ユウ:橙

「居たーーーーーーーー! 居た居た居た居た居た!! いーーーーーーーーっっっていや!」

「ぐえ」

 目蓋が震えて黒い瞳が半分だけ開く。草原に寝転がっていた人物の腹の上に少年が馬乗りになっていた。

 少年は鮮やかな橙色だいだいいろの瞳を細めて笑う。

「久し振りだな!」

「誰?」

「また覚えてない振りか?」

 少年は先程の快活な笑顔とは裏腹に大人びた笑顔で眼下の人物を見下ろす。

「俺はお前と同じ、人間達が大災厄と呼ぶもののひとつ。人間達の記録で俺は匡正きょうせいの大災厄って記されてることが多いかな。知ってる癖に。なあ? クーロノ♪」

 艶やかな黒い髪、半眼の黒い瞳、低い鼻、派手さのない顔に露出を限りなく抑えた黒い服。少年の下敷きになったままの人物は一度二度と瞬きする。

 返事がなくとも少年はそれを気にしない。

「人間達が記した俺達の記録を収集するのが、俺の趣味なのは知ってるだろ?」

「知らない」

「他の奴らがちらほら歴史書や記録に残ってる中、お前の記録はホント無くってさ。そ・れ・が! 丘陵きゅうりょうに建つご立派な国にこれでもかって! しかも国民全員が認知するぐらいのありきたりな伝承として残ってる! この記録を見た時の俺の興奮がお前に分かるか!? 分からないだろう!!」

「知らない」

「そこに記されてたんだよ。クロノ。お前、そう呼ばれてたんだろう?」

「……知らない」

「まったく。本当は全部覚えてる癖に」

 少年は頬杖を突く。

「まあ、お前の場合、全部覚えてるが故に情報量が多すぎて、記憶の整理に殆どの時間を寝て過ごして、起きてる間はその処理を停止することで正気を保ってるようなもんだもんなあ。仕方ないっちゃ仕方ないんだろうけど。起きている間は見聞きしたものをただ脳内の記憶の箱に順番に詰め込んでるだけ。機能が停止してるから、思い出すこともできなければ、それと関連付けられている筈の感情の想起もない。でも、絶対に思い出せない訳じゃないんだ。まあ、大分? 脳とか精神に負担が掛かるらしいけど」

「ぐう」

「寝るな!」

 目にも止まらぬ速さで腕が振り抜かれる。パチンと良い音がして、黒い前髪が揺れる。

「……痛い」

「まあ、俺の考察は置いといて。本題はここからなんだって」

「本題?」

「そう! お前の記録を手に入れてウッキウキになった俺は、普段はそんなこと思わないのになんだかお前に会いたくなって、お前を探すことにしたんだよ。趣味に全振りの自由気ままな旅だ。気持ちが萎えるまでは探してみようと。その道中で噂を聞いたんだよ」

「噂?」

「大災厄が暴れてるって噂さ」

 少年の口角が上がる。細められた橙色の瞳は笑っていないどころか、驚くほど冴え冴えと冷え切っている。

「これがさ、本当に俺達の誰かだったなら別に良かったんだよ。でもさ、聞けば聞く程、見たことも聞いたこともない奴なんだよね。だからさ、確かめに行こうぜ!」

 笑っていなかった瞳が爛々らんらんと輝く。

「放っておけばいいのに」

「ええー? 腹立たねえ? 大した力も持たない奴らがさあ、俺達を名乗るなんて。身の程知らずもいいところ!」

「分からない」

「分かんねえかー。でも、これも何かの縁だと思うんだよな。そいつの噂を聞いた時、一旦お前を探すの後回しにしたんだぜ。それが、その最中にこうして会ったんだ。これを運命と言わずなんという。行・く・ぞ!」

 少年は無邪気に笑う。それは、見た目の年相応に楽しそうな笑顔だった。


   +++


「畜生。どうしてこうなった! ちょっと優越感に浸ってただけだろ。俺はちょっと魔法の制御に失敗しただけだ。湖の水が割れたのをたまたま見た奴らが勝手に俺を大災厄って言い始めただけだ。俺から吹聴し始めた訳じゃねえ。確かにちょっとその噂を利用して食い物とか金とか女とかせしめたけどよ。ちょっといい思いさせて貰っただけだ。それだけだ。それだけなのにっ! なんで本物が出てくるんだよ!!」

