幕間エピソード クレアの想い——その1
こうなったのはいつからだろうか。
わたしは感情があまり動かなくなった。
どんなに酷いことを言われてもされても、顔に出すことをしなくなった。
最初の内は、表面上の顔だけだったけれども、いつからか心まで動かくなっていった。
今酷いことをされているのは、わたしではなくどこか別の女。
そう思い込むことは、酷いことをされた時に、心を守るためにわたしが生み出した精一杯の抵抗だった。
だが、いつからかその思い込みは思い込みではなく、本当になった。
まるで上から見知らぬ他人を眺めているように、酷いことをされているもうひとりの自分を見ることができるようになった。
そんな特技を身に着けたのは、この屋敷——ルドルフ様の元で働く大分前のことだ。
奴隷商人の元にいたわたしがこの屋敷に来たのは今から10年前のこと。
わたしを買った貴族……ヴィスマルク伯——ルドルフ様の父——は大分奇妙な男だった。
隠れてエルフを奴隷として囲う人の貴族は別に珍しくはない。
人間はエルフのことを忌むべきもの、穢らわしいものと言うくせに、たいていの人間はその実、エルフをその情欲の対象にする。
だから、わたしを買ったヴィスマルク伯もわたしをそのように扱うものだと思っていた。
だが、ヴィスマルク伯はそうしなかった。
自身の手元に置くのではなく、わたしをまだ幼少だったルドルフ様のメイドにしたのだ。
数人のメイドを雇う訳ではなく、ただ一人わたしだけをルドルフ様と一緒に住まわせる。
つまり、この地方一帯を治める伯爵の幼少の次男をエルフ一人が面倒を見る。
そんなことは通常であればありえないことだ。
貴族でなくともある程度の家各がある人間は、そもそもエルフと同じ空間にいること自体を建前上は忌み嫌う。
隠れてエルフを囲うことはあれどもそれを知られることは恥とされている。
それなのに、ヴィスマルク伯はわたしのことを特に隠そうともしなかった。
このヴィスマルク伯の奇妙な行いについて、わたしはすぐにその理由を知ることになる。
わたしがルドルフ様と一緒に住むことになった屋敷は外見上はとても立派なものだった。
それだけを見れば伯爵の次男が住まう屋敷として十分にふさわしいものと言える。
しかし、ヴィスマルク伯がルドルフ様のことをどのように思っているのかは、屋敷の外見ではなく場所こそが何よりも雄弁に物語っていた。
ヴィスマルク伯の領都である街から遠く離れた森の中にポツンと置かれた屋敷。
そこは明らかにルドルフ様を人の目に触れずに隔離しようとするための場所であった。
こんな人里離れた屋敷に息子を一人捨て置き、さらにその面倒をエルフの女一人に任せる。
それは明らかにおかしなことであった。
ルドルフ様が幼少の身でありながらなぜこれほどに忌み嫌われているのかわたしにはわからなかった。
ルドルフ様はこのような扱いを受けてはいたが、妾の子という訳ではなく正妻の子なのだ。
だからこそなおさらに奇妙であった。
とはいえ、わたしはこうした事情についてはほとんど興味がなかった。
所詮は人間同士の話しであり、エルフであるわたしには関係のないことなのだ。
どんな場所でも、どんな状況でもわたしたちエルフが人の世界にいる時、その境遇はほとんど変わらない。
いつも人は、わたしたちエルフを忌み嫌い、恐れ、ときに愛でるのだ。
そういう訳でわたしは、街から隔離された屋敷の中で、幼い子と過ごすことになった。
ここでの日々はわたしにとっては驚くことに平穏なものであった。
ルドルフ様は幼少の時に、親元から離されたこともあり、精神的に酷く不安定な面もあり、泣きわめくことがしょっちゅうであった。
わたしはその度に途方に暮れたが、それでも今までの奴隷生活に比べればはるかにマシであった。
いや……ここでも奴隷であることには変わりはない。
監視されている訳ではないが、それは監視する必要がないからだ。
この屋敷は魔獣が住む森の中にある。
わたしが仮に逃亡しようとも、この森を一人で踏破する必要があるし、近くの街までたどり着けてもこの周辺は人族の支配領域である。
孤立しているエルフのわたしは、結局そこで奴隷に戻るだけである。
それならばここで人の子供の世話をしている方がマシである。
そんな計算のもとで、わたしは逃亡せずにこの屋敷で生活していた。
ヴィスマルク伯も似たような考えのもとで、奴隷であるわたしを事実上野放しにしていたのだろう。
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