ゼン:薄桃

 なだらかな尾根が遠くに見える草原に、八脚の椅子が乱雑に並べられている。けれども、ひとつと違わず、それらは同じ方を向いていた。

 そのうちの一脚に座った橙色の瞳を持つ少年は地面に届かない足をぶらぶらとさせる。

「絶対なる善意なんてぶっちゃけ信じられないよなー」

 青色の瞳の人物が膝の上の本から顔を上げることもせず、同意を示す。

「この行動には下心がありますって言われた方が、安心はできるな」

 そんなふたりに物申す人物がひとり。

「何言ってるんだ。君達。この世に生を受けた、命ある生きとし生けるすべてのものの根底にあるものは善の心だよ!」

 胸を張って声高に主張した薄桃色の瞳の人物に青色の瞳の人物はお手本のような無視をし、橙色の瞳の少年は心の底から軽蔑した顔を向ける。

「ああ、ヤダヤダ。心にもないことを堂々と」

「人の言葉を頭から疑うなんてよくないぞ! そんでもって? もうひとりは完全無視だなんて! 酷いよ! ……。クッ……ふふふ、アハハハハ!!」

「気は済んだかよ」

 橙色の瞳の少年がため息を吐く。

「みんな集まったかな?」

 ギスギスし始めた空気に不釣り合いな明るい声が割って入る。

 現れたのは褐色の肌に色素の薄い癖のある長い髪、髪と同じ色の長い睫毛に縁取られた鮮やかなマゼンタ色の瞳がとても印象的な人物だった。

 そんなマゼンタ色の瞳に映し出されるのは八脚の椅子に対して集まっている三人の姿だけ。

「うん! 集まってないね! いるかい?」

 最後の一言は明確にそこにはいない誰かに向かって投げ掛けられた。

 応える様に上空から落ちてくる一筋の黒。それは僅かな風だけを起こして八脚の椅子の後ろに音もなく着地する。

 現れた黒髪黒目の長身の人物にマゼンタ色の瞳の人物は慣れたように指示を出す。

「君は緑色の瞳の子とミルク色の瞳の子を頼む」

 黒髪の人物は頷く。

「ちなみに赤い瞳の子と飴色の瞳の子がどこにいるか知ってる?」

 黒髪の人物はスッとマゼンタ色の瞳の人物の斜め後ろを指差した。

「さすがだね。ぼくはそっちに行くから。そっちは頼むね」

 マゼンタ色の瞳の人物が地面を蹴るとその姿が掻き消えた。

 橙色の瞳の少年が呟く。

「あんなん、もう瞬間移動だよね」

 青色の瞳の人物が膝の上の本を閉じる。

「俺達にもできるという話だが……。ハア。もう人間じゃないのに未だ人間の感覚に引き摺られているなんて、ナンセンスだ」

 人間というくびきから解き放たれて尚、人間でいた頃の感覚はこの精神に染み込んでいるらしい。と、青色の瞳の人物は嘆く。

「けっ」

 薄桃色の瞳の人物はつまらなそうにどこまでも続く空と開放感あふれる景色に目をすがめた。


   +++


 目が覚めると雨が降っていた。覚醒に程遠い薄桃色の瞳が何度も瞬きする。湿気た空気を鼻から吸い込む。

 針葉樹の高い木の枝の上、惰眠を貪っていた枝にゼンは座り直す。しとどに濡れた服と髪から雫が零れる。

「ふう」

 酷く懐かしい夢を見た。まだ、『浄化』の仕組みとして生まれ変わって間もない頃。まだ、『浄化』の仕組みとして動き出す前。まだ、自分達に名前がなかった頃の記憶。

 暫く、森に降りしきる雨の音を聞いて、ゼンは枝から飛び降りる。バシャッと地面に降り立って、服の裾に跳ねた泥に舌打ちする。

「チッ」

「うわっ!」

 背後から聞こえた声にゼンは驚いて振り返る。そこにはフードを目深に被ったゼン以上に驚いた顔の壮年の男が立ち尽くしていた。

 飛び降りたところを見られたかと、ゼンは男を警戒する。自分より上背のある男を睨み上げる。

