、幼い時から街——社会——から隔離され、普通の人との接触が一切ないからなのか、ルドルフ様は実にごく自然にわたしに接してくれた。


 人がエルフのことを憎悪するようになるのは後天的な要素——教育や先入観——によるものなのだとわたしはその時気づいた。


 この事実はわたしの心中に少なからぬ動揺を起こした。

 というのは、このことはわたしが奴隷生活で培った人に対する考えを揺るがすものだったからだ。


 人間というのは悪意に満ちている邪悪な存在であり、こんな存在とまともに相手をする必要はない。


 わたしは、そう考えていたからこそ人に対して何らの期待もせずに、どんなことをされても心を動かさずに済んでいた。


 それがこの幼い子供との生活で壊されつつあった。

 

 ルドルフ様は、よく笑いよく泣きよく怒った。

 悪意や憎悪はこの子供からはどんなに探しても見つけることができなかった。


 そんな月日を送る内にあっという間に数年が過ぎ、ルドルフ様も見る間に大きくなっていった。

 人の成長は非常に早い。

 そのことは知識としては知っていたが、実際にこの目で見るとわたしたちとの違いにあらためて驚く。


 わたしたちエルフと人間との間には時に対する変化に関して大きな差異がある。

 見た目上、ルドルフ様はわたしとそう変わらなくなったが、わたしがこの世界に生まれ落ちて過ごした年月は、ルドルフ様の数倍以上あるだろう。


 人の基準ではエルフはいつまでも若く年をとらないと思われている。

 それがまた人にとってエルフに対する憎悪をかきたてるのだろう。


 ルドルフ様の著しい成長を見て、わたしは一抹の不安——いやあえて忘れていた懸念を思い出させた。


 わたしの不安はすぐに現実のものになった。

 

 ある日のこと街から来客がやってきた。

 驚くことにわたしがこの屋敷で過ごしてきた数年で、これが初めての来客であった。


 わたしはヴィスマルク伯からの指示のもと、手紙で定期的に近況を報告していたが、その手紙に対する返答はほとんどなかった。


 たまに返答があっても、形式的な指示が一言、二言あるだけで、その文面からは親としてルドルフ様の状況を確認しようという意思を全く感じることはできなかった。


 だから、この来客には非常に驚かされた。

 この屋敷に初めて訪れた人物はルドルフ様の兄——カール様——だった。


 ルドルフ様はこの屋敷に自分の家族が初めてやってきたことに、大はしゃぎであったが、わたしは初対面からしてカール様に良い印象を持つことができなかった。


 というのもカール様はわたしに対してあからさまな蔑視、憎悪を向けてきたからだ。


 同時に、わたしはカール様に悪印象を抱いている自分に驚いていた。

 ある意味でカール様はわたし——エルフ——を見て、人として当たり前の反応をしたのだ。


 それなのに悪い印象を持つというのは、それほどまでにわたしはルドルフ様との生活に感化され、人に一定以上の期待を持ってしまっているということだ。


 カール様はルドルフ様のわたしに対する接し方に酷く驚き、怒った。


「エルフに対して軟弱な態度はやめろ」とか、「貴族として下賤なエルフに対してどう振る舞うか教えてやる」と言い放ち、人がわたし——エルフ——に対してよく行う野蛮な物言いや振る舞いをして見せた。


 ルドルフ様は、カール様のわたしに対する言動や扱いに戸惑いを見せながらも、相手が兄であるということもあり、表立って何かを言うことはなかった。


 カール様が去り、わたしと二人きりになっても、ルドルフ様の態度はいつもと変わるところはなかった。


 だが、わたしは薄々気づいていた。

 ルドルフ様がわたしを見る目に、少なからぬ影があることに。


 カール様はその後も数ヶ月に一度という頻度で定期的に屋敷にやってきた。

 その度に、ルドルフ様のわたしに対する態度は徐々に変わっていった。


 ——人のエルフに対する反応や態度は後天的な体験によって決まる——


 わたしが、ルドルフ様との生活を通して学んだことをまた実感しつつあった。

 ルドルフ様は、カール様を通じて、人の常識を学んでいったのだ。


 やがて決定的なことが起きた。

 いつものようにわたしがルドルフ様を目覚めさせようと、彼の目を見たその時、わたしははっきりと気付かされてしまった。


 ルドルフ様の瞳に宿るもの——それはわたしが散々見てきた人々と同じになっていた。

 

 その目には……憎悪、悪意が宿っていた。


 わたしはショックを受けた——受けてしまった。

 

 表面上、平静を保ったけれども、心の中はどうしようもなく乱れてしまった。

 それからルドルフ様のわたしに対する態度もあからさまに悪化していった。

 

 人がエルフと接する時によくする態度そのものになっていった。

 

 それにあわせて、わたしの振る舞いも変わっていった。

 いや……もとに戻ったと言うべきだろうか。

 

 今までルドルフ様の前では耳を隠すこともなかったけれど、今は街にいた時のように耳がすっぽりと隠れる髪型に変えた。

 

 ルドルフ様がわたしの耳を見る時の視線は、もうそこらにいる人間と変わらないものになってしまったのだから……。

 

 今まで人に散々されてきたことであったし、わたしはそうされても心が痛むことはなかった……はずだった。

 

 だが、ルドルフ様にされるとわたしの心は酷く乱れてしまう。

 わたしは、ルドルフ様に期待してしまっていたのだ。

 

 ルドルフ様だけは人だけれども、わたしに対して優しく接してくれると——

 

 わたしはルドルフ様の態度が変わってしまってからもその甘い願いを振り切ることができなかった。


 自分でも愚かだとわかっているけれども、わたしはどこかで望んでしまっているのだ。

 いつの日からルドルフ様が昔のような眼差しでわたしを見つめてくれることを。


 わたしは毎朝その愚かな願いを抱きながら、かすかな期待を込めてルドルフ様の目を見る。

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