『小休憩』19番目の物語

利糸(Yoriito)

無題(仮)

 青々と茂る草原が柔らかに波打っている。

 視界を遮るものの少ない景色の中、遠目にも国を囲む石壁は高い。

 ズンッと小さく地面が振動する。

 木陰の下で眠っていた人物が薄っすらと目を開く。艶やかな黒い髪、覚醒には程遠い半眼の瞳もまた黒く、低い鼻、派手さのない顔に露出を限りなく抑えた黒い服が冴えない印象に拍車を掛ける。

 人物はゆっくりと顔を上げる。柔らかな風に前髪が揺れる。

 青い空、降り注ぐ真っ新な太陽の光、広がる草原、遠くに見える国の石造りの高い防壁。

 ズンッと地面が揺れる。

 先程より近付いている音に人物はゆっくりと首を回す。

 ズンッと地面を揺らしているのは長い首、長い尾、巨体を支える六本の太い足。目もなく鼻もなく口もないそれは酷くゆっくりと一歩を踏み出す。ゆっくりと、けれど地面を捉える度に大きく地面を振動させる。その足元で小さな生き物達が成す術もなく逃げ出していた。

「まだ、生まれて間もないな」

 木陰に座したまま、人物は巨体が横を通り過ぎていくのをぼんやりと眺める。近付いていた重い音が遠ざかっていく。進行方向には国の防壁。迷いなく進む巨体を人物はぼんやりと見送って、元々開ききっていない目蓋を閉じた。


   +++


「本当にこいつがそうなのか!?」

「分かりませんっ。ですが特徴は一致するので運んで貰ったのですが……」

 人物が目を開けると景色が一変していた。草原の木陰の下ではなく、暗く狭い室内。雑多に積まれた箱。乱雑に置かれた袋。倉庫のようだった。転がされている床の上で身じろぎすると後ろ手に縛り上げられているのが分かる。

「ええい! 本人に確認するしかないか。ところでこいつはいつまで寝ているんだ!」

「目を覚ましたようですよ! 王様」

 王冠を被った丸々と太った男が小柄な従者の言葉にぐるりと首を回す。王様と人物の黒い瞳がかち合った。

「やっと目を覚ましたか! こちとら急いでいるというのに暢気なものだな! 何を黙って見ている! 災厄には災厄をぶつけるしかない! 旅人共は貴様のことを冗談半分に噂していたが我々はもう貴様に賭けるしかないのだ! 単刀直入に聞くぞ! 貴様は最古の災厄がひとり、黒の大災厄か!?」

 人物は開ききらない眼で王様を見上げる。それが王様にどう映ったのか、額に青筋を立てた。

「こいつを引きずり出せ! 生意気な目をしおって! 儂は王だぞ!」

 王様の命令で外に待機していたらしい騎士がふたり、倉庫に入ってくる。騎士達に引きずり出された人物は石畳の上に投げ出される。

「雷撃よ!」

 王様が夜空に向かって杖を翳した。

「王様! いけません! 死んでしまいます!」

 騎士達はすでに距離を取っていた。小柄な従者だけが焦ったように止めに入る。

「死んだところで構わん! ただの人では所詮意味がないのだ! 災厄ならばこの程度では死なん!」

 星の瞬く空が突如として眩しく光る。雷は大きな音とともにまっすぐに人物に落ちる。王様は固唾を飲んで刮目する。直撃を受けた筈の人物は王様の目の前で、焼き切れた縄から自由になった腕で焦げた毛先と服を叩いていた。

「おお……。おお!!」

 王様の顔が輝く。

「これで我が国は助かるぞ! 国民への避難勧告を取り下げろ!」

「王様!?」

「逃げる必要はもうない! こいつを近付いている災厄にぶつける! それで我が国は助かるのだからな!」

「いけません! 王様!」

「うるさいぞ! 一介の従者風情が! この儂に口ごたえするんじゃない! 儂は王だぞ! おい、そこの騎士! 避難勧告の撤回だ!」

 騎士が敬礼をして去っていく。

「お、王様……」

「おい、貴様!」

 従者を無視して王様は人物の低い鼻先に杖を突き付ける。

「痛い目を見たくなければ言うことを聞け。今、すぐに! この国に近付いているあの意思も、感情も、あるのかないのか分からない、存在しているだけで傍迷惑なあの害悪を滅せよ! これは命令だ! 成し遂げればこの国の英雄だなあ? ただ長く存在しているだけの貴様らに意味を持たせてやろうというのだ。いい話だろう! さあ、行け! どうした! 行け!!」