「大丈夫か、君! ずぶ濡れじゃないか!!」

 大変だ、とゼンを見て焦った顔の男は完璧に雨風に備えた格好をしていた。よく使い込まれたレインコートの下には端から見ても大きな荷物を背負っているのが分かる。

 行商人だろうか? それも、かなりの玄人のようだ。

 ゼンは困ったように笑ってみせる。

「すみません。旅慣れていなくて、道に迷った末に雨にまで降られて、途方に暮れていたところなんです」

「そうだったのか! そいつは災難だったなあ」

「見たところ御仁は旅慣れているご様子。会ったばかりで信用するのも難しいとは思いますが。次の国までご一緒させて頂けないでしょうか? 道を教えて頂けるだけでも良いのですが」

「水臭いことを言うな! 旅は道連れという。ここで会ったのも何かの縁だ。向かう予定の国までもう少しだが一先ずあんたのその格好をどうにかしよう。近くにいつも休憩に使う洞穴があるんだ」

 男がけもの道を先導し、その後をゼンが付いて行く。

 辿り着いたのは、風雨に晒され浸食されてできた、洞窟というには奥行きのない、石崖にできた浅い窪みだった。

 男が手慣れた様子で火を起こす。

「さあ、濡れた服を脱いで。代わりにこれを着るといい」

 そう言って男が差し出したのは背負っていた荷物の中身だった。

「売り物なのでは? お気持ちはありがたいのですが」

「気にするな! 体調を崩して動けなくなる方が大変だ。そうだろう?」

「では、お言葉に甘えて」

 濡れた服を脱ぎ、男から受け取った服に腕を通す。

「少し小さかったか」

 スッと目を細めて男は小さく呟いた。

 ゼンは内心ニヤリと笑う。

「大人サイズにしては小さいですね。子供サイズには大きい」

「あ? ああっ! 十代半ばの少年少女に合ったサイズ感の服を専門に取り扱ってるんだ」

 男が取り繕うのを見ながらゼンはただただ穏やかに微笑み続ける。

「十代半ばの少年少女ですか。お祝い用ですか? どこかの国の特産品でしょうか? 凝った刺繍に、なかなか目を引く宝石が所々に散りばめられていますね。なかなか値が張りそうだ。こんなものを見ず知らずの旅人に差し出してしまうなんて。御仁は随分な人格者でいらっしゃる」

「い、いやいや。人格者だなんて。当然のことをしたまでだ。そうだろう? まだ、雨は上がりそうにないな。お茶を入れてあげよう」

「ありがとうございます」

 ゼンは微笑み続ける。少年少女用と言いながら、男の荷物の中の服は男物しかない。出されたお茶に遅効性の睡眠薬が入っていることに気付きながら、ゼンは微笑み続ける。

 雨が上がると男とゼンはすぐに出発する。国の防壁に辿り着き、門番の男に男が何やら耳打ちする。

「通って良し!」

「さあ、行こう」

 男に促されるまま、ゼンも入国する。その際、目の前を通り過ぎるゼンを見ながら門番がニヤニヤと笑いながらぼそりと呟く。

「上玉だな」

 ゼンはつまらなそうに小さく鼻を鳴らした。

「宿に当てはあるかい?」

 問われてゼンは少し困ったように微笑んで首を横に振る。

「折角だ。宿も手配してあげよう」

「何から何まですみません」

「いいんだ。私がやりたくてやってるんだ!」

 高級とまではいかずとも、安宿というには値の張る宿に案内される。

「良かったら。夕食も一緒にどうだろうか? 奢るよ」

「さすがに悪いですよ」

 ゼンが一歩引くと、男は前のめりになる。

「いやいや。君のあまりの荷物の少なさにこれからどうするつもりなのか気になっていてね。この国に暫くいるつもりなら仕事を紹介することもできるし、違う国を目指すならその手伝いだって私は出来る。話をしよう!」