 毛量の多い長髪をひとつに束ねたガタイの良い男が森の中を走っている。背中に怖気が走って男は頭を抱えて身を低くした。森の上半分が一瞬で消失する。男は浅い呼吸を繰り返し、ゆっくりと背後を振り返る。遮るものがなくなって頭上いっぱいに広がる青空にふたつの人影が浮いていた。片や眠そうに半分閉じた黒い瞳、黒い服に身を包んだ長身の人物。片や男を見下ろしながら橙色の瞳を爛々と輝かせる少年だった。

 上空のふたりから目を反らし、男は再びふらふらと走り出す。それを見た少年は笑みを深くした。

「いいね! アイツ勘がいい! 逃げ場を作ったとはいえちゃんと生きてる。勘が悪い奴は今ので腹から下しか残らないからさ」

「ふーん」

「興味ないか」

 少年は男の背を追い掛ける。

 走る男は目の前に広がる、切り株しか残っていない森の残骸にごくりと唾を飲み込む。

「桁が違う……。格が違う……。これが、大災厄!!」

 男はゆっくりとその歩みを止める。

「あれ。止まった」

 立ち止まった男は緩慢かんまんに振り返ると地面に膝を付き、両手を付き、額を付いた。

「見逃してくれ! 助けてくれ! 俺自身が大災厄だと吹聴し始めた訳じゃないんだ。周りが勝手に」

「はあぁ? 俺が声を掛けた時「俺がその噂の大災厄だ」とか得意げに言ってたのはお前だよな?」

「それは大いに反省してる! 悪かった!」

 土下座をしたまま顔を上げない男に少年はため息をつく。

「つまらないな。お前。反省なんかすんなよ。つらぬき通せよー」

 不満そうに唇を尖らせながら、少年は高度を下げていく。男の前に着地するとそれを待っていたと言わんばかりに男は勢いよく上体を起こす。

「死にさらせぇっガハッ!!!」

 少年は目を丸くすると同時に男の腹を蹴り飛ばしていた。吹き飛ばされた男は二度バウンドしてから地面を滑って止まる。

「びっくりしたあ! 思わず足が出ちゃったよ。いいね! そう来なくっちゃ! 自分こそが正義だと証明して見せろ!」

「くっそ……」

 肘を支えに男は起き上がろうとする。

「楽しそうだな。おい」

「軸のブレない人が好きなんだ」

「だったら見逃してくれよ」

「お前が俺達をかたったのと俺の嗜好しこうは別問題」

「俺が反省したらテメェの嗜好に合わず、テメェの好みに合わせて貫き通したら不興を買い続ける。詰みだな」

「アハハ! 本当だ! でも、可能性はゼロじゃない。俺が飽きるか満足するか、お前が死ぬかお前が俺を倒すか。どっちかひとつでお前は助かるぜ」

「最後のは無茶だろ」

「そうかな?」

 少年は心の底から不思議そうに首を傾げる。それを見た男は心底嫌そうな顔になる。少年の背後、数歩離れたところでは黒髪の人物がうつらうつらしていた。

「そもそもテメェらの存在は世界のどこを見ても不動も不動だ。多少偽られるぐらい許容する懐の深さを見せてみたらどうだ。狭量がすぎるんじゃねえか? 自己顕示欲の塊か」

「ふふふ」

「なんで楽しそうなんだよ」

「お前が折れないからさ! いいね! ワクワクする! 逃げるも隠れるも立ち向かうもお前の自由だ。さあ、第二ラウンドと行こう!」

「だから……無茶だろ。隠れられるところはテメェが全部吹き飛ばしちまったし」

「大丈夫大丈夫。ハンデ付けるから」

「はんで?」

「これから俺はお前を追い詰める為に、まず、空飛ばないだろ。それから、お前達が俺達を大災厄と呼ぶに至ったこの力も一切使わない。このふたつを俺は自分にハンデとして課す。どうだ?」