 人物は王様を見下ろし、ため息をつく。くるりと王様に背を向け、見えた国を取り囲む防壁に向かって歩き出す。

「道を開けろ!」

 大通りには、避難する準備を終えていたのに突然その勧告が撤回されて、不安そうな顔をした民達でごった返していた。王様に気付いた国民達が駆け寄ってくる。

「王様」

「王様!」

「避難勧告が撤回されたのは何故ですか?」

「もう皆、国を出るつもりで準備を済ませていたのに」

「災厄はもう目の前まで来ているんですよね?」

「それに、先程魔法を使われましたか?」

「何が起きているんですか? 大丈夫なんですか?」

「うるさいうるさい!! どうして儂を信じられない!? 俺は王だぞ! 貴様らは俺の言うことを信じていればいいんだ!」

「説明を!」

「納得のいく説明をください!!」

 必死に訴えてくる国民に王様は嫌そうにため息をつく。舌打ちする。

「チッ。どいつもこいつも。まあ、いい。聞け! 災厄には災厄をぶつける! 見るがいい! 今、貴様らの前にいるこの男こそ、この世界に数多存在する災厄の中の災厄、歴史書の初期から記され、記録される前から存在していると言われる。どこから来ていつから存在しているのかも分からない大災厄がひとり、黒の大災厄だ!」

 国民達がザッと後退った。黒い髪、黒い瞳、露出の少ない黒い服を着た、自分達より頭ひとつ分背の高い人物に国民達は揃って怯えた目を向ける。

「安心するがいい! 最古の大災厄共は長く生きているだけあって儂らの言葉を介している。儂はこの国を守る為、この黒の大災厄に国を守ることを約束させている! 何も恐れることはない! 儂を信じろ!」

 王様の言葉に大半の国民達が顔を見合わせ、安堵の表情を見せる。それを見た人物は肩を竦めて星の瞬く空に目を向ける。軽く地面を蹴る。重力を無視して飛び上がった人物に国民達が驚愕の声を上げた。見上げてくる国民達の頭上を横滑りして人物は更に高度を上げ、国の防壁の縁に着地する。人物の着地点を予想して避けていた騎士達が人物に向かって警戒を露にする。人物はそれを一瞥だけして外壁の外に目を向けた。

 そこには、星明りに仄かに白く発光する巨体が夜闇に浮かび上がっていた。

 のっぺりとした山々や木々の影の中、長い首、長い尾、巨体を支える六本の太い足。その顔には目も鼻も口もない。

「綺麗だな」

 まだ僅かに距離があるにも関わらず、その巨体が防壁を優に超える大きさなのが分かる。

「思ってたより大きい」

 昼間見た時は比べるものがなく、その正確な大きさを測ることができなかった。人物は国を振り返る。篝火の明かりだけがちらほらと見ることができた。星空を見上げ、ゆっくりと後方へと倒れていく。

 防壁の上から響いた悲鳴にも似た声に、国民を掻き分けて防壁へ向かっていた王様が顔を上げる。鼻息荒く、汗でどろどろの額に張り付いた前髪を鬱陶しそうにかき上げる。

「なんだ!? どうした!?」

 城壁の上の騎士からの報告を、王様の近くにいた騎士が伝達する。

「黒の大災厄が飛び降りました!」

「何い!? 災厄と災厄がぶつかるぞ! 儂も見たい! 急げ! 儂を押し上げろ! 引き上げろ!!」

 ブクブクに太った王様を騎士達が押し上げ、引き上げる。防壁の上に辿り着いた王様は興奮した顔で見張りの騎士が持っていた望遠鏡を奪い取る。近付いてくる仄白く輝く巨体の周囲に黒い影を探す。

「黒の大災厄はどこへ行った!?」

「そ、それが……」

 見張りの騎士は青い顔で巨体の足元へ震える指を向けた。王様は嬉々として望遠鏡を覗き込む。

 巨体が放つ仄かな明かりに照らし出された人物は巨体に目も向けず欠伸をする。

 喜色に満ちていた王様の顔から笑顔が消える。

「な、何をしている!? 早くやっつけろ! 戦え!」

 仄かに光を放つ巨体と、その足元でつまらなそうに歩き出す全身黒ずくめの人物が、お互いに見向きもせず擦れ違っていく。その光景に王様は顔を青くした。現状を理解する。これから起こるであろう事態を予測する。