 有無を言わせぬ男の圧に気圧された振りをしながらゼンは微笑む。

「では、お願いします」

「任せてくれ。では、後で迎えに来るから」

 男が足取り軽く宿を去っていく。

 ゼンは部屋に引っ込み、窓の桟に腰掛け外の景色に目を向ける。

 活気に溢れた明るい雰囲気の街並みだった。

「は―――……」

 ゼンはつまらなそうにため息を吐いた。


 日が沈み掛け、視界が通りにくくなる時間帯。

 赤みを帯びた光が差し込む部屋の中、ベッドの上のゼンは静かな寝息を立てている。

 そのベッドに気配を消した人影がひとつ、ふたつと近付いた。

「薬が効いてるな。運び出すぞ」


   +++


 ゼンは黴臭さに眉間に皺を寄せ、目を開ける。身体を起こせば地下なのか、窓のない部屋の床の上だった。見渡せばゼンが今着ているのと同じような服を着た三人の少年が不安そうな顔で俯いていた。十代前半から半ば程の、それなりに見目の整った少年達だった。

「ふ~ん」

 ゼンが声を出すと、ひとりが顔を上げる。三人の中で一番年長に見える少年だ。

「大丈夫か? 現状は理解できてるか?」

「現状……。ここはどこ?」

 ゼンは頭に浮かんだテンプレートな質問を口にする。

「やっぱり、能天気な顔をしてられる訳だ。俺達は誘拐されたんだ。これから競売に掛けられる……。ここは、人身売買の、商品の待機室だ」

「ふ~ん」

 ゼンの一向に変わらない態度に少年は目を見開き、声を荒げる。

「わ、分かってるのか!? 俺達売られるんだぞ!」

「ウチに帰りたい……」

 部屋の隅で膝を抱えていた、まだ幼さの残る顔立ちの少年が涙声で呟く。

 けれど、少年に慰める言葉を掛ける者はいない。皆が皆、俯き、光の見えない暗闇にいる絶望に歯を食いしばる。そんな少年達を前にゼンは胡坐をかき、頬杖を付く。

「で?」

「でって……」

 ゼンの尊大な態度に少年はこれ以上の問答は無意味と頭を振る。

 誰も喋らなくなった室内で、ゼンは天井を見上げる。

 目視では見える筈のない天井の向こうに広がる景色を眺める。

「つまらないな」

「何……」

「想定の範囲内でつまらない」

「まだ、分からないのか? 俺達はもう……」

「そうやって諦めた振りして、楽になろうとしてるお前らも気に入らないんだよ」

 ゼンは立ち上がる。

 固く閉ざされた扉のドアノブを握って、動かないのも構わず捻り上げる。ボッという音と小さな衝撃波と共に扉は周囲の壁と共に跡形もなく消失する。

 ゼンは薄暗い廊下に出て、悠々と上を目指す。

 ゼンのいなくなった部屋で少年達は、突如目の前に開けた道を呆然と見つめた。


 ゼンは廊下を進み、階段を上がる。擦れ違う人々は商品が出歩いている事実に一瞬だけ声を上げるが次の瞬間には砂塵と化した。目の前に現れる扉という扉を消し去りながら、命あるものを砂粒へと変えていく。


 場所は少し変わる。

 ゼンと少年達がいた地下室を持つ建物はそんなに大きくはない。大通りから一本外れた路地裏に建つ、知る人ぞ知る小劇場。普段から滅多に開いていないその小劇場がこの日、珍しく大勢の人間で賑わっていた。

 その舞台裏でゼンを連れて来た男が仲間と景気良さそうに笑い声を上げる。

「聞いていた予定より、ひとり増えたのには驚いたが、なかなかの上玉じゃないか。どこで見つけて来たんだ?」

「ひとりでふらふら森の中をさ迷っていたんだ。身元は知れないが構やしない。値が付いちまえばこっちのもんだ!」

 男と仲間はゲラゲラと品なく笑い合う。そこに慌てて駆け込んで来たのはオークションで司会を務めるが故に少しばかり着飾った男。

「貴様は何を連れて来たんだ!?」

「へ?」

 男の目の前で司会の男は瞬きの間に砂塵となって消えた。

「え?」

 目の前で起こったことが理解できなくて男は半分だけ腰を上げる。見れば先程まで言葉を交わしていた仲間の姿もない。仲間が座っていた筈の椅子の上には砂の山が出来上がっている。