「マジかよ」

 体格の有為ゆういは男の方にある。会話をしている間に殴られた腹の回復を図っていた男はゆっくりと立ち上がる。目の前の少年の成熟しているとは言い難い体格、背丈は男の三分の二程しかない少年を見下ろして男は笑う。

「男に二言はないな」

「性別の概念なんて俺達にはないけど。まあ、そういうこと」

「後悔するなよ!」

「しないしない」

 隙だらけの少年にノーモーションで男は拳を振るう。残像の残る拳は人間離れしている。

「すごいすごい。魔法使いっていうだけでも珍しいのにお前のそれはかなり強力な部類だ」

 ゴキリッとにぶい音が響く。男は信じられないと目を見開く。男が振るった拳を少年は手の平で止めていた。そして、男の肘が有り得ない方へ曲がっていた。

「ギャアアアアアアアアアァァァァァァ!!! この大噓つき野郎おおおおおぉぉぉぉ!!!」

 少年が不愉快そうに眉を顰める。

「心外だ。俺は一切特別な力なんて使ってないぜ? 魔法はもちろん使ってないし。筋力も体格も間違いなくお前の方が上だ」

「ヒィ、ヒィ……。だったら、なんで俺が競り負ける!」

「そうだなあ。ひとつ言えることは、俺はお前より長く存在してる。それだけ長く研鑽を積んでるってことかな」

 男の顔が青ざめる。

「つまり、なんだ。俺の腹を蹴り飛ばした時も」

「ああ、うん。あれも普通に蹴った」

 男は一瞬でも勝機があると思った自分の愚かさを呪う。目の前にいるのが人間と似た姿をしていても、全く異なる次元の存在であることを思い知る。

「くそ!」

 男は強く地面に手の平をつく。

「わっ」

 突如舞い上がった大量の砂に少年は驚いて目を瞑る。

「目暗まし? 汎用性に富んだ魔法だなあ。衝撃派を飛ばすだけの魔法だと思うんだが。強力だと色々応用が利くんだな」

 少年は顔の前を手で払う。砂が落ち着くのを待って、振り返る。少年の背後では長身の人物が黒い髪と黒い服を埃まみれにしたまま、こっくりこっくり船を漕いでいた。少年は人物に付いた埃をパタパタと叩く。丁寧に叩く。叩き終えて振り返る。小さくなった男の背が遠くにあった。

 男は振り返ることなく走り続ける。

「無理無理無理無理無理無理無理無理。あんなバケモンに勝てるかよっ。ほとぼりが冷めるまで身を隠す! それにどれだけ意味があるか分からねえが」

「悪くない考えだ。完璧に隠れられて情報がなくなれば、さすがに見つけられない」

 間近で聞こえた声に男は驚いて見る。少年が男に並走していた。

「な、んっ」

「あ、ちなみに言っとくけどお前に追いつくのにも俺は力を使ってないからな。少しばかり強く地面を蹴ってるだけだ」

 息切れひとつしないで並走してくる少年に男は頬を引き攣らせる。


 こっくりこっくり船を漕いでいた人物がふと目を開く。寝惚ねぼけ眼で顔を上げる。少年と男の姿が遠くにあり、人物は地面を軽く蹴って、重力を無視してふたりを追い掛ける。


 男が立ち止まると少年も立ち止まる。睨み合うふたりの側に黒髪の人物が音もなく着地する。

 飛んできた人物に男はびくりと肩を震わせた。男は人物と少年を警戒しながらふたりを交互に見る。まるで覇気が感じられない黒い服の人物と始終楽しそうな少年を見比べる。男はじりじりと少年から距離を取り、黒い服の人物に向かってガバッと土下座した。

「助けてくれ! どうやらあんたは俺に怒ってるどころか興味もなさそうだ。こいつはあんたのお仲間なんだろう? こいつを説得してはくれないか? 俺にできることなら何でもする。だから、助けてくれ!」