「わ、儂は逃げる……」

 呟くと王様は望遠鏡を投げ出し、多くの騎士の手を借りて上って来た階段をひとりで駆け降りて行く。

 ズンッと小さく地面が揺れる。ズンッと先ほどよりも大きく地面が振動する。ズンッと大きくなる音と振動に壁の中は大混乱に陥った。

 人物は石壁に向かって歩を進める巨体を暫し眺めてから闇に落ちる草原を蹴る。静かな星空に向かって上昇し続ける。石壁に囲まれた国の全貌が見えるところまで上昇して停止する。柔らかな風が黒い髪を撫でる。ゆっくりと全身も流されるが人物は流されるがままに身を任せ、眼下を見つめる。

 巨体は分厚い石の防壁を物ともせず蹴り崩していく。土煙が上がる。太い六本の足が容赦なく家々を踏み潰していく。篝火が移ったのか赤々とした炎も上がり始める。地上で響いているであろう、ありとあらゆる音の数々も、上空までは届かない。

「ふふ」

 人物は笑う。

「あははははは」

 眼下の光景に人物は朗らかに笑い続ける。

 地平線にキラリと光が走る。太陽の光が夜の闇を振り払い始める。

「朝だ」

 明らかになる眼下の惨状に目も呉れず、人物は歩き去る巨体を振り返る。

「ただ、歩いてるだけなんだよなあ。意思があるとか、感情があるとか、それ以前の問題だ。足元の虫けらをいちいち気にしながら歩く奴はいない。アレにとってあの国は歩みを妨げる障害になりえなかった。ただ、それだけだ」

 星の光の薄くなった空に向かって伸びをする。

「目が覚めた。でも、やらなくちゃいけないことも特にないから。また、すぐに眠くなるんだろうな。どうしようかな? 考えるのも面倒臭い。どうせ覚えてなんていられないんだから」

 前回、目を覚ました時のことを思い出そうとして人物は眉間に皺を寄せる。数秒そうしてから首を横に振る。暫くぼんやりと空が青く染まって行くのを眺めてから、人物は身体の向きを変えた。巨体が歩き去った方角へ滑空し、草原に着地する。人物はゆっくりと歩き出す。


    +++


「報告します!」

 飛び込んできた斥候に大会議室に集まっていた大臣達が振り返る。

「隣国は壊滅! 壊滅です! 死傷者多数! かの災厄は進路変更することなく我が国に向かって来ています!」

 室内が騒然とする。

「災厄を食い止めることなどできないにしても何故、死傷者が出る。此度の災厄は巨体であることは観測されているが鈍重。国民を避難させる時間は十分にあった筈だろう」

「それは……」

「お前がひとりで戻ってきたことと関係がありそうだな」

「はい!」

 斥候は背筋を伸ばす。

「災厄が隣国の防壁に接触する前に、独自の判断で避難した隣国民がいました。相対した際、保護を求めてきたので残りの隊員は彼らの護衛に付いています。私は報告の為、先に戻った次第です」