「な、なに……」

「こんにちは。こんなところにいたんですね」

 ゼンがひょっこり部屋の外から顔を覗かせる。

「はあ?」

 地下に閉じ込めている筈の人物の姿に男が間の抜けた顔になる。

 ゼンは微笑む。

「素敵なところに連れて来てくださって、ありがとうございます」

 部屋の中に入って来たゼンに男は後退る。

「あなたは素晴らしい。人の良い顔をして他人を騙して陥れ、自分の糧とする。本当に素晴らしい……。あなたは俺が信じる人間の姿そのものだ!」

 ゼンが男に手を伸ばす。男は目の前の人の姿をした得体のしれない何かから逃れようと後退る。が、家具に足を取られ、盛大に尻もちを着いた。

「あ、そうだ」

 ゼンは伸ばしていた手を引っ込める。

「アンタ、一番最後ね」

 そう言うと、ゼンは男を放たらかしにして部屋を出て行く。

 部屋にはぽかんと口を半開きにした男だけが残された。


「ふふふ」

 ゼンは歩みを進めながら笑う。

「ははは!」

 声を出す暇もなく砂塵と化す人間達に声を上げて笑う。

 舞台を前にオークションが始まるのを今か今かと待っていた人々も、さすがに舞台裏で何かが起こってるのを察して、ざわつき始める。

 真っ暗な舞台に突如スポットライトが点灯し、人々の目が集中する。

 舞台のど真ん中に置かれた革張りの椅子に、舞台袖から上がって来た男が座る。

 その服装から、今日、競りに掛けられる予定の商品であることが舞台を見上げた人々には分かる。けれど、大きな違和感。

 これから競り上げられる予定の商品が、何故あんなにも不遜に「こちら」を見下ろしているのか。

 ゼンは椅子の背凭れにどっしりと背を預け、足を組む。明るい舞台に対して薄暗い客席に向けてニコリと微笑む。

「素晴らしい。人間を体現する者共の巣窟だな。ここは」

「な」

 に、と誰かが言う前に劇場の端から、集まった人々の首が、首だけが砂塵となって弾けて行く。波打つように首のなくなった身体が順繰りに倒れていく。

 最後の最後に誰かが叫ぶ。

「ぎゃあああああぁああぁぁああああぁぁぁぁ!!!! …………。…………」

 そして、誰もいなくなった客席を前にゼンは、

「ふう……」

 と息をつき、無表情に言う。

「つまらないな」

 何故、自分はこうなのだろうと思わずにいられない。


 楽しいが分からない。

 何が好き? と問われるのが嫌いだった。

 生きていたら好きなものがあって当然という考えが嫌いだった。

 笑ってはみても、正直、楽しくはない。好きだと思ったものも、好きだと口にした途端にそうではないことに気付く。他人と言葉を交わす程に自分にとってこの世にあるものの殆どが必要のないものなのだと思い知らされる。

 生きる程に嫌いなものが増えていく。

 どうしてこうなった。

 分からないことばっかりだ。


 ゼンは立ち上がる。ゼンを中心に空気が波打つと小劇場が一瞬で砂塵と化す。

 小劇場の外、何かが起こっていることに勘付いて集まって来ていた人々は目の前から突如として建物がなくなって呆然と立ち尽くす。次第に人々の視線は自然と、不自然に出来上がった砂の山の上に立つゼンに集まる。