 暫しの沈黙。

「なんで?」

 降ってきた言葉に男は顔を上げた。

「なんでって……」

 何ひとつの感情も乗らない黒い半眼の瞳が男を見下ろしていた。男は絶句する。

「ぷっ。あははははは!」

 少年が笑い転げる。

「何を期待したんだ? 確かにお前に腹を立ててたのは俺で、クロノは俺が連れて来ただけだけど。縋れると思ったら大間違いだ!」

 瞬間、少年と人物、男を中心に周囲の情景が砂塵と化す。数多残っていた切り株も跡形無く、緑の一切が消える。

 何が起こったのか分からない男は口を利くことができない。

 半眼の黒い瞳がゆっくりと少年を捉える。

「なに?」

 珍しく迷惑そうに眉根を寄せる人物に、少年はおかしくて堪らないと腹を抱える。

「くっくっくっくっ。あはっあはっ、ははは!」

 少年が男を見る。

「分かるか? 分かってるか? お前が助けを求めようとしたのは俺と同じものなんだよ。今、こいつは俺の放った力を瞬時に相殺した。俺と同じ、お前達人間が大災厄と呼ぶ存在なんだよ!」

 何が起こったのか理解した男の顔が青を通り越して白くなる。ブルブルと身体を震わせる。

「なんで……なんで、俺は生きてる?」

「ああ。それは俺が生かしたから。言っただろ? お前を追い詰める為に力は使わない、て……」

 少年の笑顔がゆっくりと消える。足元の男は青ざめ、小刻みに震えて、完全に戦意を失っている。

「あれ? これって、お前のこと追い詰めることになってる?」

 少年の顔から完全に表情が消える。それを下から見上げていた男は無意識に息を殺す。

「ダメだ。ダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ……。僕は間違えちゃいけないのに。違えちゃいけないのに、曲がっちゃいけないのに。絶対に、こんなことあっちゃいけない。いけないのに! 何とかしないと正さないと元に戻さないと」

「ご破算にすればいいんじゃない?」

「それだ。全部なかったことにしよう」

 黒髪の人物の発言に少年は食い気味に同意した。少年の顔に笑顔が戻る。

「俺はお前を見つけることができなかった。お前は俺に会わなかった。な! 決まり! 近くの国の側まで送ってやるよ」

 少年が男の腕を掴む。

 男の視界が一変する。苔生した大地と湿気った空気、緑濃い木々に甲高い鳥の鳴き声が響く。男の脳裏に砂塵と化した大地、乾ききった空気、黒ずくめの長身の人物と少年の姿が走馬灯のように浮かんで消えた。瞬間、心臓が煩く鳴り始め、汗が噴き出す。

「ヒ、ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒ……」

 男は笑う。あれだけ景色が変わっているのに無かったことにできると思っている大災厄という存在に、男はひとり笑い続ける。


   +++


 一瞬で消失した森と大地の砂漠化に、近隣諸国の歴史書に大災厄の記録が新たに刻まれる。

 少年の容姿に鮮やかな橙色の瞳。嘘を嫌い、意見を違えることを嫌い、歪曲を嫌う。正しさを求め、他人にもそれを求める。そんな大災厄を人間達は精一杯の皮肉を込めて書き記す。

