第6話 メイドのエルフとリアルな勇気

 カールはクレアの方へと視線を動かして、


「そういえばお前はこのメイドにやけに執着していたが。フム……」


 じっとりと舐め回すように顔から足までクレアの全身を見る。

 と、カールは薄ら笑いを浮かべながら言う。


「フム……よく見ると、汚らわしいエルフの女の割には……なかなかだな。お前がこの女に執心するのも無理もない。そうだな。どうだ? エルフよ。わたしの屋敷で情婦として飼ってやってもよいぞ。エルフが伯爵の屋敷に住めるのだ。これ以上の寛大な措置はなかなかないぞ」


 カールのあまりにも失礼な態度に、俺は何か文句を言おうとした。

 が……カールのこの問いかけに俺は開けかけていた口が閉じてしまった。

 というのも、クレアの反応が怖かったからだ。


 もしかしたら、クレアは俺といるよりもカールといる方がまだマシだと思っているかもしれない。

 俺は家から追い出されるが、カールは一応これでも伯爵の跡継ぎらしいのだから、カールといる方が色々と金銭面では助かるだろう。


 だいたいクレアにとっては、俺は、カールと同程度のゲス男だ。

 ルドルフ——俺——はこれまでクレアに対して今のような態度を取っていたのだろうし。

 クレアはしばしうつむきながら黙り込んだ後に、顔をゆっくりと上げる。


「カール様。申し訳ありませんが、そのご提案はお断りいたします」


 クレアは表情ひとつ変えずに淡々と言う。


「き、きさま! メイドの……汚らわしいエルフの分際で、わたしの慈悲を拒むというのか!」

 

 クレアの返答は、カールにとっては驚きだったらしい。

 奴にとってはプライドが傷つけられたのか、勝手に酷く怒っている。

 カールは、体をわなわなとふるわせて、クレアの方へと足早に近づく。

 そして、手を振り上げて、クレアの頬へと拳を向ける。


 俺はほとんど反射的に手が出ていた。

 本当にすんでのところでカールの手を掴むことができた。

 カールは俺のその行為に驚きのような表情を浮かべ、さらに怒りをあらわにする。


「ルドルフ。何の真似だ! お前このメイドを……下賤なエルフを庇い立てするというのか。呆れ果てたぞ。まさかここまで愚かだったとはな。こんな女に籠絡されて、恥をしれ」

 

 カールは怒りの矛先を俺へと向けると掴まれた手を乱暴に振りほどき、その勢いのまま拳が俺の頬へと飛んでくる。

 気付いた瞬間には、カールの鉄拳が俺の顔面にクリーンヒットしていた。

 その衝撃はかなりのもので、俺は文字通り体ごと吹っ飛んでいた。


 体ごと地面に叩きのめされて、鼻からは何やらヌルヌルとした嫌なものが流れ出てしまっている。

 それが大量に吹き出た血だと気づくのにしばしの時間を要した。

 と、同時に体の全身からあちこち悲鳴が上がる。


 俺は自分でもわけのわからないうめき声を漏らすのが精一杯だった。

 カールにとっては俺のそうした態度全てがひどく嗜虐心を刺激するものだったらしい。


「フハハハ! 惨めだなぁ!」


 カールはそう言うなり、倒れている俺を何度も何度も踏みつけてくる。

 俺は亀のように丸くなり両手で必死に顔を防御するが、なにせこっちは固有値がオール1なのだ。

 おのずと限界はある。


 途中からはもう一方的にカールになぶられるだけだった。

 そのあまりの痛さに俺は情けないことにクレアを助けたことを後悔してしまったくらいだ。

 

 これは洒落にならない。

 俺は、はっきり言ってもうクレアのことなどどうでもよくなっていた。

 ただ、痛みから逃げたい——それしか心にはなかった。


「いい……かげんにしてください!」

 

 遠のく意識の中で、クレアの声が聞こえる。

 同時に体を打ち付けていたカールの攻撃が止まった。

 声の方を見ると、クレアは顔を紅潮させて、その大きな目をカールに見据えていた。


 カールは、クレアのその凛々しい態度に一瞬気圧され、唖然とした表情を浮かべる。

 が、すぐに怒りをあらわにし、


「きさま……メイドの……薄汚いエルフの分際で俺に意見をするというのか! その不敬! 許せんぞ!」

 

 と、叫びながら、四角い顔を思いっきり歪ませる。

 その後でカールは、俺とクレアの方を見て、何か思いついたのか薄気味悪い笑みを浮かべ、


「ふ……いかんいかん。すぐに激高するのは俺の悪い癖だ。おいメイド。俺に感謝するのだな。先ほどの無礼許してやる。ただし、今この場で、この男を捨てて、俺の元に来ると誓え。もし断るのならば……」