「それで?」

「ハッ! 彼らの話では隣国王は直前になって避難勧告を取り下げたと」

「はあ?」

 胡乱な声を上げた百戦錬磨の大臣達に若い斥候は息を呑む。

「若者をビビらせんなよ。ジジイ共」

「陛下」

 大臣達が振り返る。

 大会議室の一番奥、緩い白シャツに黒いパンツ、色素の薄いざんばら髪の男が地図と計画書でいっぱいの机から顔を上げた。

 その顔に大臣達が口々に言う。

「私たちは確かにジジイですが。陛下はオッサンですからな」

「私はババアです。一緒くたにされては困ります」

「私は陛下とあまり変わらない筈ですが」

 鳶色とびいろの瞳が座る。

「報告を続けろ」

「は、ハイ! 隣国民から得た情報によると隣国王は災厄に災厄をぶつけると言って、黒髪、黒目、黒ずくめの長身の男を連れてきたと」

 そこにいた全員が目を見開く。中でも鳶色の瞳は誰より大きく見開かれた。大臣達は囁き合う。

「まさか。黒の大災厄か?」

「いや、黒ずくめだからと言って黒の大災厄とは……」

「空を飛んだそうです」

 大臣達は黙り込む。誰かがため息をつく。

「何を勘違いして利用できると思い込んだのか」

「隣国が何故、多大な被害を被ったのかは分かった。できるものなら救助隊と救援物資を出したいが今は自らを省みなければ。やらなければいけないことが山積みだ」

「そうだな。避難先の野営地設営の進捗は? 国民達の避難準備は進んでいるか?」

「順次進行中です」

「段取りの打ち合わせをもう一度。一瞬手間取っただけで命取りだと思え。円滑な避難を確実にしろ」

「騎士達の訓練はどうだ。外で魔獣に襲われた場合の対処、陣形を今一度見直せ。国の復興には時間が掛かるだろう。国民の安全は彼らに掛かっている」

「想定しろ。最悪の状況を。考えられる限りいくらでも。それを回避する方法を考えろ」

 真剣な顔で机に向き戻った大臣達に斥候は敬礼して会議室を後にしようとする。

「待て」

「へ?」

 不意打ちで呼び止められた斥候は振り向き様に間の抜けた声を上げてしまう。王の鳶色の瞳が斥候を捉えていた。王は一度口をまごつかせてから言う。

「その黒髪黒目の人物を探せ」

「陛下!?」

「分かってる。分かっている! 奴に国の命運を賭けるつもりも制御できるとも思ってはいない!」

「ならば何故!」

「仮に! 陛下がどのようなお考えでも、すでに彼の者はどこぞへと去っているのでは?」

「いや、まだ近くにいる」

 断言する王に大臣達は思わず口を閉ざす。

「破壊や破滅を好む存在だ。隣国が壊滅する様に高みの見物を決め込んでいてもおかしくない。そして、目的というものを持っていない。その場に留まっている可能性は高い。探して、連れて来い」

「で、ですが。黒の大災厄なんですよね?」

 青を通り越して白い顔で震える斥候に王は近付く。

「大丈夫だ。軽んじたり、利用しようとしたり、こちらから攻撃を仕掛けたりしなければ向こうから仕掛けてくることはない」

「本当ですか?」

「記憶しろ。艶やかな黒い髪。直毛。いつも眠たそうな半眼。その所為で光の入らない瞳は闇よりも暗い黒色をしている。身長は……今の俺じゃ比較にならねえな。それから、露出の少ない黒い服を着こんでる。それこそ顔だけしか肌が見えないような」

「……お詳しいんですね?」

 斥候がぽかんと王を見上げていた。王は嫌そうに口をひん曲げる。

「一応それらしい人物がいたら確認しろ。そうだな。こう尋ねろ……そして……」


   +++


 斥候は馬を走らせる。視界に広がる一面の草原に、受けた任務の難しさを今更ながらに痛感する。そもそも、ひとりの人間、もとい、人間達が勝手に「災厄」と呼称している正体の判然としない何かを、当てどなく探さなければいけないというのは無理難題もいいところだった。しかも国は今、危機に直面している。家族も友人も国にいる。斥候は気が気ではなかった。

「!」

 進行方向に長い首、長い尾、巨体を支える六本の太い足。響き始めた振動に斥候は思わず馬の手綱を引く。

「もう、ここまで来てるんだ……」

 斥候は息を整えて再び馬を走らせる。ゆっくりと前進する巨体の横を大回りして擦れ違う。自分を叱咤し、奮い立たせて走り続ける。

「黒い髪。黒い服……」

 上空は風が強いのか白い雲が飛ぶように流れていく。燦々と降り注ぐ太陽光の元。青々と茂る草原に探し人はとても目立ちそうなのだが、それらしい姿は見当たらない。それなりに馬を走らせ続けた後、斥候は何度目になるか、立ち止まって辺りを見渡す。半ば諦めながら辺りを見回す。ため息をついた時、ふと目の端に黒いものが掠った気がして今一度振り返る。岩と木の陰に投げ出された黒い人間の足が見えた。斥候は慌てて馬をそちらに向かわせる。目的の人物でなかった時の可能性にハッと思い至り、馬の歩を緩める。足から少し距離を置いた位置から馬を降り、腰のナイフの柄に手を掛けてゆっくりと近付いて行く。

 木漏れ日の下、寝転がる人物は静かな寝息を立てていた。艶やかな黒い髪。直毛。瞳は分からないが、露出の少ない黒い服。特徴と大半が合致する人物に斥候は唾を飲み込む。意を決し、第一声を詰まらせながら声を掛ける。

「ぁの……あの、あのぅ!」

 斥候が何度か声を掛けて人物はやっと目を覚ます。

「ぅん?」

 自分で起こしておいて斥候は小さく飛び退いた。

「え、えとっ」

「何か用?」

「あ、はい!」

 寝っ転がったまま問うてくる人物に斥候は背筋を伸ばす。

「我が国の王にあなたをお連れするよう命を受けて参りました! ご同行願えませんでしょうか!」

「なんで?」

 斥候は目を瞬く。

「何故……」

 王から明確な理由を伝えられていないことに気付く。

「えっと……げ、現在、我が国は災厄の脅威に晒されていて……」

「僕にその災厄をどうにかして欲しいって?」

「いいえ!」

 斥候は慌てて否定する。

「い、今のはテンパってしまってっ! 陛下から明確にあなたをお連れする理由を聞いていなかったもので! ただ、決して陛下は助けて欲しくてあなたをお呼びしようとしているのではありません。それだけは確かです。はっきりそう仰っていたので!」