 匡正きょうせいの大災厄と。


   +++


 胸まで伸び放題の雑草を掻き分けて少年は進む。

「お前にも会えたし。俺はみんなの記録探しに戻ろうかな。お前はこれからどうする?」

「どうもしないけど」

 少年の後を黒髪の人物が付いて歩く。風が吹いて草原が波打つ。自身の乱れた髪を少年は掻き上げる。

「少し風が出て来たか?」

「そうだねー」

「髪乱れてるぞ。直せ直せ」

 少年はわざわざ数歩戻って、届かないのを分かりながら遥か頭上にある黒い髪に一生懸命手を伸ばす。

 人物は見上げてくる橙色の瞳を暫し見下ろしてから、自分で乱れた髪を直す。

「そんな手櫛で元通りになっちまうんだもんなー」

 少年は人物から顔を背けると近くの木に向かって走り出す。地面を踏み切り、幹を蹴って枝を掴み、軽い身のこなしで登った木の上から遠くを見晴るかす。

「この辺りにも国があった筈なんだが。うーん。あっちかな?」

 枝から飛び降りた少年は殆ど音を立てずに着地する。

「すごいね」

「うん?」

「今の、身体能力だけの動きでしょ?」

「まあ」

「僕、身体を鍛えるとかからっきしだから。本当にすごいと思う」

 少年は心底呆れた顔になる。

「初めて言われた時は嬉しかったけど、その誉め言葉も何回目になるか」

「そうなんだ?」

「ぼんやりしてるなよ。クロノ」

「ぼんやりしてる訳じゃ」

「俺達が力を使えば生き物を磨り潰すなんて簡単だ。だから、どうしても相手にする時は手加減が必須になる。身体を鍛えるのが一番簡単なんだよ。俺達には時間があるし。他のみんなも割と習得してるぜ」

「そうなんだ?」

「ぼんやりしてんなって」

「ぼんやりしてる訳じゃ」

「お前も鍛えたら?」

 半眼の黒い瞳が中空を見つめる。

「僕はいいや。どうせ覚えてられないし」

 人物は欠伸をして眠そうに目蓋を擦る。マイペースなその様子に少年はニッと笑う。

「相変わらずブレないなあ。お前のそう言うところが好きなんだ」


   +++


「現人類が災厄と大災厄と区別しているものに厳密な違いはない。どちらも担っているものは変わらない。『世界の浄化』。災厄も大災厄も世界の浄化を促す為の仕組みに他ならない。雨降って地固まるなんて諺があるけど、世界が再生する為に破壊する存在がどうしても必要だった。なのに、現人類は災厄と大災厄を明確に差分化している。それは何故か。現人類にとって言葉を介し、同じような喜怒哀楽を示し、自分達と似た容姿をしている存在が、躊躇ためらいなく自分達が大切にしているものを蹂躙じゅうりんしていく様は実に恐ろしいものに見えたらしい。それこそ、言葉が通じず、自分達とは掛け離れた多種多様な容姿をしている災厄達に蹂躙されるよりもずっと。そもそも何故、同じ役割を持つものなのに人間に近い姿のものとそうでないものが存在するのかというと。ああ、そうだった。役割に違いはないけれど生まれた経緯が違うんだった。それを思うと現人類はうまい具合に線引いている」

「既に存在しないものがよく喋る」

 何もない空間に二脚の椅子だけが向かい合って置かれていた。

 片や艶やかな黒い髪、覚醒には程遠い半眼の黒い瞳、低い鼻、派手さのない顔に露出を限りなく抑えた黒い服。片や七分丈の袖口の広い白シャツにゆったりとした白いパンツを穿いた人物が座っている。

 褐色の肌に色素の薄い癖のある長い髪、髪と同じ色の長い睫毛に縁どられたマゼンタ色の瞳が、黒髪の人物を見つめて柔らかに細められる。

「世界は定期的に浄化と再生を繰り返す。浄化も再生も元は世界が行っていたものだが、浄化よりも再生の方が遥かに労力を要する。故に世界は比較的容易な浄化を、別の何かに担わせることはできないかと模索し始めた。けれど、再生と同様に一から何かを生み出すのもまた骨が折れるというもの。既存のものを使い回すことで済ませられないかと、世界は当時存在した、ありとあらゆる生物の垣根を越えて比較的に破壊を好み、変化を求め、現状に未練を持たない者達に厳選してオファーを掛けた。そのオファーに答えたのが人間だけというのは想像に難くないようなそうでもないような。脳が発達していなければ、生まれに疑問なんて持たないだろうから。なんにせよ。答えた君達をプロトタイプに浄化は進められた。結果、世界は効率を重視するならば浄化に意思や感情なるものはいらないという結論に至る。勝手な話だが、結局、世界は一から浄化の為の仕組みを作ることにした。既存の生物が死に絶えて真っ新になったのを機に世界はその仕組みを書き起こす。それが現人類が災厄と呼ぶもの達だ。それにしても、現在、世界に存在している生物達は新たに独自の進化を遂げて今に至っているというのに、現人類はかつての君達、旧人類と同じような進化を遂げていることは不思議としか言いようがない。似たような気候に落ち着ているからかな」