「何が、起こって……」

 聞こえて来たそれはゼンへの問い掛けではなく、思わず口を突いて出た呟き。

「鬱陶しいな」

 聞こえてくる喧騒の中、ゼンは予備動作なく、ふわりと上昇した。

 人の姿をした空を飛ぶことのできる存在に人々の顔は一瞬で真っ青になった。

「大災厄だ!」

 叫んだのは砂の山から這いずり出て来た、ゼンをここへ連れて来た男。

「誰かっ……助けてくれ! 大災厄が商品……あ、いや、キャストにっ……キャストに紛れ込んで……」

 垂直に上昇を続けていたゼンは国を一望できる高さまで来ると自由落下を始める。地上に向かって頭から落ち始め、最高速に達した時、ゼンは身体を反転させ、未だ地面に這い蹲っていた男の上へ、勢いそのままに着地する。

 地面が割れる衝撃に男と周囲の数人、景色の一部が巻き込まれて砂塵と化す。結果を見たゼンは顔を歪ませて舌打ちする。

「チッ!」

 改めて周囲に目を向ければ、恐怖に顔を歪ませた人々が目の前で起こったあまりのことに一歩も動くことが出来ないまま立ち尽くしていた。その中にゼンと同じような服を着せられた三人の少年が混ざっていた。地下からいつの間に出てきていたのか、ゼンの浄化の力に巻き込まれることなく、大人達に庇われてゼンを注視していた。けれど、少年達の目には恐怖は映っておらず、ただ、まっすぐにゼンを見つめていた。

「ふん」

 ゼンは今度こそ、地面から浮かび上がると振り返ることなく空の彼方へ飛び立った。

「アレが、大災厄……」

 青い空へと消えたゼンの後姿を見送った少年達の目には光が宿っていた。


   +++


 ゼンは飛ぶ。目指す場所などないまま緑に覆われた地面を遥か下方に見ながら飛び続ける。天気は良く、どこまでも青い空は地平線に向かう程にその色を白に近付けていく。

 先程のことを思い出して再度舌打ちする。

 踏み潰す瞬間、男だけを浄化しようとした思惑とは裏腹に力は分散し、周囲にも影響が及んだ。客席の人間達の頭を順繰りに飛ばすのがうまくいっただけに、脳裏にちらつく失敗の光景にイライラを募らせていると、ガクンと高度が下がる。

「う……、クソッ!」

 バランスを崩したゼンは体勢を立て直すことが出来ないまままっすぐに地面へと墜落した。

 衝撃に地面は抉れ、土埃が舞う。

 宙に舞い上がった草交じりの土がバラバラと自分の上に落ちてくるのを感じながらゼンは上体を起こし、重いため息をつく。

「……はああああぁぁぁぁ…………」

「びっくりしたー。大丈夫?」

 想定外に聞こえてきた声にゼンは全身を強張らせた。

 地面に添って目を前方に向ければ靴の爪先が見える。真っ黒な靴だった。艶消しが施されたようなマットな黒。皮革にも見えるが素材は判然としない。そのまま目線を上へと向ければ、そこに立っているのがとても背の高い人物であることが分かる。

 艶やかな黒い髪、低い鼻、派手さのない顔に露出を限りなく抑えた黒い服。髪と同色の短い睫毛に縁取られた半眼の黒い瞳はどこか眠たげに開閉を繰り返す。

「なんか予感がして、目を開いたらこっちに向かって落ちてくるのが見えて。慌てて起き上がったよ。……大丈夫?」

 あまりに想定外のことにゼンは頭が真っ白になるが反射的に笑顔を作り上げる。

「すみません。驚かしてしまいましたね。えー……少し、バランスを崩してしまいまして」

 うまい言い訳が思い付かないまま立ち上がり、服の埃を払う。

「お怪我がないようで安心しました。あ」

 顔を上げた瞬間、膝から力が抜けて前のめりに倒れる。

 胸に飛び込んできたゼンを黒髪の人物は事も無げに支えた。

 ゼンはカッと顔が熱くなって、バッと黒髪の人物から離れる。一歩、二歩と後退る。

「うん。大分バランス崩してるみたいだね」

「……」

 人間でなくなって以来、空腹を感じることもなければ、必要のなくなった呼吸は名残に過ぎず、痛覚は触覚の延長線に過ぎなくなっている。そんな身体に体調不良など起こる筈もなく。