 カールはそう言うと、帯剣している細剣をスラリと抜く。


「フフ……。貴族たる俺に対する不敬罪として、メイド……お前を処罰する。刑は……そうだな。本来なら死罪がふさわしいが……俺は慈悲深いからな。フフ……その忌まわしい耳で勘弁してやる」


 言っていることがメチャクチャだ。

 たかが口答えをしたから、人を斬るなど、そんな無茶苦茶なことをするなんて。

 だが、カールの態度はそれが冗談でないことを物語っていた。

 剣を手に取り、ニヤニヤとクレアを見ているカールは、自身の先ほどの言葉を実行するのに何のためらいもないように思えた。


 クレアはただ黙って、顔をうつむかせている。

 ただ、わずかに彼女の体は震えていた。


「さあ! さっさとしろ! いくら気が長い俺でも我慢の限界はあるのだぞ!」


 クレアはゆっくりと顔を上げて、

「お断りします。わたしはあなたの元へはいきません」

 と、何の躊躇もないようにそう言う。


「なっ……き、きさま……。断るだと。エルフのくせに……二度も二度も……俺の慈悲を拒むとは……もう勘弁ならん!」


 カールは怒りで体をふるわせながら、剣の細い切っ先をクレアにまっすぐ向ける。

 止めなければならない。

 立ち上がらなければならない。


 だが、俺の体は全くその場から動かなかった。

 いや……正直に言えば動きたくなかった。

 怖くてたまらない。


 この卑劣な男を止めなければならない。

 その気持ちは確かにある。

 だが、情けないことにその気持ちより恐怖の方が強かった。


 また殴られ、蹴られるのが嫌だった。

 いや……今度はそれだけではすまない。

 相手は、剣を……本物の剣を持っているのだ。


 しかも、それを振るうのに何の躊躇もない。

 クレアに……少女にだって剣を向けるような輩なのだ。

 どこかの異世界転生の主人公みたいに美少女を助けるなんて無理だ。


 だって、これはリアルなのだから。

 俺にはチート能力も、何もない。

 抵抗すれば、本当に斬られて、死ぬ。


 そんなのは嫌だ。

 痛い思いはしたくない、死にたくない、生きたい。

 しょうがない。

 仕方がない。


 リアルの世界で、刃物を振り回している犯罪者に丸腰で立ち向かう人なんていない。

 みんな逃げるに決まっている。

 いや……たまにそういう正義感あふれる人がいて、犯人を止めようとするけど、現実はハッピーエンドにはならない。

 そういう人は犯人に刺されて、死んでしまう。


 だから、ここで俺が赤の他人のクレアを見捨てるのはしかたがないことなのだ。

 俺はみんなと同じ当然のことをするだけだ。

 俺は、クレアから顔をそらし、ただ地面を見る。


 そう……これでいい。

 これが合理的な選択……。


 視界に、クレアの足が目に入った。

 彼女の足はガクガクと震えていた。

 見るな……。見なくていいんだ。


「その薄汚い耳を叩き切ってやるわぁ!」

 

 ルドルフが剣を振り上げたと認識した時、俺は、何か訳のわからない叫び声を上げていた。 

 そして、ルドルフの剣の前に体を飛び込ませていた。


 その後、自分の体に何か異物が入るような感覚がして、自分の体が剣で斬られたのだと認識した。

 それと同時に、今まで経験したことのないような激しい痛みが全身に走り、その場に倒れ込む。

 視界にクレアの顔が目に入った。


「どうして! こんなことを……」


 クレアは訳がわからないといった驚きと悲しみが入り混じった顔を浮かべている。

 俺自身、酷く驚いていた。


 なぜ自分がこんなことをしたのかまるでわからなかった。

 既に痛みはおろか感覚も希薄になり、頭がぼおっとする。

 この感覚は前に一度、経験していた。


 この世界に転生した時——つまり俺が死んだ時——の感覚だった。


 これ……死んだな。

 

 なんで、俺こんなことしたんだ。

 無視するって決めてたはずなのに。

 とてもヒーローってガラじゃないのにな。

 案の定、このざまだ。


 気付いていたら、体が動いていたって……こういうことなのかな。

 遠くで、カールの声が響く。


「お前は! いったい何をしているのだ! 本当に愚かな奴め!」


 カールが吐き捨てるような表情を浮かべて、俺を見下ろしているのが、かすんでいく視界に映る。


「いい……かげんにしなさい。あなたは……」


 クレアの声が聞こえた次の瞬間、薄れゆく意識の中でもはっきり聞こえるほどの大きな爆音が鳴り響いた。

 だが、俺は何が起きたか確認する前に完全に意識を失ってしまった。

 最後に映ったのは、クレアが俺を心配そうな表情で見つめていた顔……。

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