「ふーん」

 斥候は王が黒の大災厄と会ったことがある可能性を、目の前の人物に伝えるべきかどうかを悩んで口を噤む。

「興味ないな」

「え!?」

 人物は眠そうな眼を二度瞬くと再び寝る態勢に入る。

「ああ! 寝ないで。寝ないでください! あの、あの……」

 斥候は縋りつくように人物の側に膝を付く。意味もなく辺りを見回す。祖国がある方向に草原が広がっているのを見る。行きに擦れ違った巨体の姿は当然ながら、もうそこにはない。

 斥候は地面に目線を落とし、ガバッと地に伏せた。

「これから私が言うことは陛下や他の誰も関係ない、私個人のお願いです。どうか。我が祖国を救っては頂けないでしょうか! 私の故郷。大切な人達が住まう国です。どうか、どうか……」

 尻すぼみになっていく上に仕舞いには震える声。

 人物は閉じていた目蓋を開く。木漏れ日の向こうに青い空が広がっている。白い雲がはっきりと分かるほど流れていく。

「君がそんなに守りたい国ってどんな国?」

 斥候は顔を上げる。

「は、はい。我が祖国は……祖国は……大変、美しい国です」

 最初こそ小さかった声は段々と自信を持ったものに変わる。

「祖国は丘陵の緩やかな坂を上るように建つ国で、近くには山から湧く清水からなる小川が流れる森があり。国は当然、その周辺の景観も美しく。先祖代々、父、母、兄弟、友人達が住む、私の生まれ育った国です。国が発展する過程で水質汚染などの公害がありましたが。先代、今代の王の努力により改善され、今では国民全員が自慢する、美しい国です」

『俺は必ず、あの国を国民全員が胸を張って美しいと言える国にする』

 人物の脳裏に、ふと顔の判然としない少年の姿が過ぎった。人物は首を傾げる。斥候は人物のその様子に気付かない。

「皆の努力によって今のあの美しい国はあるのです。陛下や上の方々は国民全員の避難計画を進めておられます。ですが、あの街角、あの店。足が向けばいつだって鮮明に思い出される光景がある。なくしたくない。なくなって欲しくないんです。どうか、どうか!」

 斥候は地面に額を擦り付ける。返事はなく、ダメかと諦めの気持ちに脱力し掛けた時、動く気配に斥候は焦って顔を上げる。

「君の国はどっち?」

「あ、あっちです!」

 斥候が指差した方に人物はゆっくりと歩き出す。斥候は慌てて近くで草を食んでいた馬の手綱を引く。そこで、王にそれらしい人物に出会ったら尋ねろと言われていたことを尋ねていないことに思い当たる。今更疑ってはいないが斥候は人物の背に向かって声を張る。