「既に存在しないものがよく喋る」

「ちゃんと聞こえてるよ」

 黒髪の人物が一言一句違えず繰り返すと、印象的なマゼンタ色の瞳が苦笑する。

「大目に見て欲しいな。もう私のことを覚えているのは君しかいないんだ」

「みんな、まだ覚えてると思うけど」

「主観なく記録しているのは、ということだよ。不服そうだね」

「別に」

「蓄積された記憶から、この人ならこう語り、こう受け答えると分析され統計が出され、算出された結果だと受け入れるには、私はリアル過ぎるかな?」

 黒髪の人物は答えない。

「君達の姿に寄せられて、導き手である私の姿も君達に近いものになった。君達に与えられた浄化という役割の説明をした頃が懐かしい。力の使い方や飛び方、その他諸々を教え伝えなくちゃいけないのに、人の話を聞かない子ばっかりで、苦労させられたなあ」

「……」

「すぐに終わるからってなだすかして話聞いてもらったな。ああ、でも君だけは勝手にどっか行ったりしなかったね。始終ぼんやりしてるのは少し心配だったけど」

「既に存在しないものが」

「分かった分かった。ごめん。人間に生まれながら人間に馴染めなかったそんな君達が、私の元を離れる頃にはすっかり仲良くなって、ホッとしたし嬉しかったんだ」

「仲良く……?」

「そうだろう?」

「……一部そうでもないのが」

「喧嘩する程仲が良いっていうじゃないか」

 ニコニコ笑うマゼンタ色の瞳に人物は呆れた顔で肩を竦める。

 マゼンタ色の瞳が軽く伏せられる。

「気掛かりは人間だった頃につちかわれた個々の性質が少しばかり顕著けんちょになってたことかな。神経質だったり落ち込み易かったり。個性的で、不安定で。君のその記憶の在り方もそうだ。君は人間だった時から物事を覚えていることに執着がなかった。その癖、分からないということにいつも不安に駆られていて」

 マゼンタ色の瞳が半眼の黒い瞳に向けられる。

「自ら望んで人間というしがらみから解放され自由になった君達に、安らぐ時間が少しでも多くあることを心から願ってる」

「ただの記憶に願われても」

「君達を送り出す時にも伝えたよね。たとえ私がいなくなってもこの願いはついえることがない。それだけ、君達と過ごした時間は私にとって宝物だった」

「だったら……」

 その先は言葉にならない。マゼンタ色の瞳が困ったように細められる。

「ごめんね。ずっと一緒にいてあげられなくて」

「……」

「君達に教えることがなくなれば導き手として生成された私の役目は終わり。役目を終えた私は世界に還る。最初から決まっていたことだ」

 マゼンタ色の瞳が微笑む。

「君は懐かしい顔に会うと必ず私に会い来てくれる。もっと、みんなと頻繁ひんぱんに会って欲しい。もっと私とお喋りしよう」

「ただの、記憶が」

 言い掛けて、ため息をつく。

「お願いされても困る。目が覚めたら全部忘れてる。本当はすべて記録していることも、先生に会ったことも。覚えてはいられない」

 マゼンタ色の瞳はニコニコと笑っている。

「私を懐かしんでくれてありがとう」

 ゆっくりと二脚の椅子の間隔が広がっていく。お互いの姿が遠ざかって行く。引き伸ばされた空間は仕舞いにプツンと小さな音を立てて消える。


   +++


 艶やかな黒い髪が少し埃っぽい風に揺れる。露出を限りなくおさえた黒い服を着た人物が石の大地に寝転がっている。はっきりとした雲の影が大地の上を、人物の上を流れて行く。覚醒には程遠い半眼の黒い瞳を何度かまばたきし、ゆっくりと起き上がった人物は眉間にしわを寄せる。

「なんで僕こんなところで寝てるんだ? 身体中痛いんだけど」

 服に付いた埃を払い、身体を揉みほぐし、黒髪の人物は息をつく。見上げると形のはっきりとした白い雲が青い空をのんびりと流れて行く。

「いい天気だな」

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