 ならばこの不調の原因が何かといえば、ひとえに心の不調に他ならない。

 ゼンは自分が酷く動揺していることを自覚した。

 乱れる呼吸に視界が歪む。

「大丈夫……じゃあ、ないね」

 薄桃色の瞳が、半眼に閉じられた目蓋の向こうにある黒色の瞳を捉える。

 黒色の瞳はゼンの焦点の合わない薄桃色の瞳を見返した後、不意に逸らされる。

「何かあった? 話ぐらいなら聞けるけど」

 ゼンは絶句する。次の瞬間、ハッと込み上げた笑いを堪えられない。

「は、ははは、ハハハハハハッ! 何でも知ってるみたいな顔しやがって。お前に話すことなんて何もねえよ! クロ!」

 吐き捨てるように言ったゼンに黒髪の人物は首を傾げる。

「そう? それならそれでもいいんだけど」

 チラと黒い瞳がゼンの姿を斜に見る。

「随分と辛そうだから」

 ゼンの頬が引き攣る。

「相変わらず。不器用なんだな」

 ゼンは一歩後退る。

 真っ黒な瞳がまっすぐにゼンを捉える。

「ゼン」

 ゼンは黒髪の人物に背を向けて走り出していた。

 思う様に前に出ない足を必死に動かして前へ進もうとする。けれど、背後から迫る真っ黒な気配に身が竦む。

 目の前に現れる、背後から伸ばされた両の手がゼンの両目を覆う。

「ゼン。僕達はもうずっと前に煩わしい柵から解放されてる」

 自分達はもう人間ではない。人間の尺度で物事を捉える必要はなく、自らそれらに関わっていく必要すらないのだと言い聞かせる。

「だから、もう、そんなに苦しむ必要は」

 ない、と言い掛けた瞬間、ゼンを背後から抱えるようにして囁き掛けていた黒髪の人物の腕が外側へ弾かれる。

 その衝撃に、黒髪の人物は両の眼を大きく見開いて驚いた。

 黒髪の人物から逃れて、ゼンは一歩二歩と進んで振り返る。

「他の奴らに言ってやれ!」

 眼光の戻った薄桃色の瞳に薄っすらと浮かんだ涙を乱暴に拭い、ゼンは地面を蹴る。一度失敗して、二度目で空へと飛び上がる。宙で一度振り返り、

「先生の真似事なんてしてんじゃねえぞ!」

 捨て台詞を残して、飛び去る。

 少しふら付く後ろ姿が見えなくなるまで見送って、黒髪の人物は中途半端に広げたままになっていた両手を下ろす。

「……逃げられた」

 まあ、怒りをちゃんと言葉にできる気力があるなら大丈夫かと思いながら、少し項垂れる。

 他の皆のように同胞だけでも許容できるようになって欲しいとクロは切に思う。

 目蓋を閉じて見る深い深い意識の底。


 マゼンタ色の瞳の人物が困ったように笑う。

「真似してる訳じゃないのにね」


   +++


 八人の中で自分が最も力の制御がへたくそなことを、ゼンは十分に理解していた。狙ったところだけの浄化には神経を使いに使って成功率は九割を超えるが、着地なんてうまくできることの方が珍しい。

 けれど、弱みを見せるなど、他人に甘えるなど絶対に御免だった。


 長く飛んでいることが出来なくて、ゼンは草原の中、息を乱しながら緑を蹴散らしながら歩く。

「クロの奴……。っ畜生ちくしょうチクショ……」

 前に出していた足を止める。悪態を吐いてはいたが先程まで乱れていた気持ちは段々と落ち着きを取り戻していた、どちらかと言えば今は興奮が勝っている。

「……」

 ゼンはため息をついた。

 見上げれば光差す青い空が広がっている。

                                  了

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『小休憩』19番目の物語【大災厄と呼ばれる8人の話】 利糸(Yoriito) @091120_Yoriito

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