「あ、あの、あの! えっと! お、おお、お尋ねします! あなたは空を飛べますか!?」

 人物は立ち止まって斥候を振り返る。

「飛べるよー」

 人物が気が抜ける程へらっと笑った。大地を蹴って黒い影は飛び上がる。青い空を滑っていく。斥候はそれを呆然と見上げ、独り言ちる。

「陛下の仰った通りだ」

『こう尋ねろ。お前は空を飛べるかと。そして、へらっと笑って肯定するならほぼ間違いないだろう』

「陛下。陛下は黒の大災厄と一体いつ、どのように関わられたのですか?」

 青い空に既に見えない人影に斥候はハッとする。

「ま、待ってくださーい! あ、いや。待たなくていいです! お先に、お先にどうぞ!」

 馬の背に飛び乗り、その横腹を軽く蹴る。斥候を乗せた馬は草原を走り出した。


   +++


 国の防壁を背に森へと向かう三人の少年がいた。

「殿下! お待ちください! 魔獣が出る可能性があります。森に行くのはお止めください! せめて陛下や宰相殿に許可を得てから」

 先頭を歩いていたざんばら髪を流したままにした少年が振り返る。

「お前は相変わらず堅いなあ」

 次いで、年の割に鍛えられた身体付きの少年がニカッと笑う。

「俺達がいるんだから大丈夫だって!」

「ノルダムの言うとおりだ! お前達が守ってくれるだろう? 俺の騎士達!」

 ふたりを追い掛ける、長剣を小脇に携えた少年は背筋を伸ばす。

「当然です。命を懸けてお守りします。ですが、万が一を思うとふたりでは限界というものが」

「俺だって戦える。言わせてもらうが、エスクード。忠誠心が篤いのは嬉しい限りだが、重い。お前は真面目過ぎる」

「そうだぞ。折角弁当だって用意したんだ」

 ノルダムが持っていたバスケットを頭上に掲げる。その隣でざんばら髪の少年が腕を組んで頷く。

「大雑把な性格からは想像できない繊細な味にどれだけ驚かされたことか。なあ、エスクード」

「料理の腕と手際の良さは認めます。今朝出掛けると決めて、料理長の目を盗んで一瞬でそれを用意した手腕にも舌を巻く。だが、ノルダム。お前は悪乗りが過ぎる。だから殿下が付け上がるんだ。本来なら我々がお諫めしなければならないのに」

「えー。だって楽しそうじゃん。王子付きなんて任命された時は面倒くせえとか思ってましたけど、王子がアリオ様で良かったです。退屈しなくていいや」

「そうか。そう思って貰えて良かった。なあ、エスクード」

「良くありませんよ。殿下」

「お前達は本当にバランスがいいなあ。よし、行くぞ」

「行きましょう!」

「ああ、もう……」

 アリオとノルダムが目の前の森に向かって駆け出し、エスクードがそれを追い掛けて行く。

 天気はすこぶる良く、鬱蒼と茂った森の中でも眩しい程に木漏れ日が降り注ぐ。せせらぎの音に近付き、開けた視界に小川が姿を現す。

「よっしゃ。目的地! 遊ぶぞう」

「殿下」

 エスクードがアリオの前に立つ。更に前にノルダムが立つ。ふたりが警戒している先をアリオは見る。

 木陰に眠る人物の前髪が風に柔らかく揺れる。黒い髪、低い鼻、露出が極端に抑えられた黒い服。寝ていてもその長身は疑いようがない。

「死んでるのか?」

「いえ……。ですが、息遣いも感じられない。これは一体」

「起こしてみますか? アリオ様」

「ノルダム」

「そうだな」

「殿下!?」

 エスクードの制止を無視してノルダムは既に腰に備えた二本の短剣の一本に手を添えながら人物に近付いていく。

「ノルダム。ノルダム、待て。その人物の容姿に覚えがある」

「知り合いか?」

 振り返りもしないノルダムにエスクードは苦虫を噛み潰したような顔になる。

「そうじゃない。黒い髪、黒い瞳、限りなく肌の露出を抑えた黒い服。歴史書が記されるより前から存在していると言われる大災厄のうちのひとり、黒の大災厄の特徴と合致する」

 ノルダムが振り返って肩を竦める。

「大災厄う? 本気で言ってるのかよ。そんなのがこんなところで無防備にぐーすか寝てるかよ」

「可能性はゼロじゃない。それに災厄というのは俺達の理屈に当て嵌まる存在じゃない」

「なんにせよ。本人に直接聞いた方が早い」

「殿下!?」

「さすが殿下。そう来なくっちゃ。おーい。そこの黒い人。もしもしい?」

「あわわわわわわ」

 顔を青くするエスクードの背をアリオがポンポンと叩く。エスクードはハッと我に返って自身を叱咤し気を引き締め直す。ノルダムが何度か声を掛けて人物はやっと薄っすらと目を開く。

「ぅん?」

「あ、やっと起きた」

 人物は開ききらない眠そうな瞳で二度瞬きする。

「誰?」

「俺はノルダム。後ろにいるのはエスクード。さらに後ろにいるのはアリオ様だ。あんたは?」

 人物はノルダムの菖蒲色しょうぶいろの瞳を見つめている。

「えーと。あんたの名前は?」

 同じ質問を繰り返されて、人物は空中を見つめてからゆっくりと口を開く。

「名前……。忘れた」

「そうか。忘れたか。じゃあ、質問を変える。何でここにいる?」

「ここ?」

 寝ぼけ眼の半眼が辺りを見回す。

「ここ、どこ?」

 ノルダムは警戒を怠らないままちらと背後を窺う。エスクードは首を横に振るがアリオは頷いた。ノルダムは人物に向き直る。

「あんたは黒の大災厄か?」

 エスクードは頭を抱えて天を仰ぐ。人物は首を傾げる。

「くろ?」

「災厄というのは我々が勝手に呼称しているだけで、本人達が名乗っている訳じゃない」

 エスクードは両手で顔を覆っている。

「そうなのか」

「眠い」

「え!? 寝る!?」

 ノルダムは思わず叫んだ。黒ずくめの人物は既に寝る態勢に入っていた。警戒心のまるでない相手に、それでもノルダムとエスクードは警戒を怠らない。ずっとふたりの後ろで様子を窺っていたアリオが前に出る。

「殿下!」

「アリオ様」

「大丈夫だ」

 何が大丈夫なものかとエスクードは内心で叫ぶが、アリオはノルダムが出した制止の手を退かして更に前へ。

「先客殿。俺達はここに遊びに来ている。少し、騒がしくなると思うが、あなたの眠りの邪魔をするつもりはない。俺達がここにいることを許してくれ」

 人物はまるで緊迫感のない声で言う。

「いいよー」

「ありがとう! よし、お前達、準備だ!」

「本気ですか……」

「俺はアリオ様が決めたことに従います」

 少年達は人物に背を向け、小川に沿って少し場所を移動する。木陰で眠る人物の姿が見える位置で荷物を下ろす。

「アリオ様。途中で拾った木の棒です。いい感じに撓るので釣りにちょうどいいかと」

「ああ。持って来ている糸をここにこう結んで。よし! せい!」

「殿下。餌をつけなければ」

「ああ、そうか。いや、たくさん釣りすぎて戻った時にバレても困るからな!」

「釣りをそんなに舐めないでください。そんな簡単に釣れませんよ。それにバレるバレないで言ったら既にバレているかと」

「気持ちが萎えるようなことを言うなよなあ。これから楽しもうって時に」

 アリオは口を尖らせ、エスクードは仏頂面になる。

「申し訳ございません」

「機嫌直せよ。エスクード」

 ノルダムがエスクードの背を叩く。

「結局ここまで一緒に来たんだ。楽しもーぜ!」

 たたらを踏んだエスクードはノルダムを振り返って睨みつける。

「力加減を覚えろ。馬鹿力」

「油断する方が悪い」

 片や怒り、片や笑いながら喧嘩するふたりを横目にアリオは笑う。再び釣竿を振った。


 どれだけそうしていたか……。

「釣れねえなあ」

「アリオ様。お茶を入れましたよ。休憩しましょ」

「ん」

 アリオは釣り餌を回収する。

「魚影は見えてるのになあ」

「エスクードも早く来いよ」

「俺は後でいい」

 焚火を囲んでバスケットの中を覗き込んでいたアリオとノルダムは顔を上げる。エスクードはあれから身じろぎひとつしていない黒ずくめの人物を注視していた。

「大人しいもんだ。エスクード。いいから来い」

 アリオに手招きされてエスクードは渋々アリオとノルダムと共に焚火を囲む。

 三人でノルダムが一瞬で作ったとは思えない仕上がりのサンドイッチを平らげる。

「さて、一服したし。手ぶらでは帰れないからな」

 アリオは徐に上半身を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げる。

「手伝いますよ」

 ノルダムも鍛えられた肉体を惜しげもなく披露して、ふたりは小川に入っていく。

「ノルダム! そっちに行った!」

「アリオ様! 俺が追い込むんで!」

 夢中になって魚を追い回すアリオとノルダムは髪からも水を滴らせ始める。

「エスクード!」

「俺は見張りです」

 拒否したエスクードに、アリオとノルダムは目配せする。

 背後から奇襲を受けたエスクードは黙したまま、ぐしょ濡れになった服を脱ぎ捨て、小川に飛び込んだ。少年三人の賑やかな声が森の中に響き渡る。

「楽しそうだね」

 突如聞こえた覇気のない声に三人の動きが止まる。見れば木陰で寝そべったままの人物が薄っすらと目を開けて三人を見ていた。

「すまない。起こしたか」

 アリオは前髪を掻き上げる。髪から雫が零れ落ちる。

「別にいーよー」

 日が傾いて、人物の上に落ちていた木陰は既にない。

「先客殿も一緒にどうだ?」

 ノルダムとエスクードが「えっ」とアリオを見る。

「恥ずかしいからヤダ」

 予想外の言葉にノルダムとエスクードが目を瞬かせる。

「恥ずかしいってよ。エスクード」

「何故、俺に言う。ノルダム」

「災厄は俺達の理屈に当て嵌まるような存在じゃないんじゃなかったのか?」

 エスクードは黙り込む。

 アリオはふむとひとりで頷く。

「男同士で何を恥ずかしがることがある」

「あ、アリオ様!?」

「殿下!」

 駆け出したアリオは人物の腹の上に馬乗りになると、前合わせの黒衣に手を掛けた。

「ぅわう」

 人物は反射的に両手を上げていた。

「ん?」

 露になった肌は凹凸も見えない、どんな光も呑み込む闇色に染まっていた。首から上だけが不自然な程白い。アリオは遠慮なくその肌に触れる。

「感触はちゃんとあるな。病か?」

「殿下!」

 エスクードがアリオの腕を引いて立ち上がらせる。

 腹の上が軽くなった人物はゆっくりと立ち上がる。開けた前を直しながら言う。

「えーと……。まあ、そんなところ」

「説明が面倒臭くなったな。先客殿」

「うつるようなものじゃないから安心してよ」

 未だアリオの腕を掴んだままのエスクードがばつが悪い顔になる。服装を完璧に整え終えた人物が一息つく。

「ふう。こんなに驚いたの、すごく久し振りな気がする」

「悪かったな。せんきゃ……。名前がないと呼ぶのに不便だ。本当に覚えてないのか?」

 アリオの背は人物の肩程までしかない。見上げるアリオを黒色の瞳が見下ろす。鳶色の瞳に光が差して金色に輝いていた。

「綺麗だなあ」

「?」

「名前ね。覚えてないねー」

「そうか。くろ……さいやく……。うん。仮にクロノと呼ぼう!」

「殿下!」

「名前なんか付けて。連れて帰るなんて言い出さないでくださいよ。さすがに反対します」

 エスクードは怒る一歩手前のような顔で怒鳴り、ノルダムは呆れ返っている。

「今だけだ。ここで会ったのも何かの縁だと思うんだ、俺は。どうだ? 先客殿。クロノ」

「お好きにどうぞ。どうせ覚えてなんていられないし」

「よし。魚は諦めて果物を取りに行こう。クロノも一緒にな。脱がないならいいだろ?」

「いいよー」

「ええ!?」

 エスクードだけでなくノルダムまでもが声を上げた。

「向こうに美味しい果物がなる木があるんだ。森が深い所為か野生の鳥があまり近付かないようで、実が鈴生りで」

「それはつまり、その実に食い付いてきた動物を餌にしている魔物がいるということです。今まで鉢合わせていないのが奇跡なんですよ。殿下」

「よし。行こう」

 項垂れるエスクードの肩をノルダムが叩く。

 髪が乾くのもそこそこに上着だけを引っ掛けて四人は歩き出す。道中他愛もない会話を繰り返す。

「へえ。王子様なんだ」

「ああ。じい様は国が発展することに尽力した。それが色々な問題を発生させることになったが、じい様の行いを俺は間違いだったとは思わない。生活が楽になったのは事実だ。発展に伴って生まれた副産物は、それはそれで対策を立てればいいだけのこと。山積みだった問題は少しずつだが改善されてきている。でも、親父の代で全部は難しそうでな。俺が引き継ぐ予定だ。俺の代ですべての問題を改善する方法を確立させる。俺は必ず、あの国を国民全員が胸を張って美しいと言える国にする」

「君ならできるよ」

 アリオは人物を見上げてニッと笑った。

 森が深くなる程、地面に光が届かなくなる。そんな中に不自然に燦々と光が差す空間があり、その真ん中に赤い実をたわわに実らせた木が一本だけ生えていた。少年達に連れられた人物が言う。

「これは、確かに怪しさ満点だね」

「言われてますよ。アリオ様」

「光が当たっているところの実が甘くておいしいんだ」

「……」

 エスクードは既に言葉もない。アリオが幹を掴み、足を掛ける。慌ててノルダムが前に出る。

「アリオ様。俺が行きます」

「光が当たってるのが美味しいんだっけ?」

 前に出たノルダムとほぼ同時に人物が地面を軽く蹴る。重力を無視してふわりと飛び上がった人物は、容易く木の上まで回り込む。最も日が当たり、赤く熟した実をひとつもぎ取って地上に降りる。目を丸くして見上げてくるアリオに人物は赤い実を手渡す。ノルダムとエスクードのふたりは諦めに満ちたような顔になっていた。

「クロノ。お前、飛べるのか!」

 鳶色の瞳がキラキラと輝いていて、人物はへらっと笑う。

「飛べるよー」

「すごいな。ノルダム、ナイフを貸してくれ。折角クロノが取ってくれたんだ。みんなで分けよう」

 ノルダムが腰からナイフを一振り引き抜き、アリオが赤い実を四等分する。赤い実をアリオとノルダムとエスクードが口にすると、三人は目を輝かせた。

「これは、今まで食べた中でも随一だな」

「本当ですね」

「驚きました」

 三人はあっと言う間に手の中の赤い実を平らげる。

「クロノも食べてみろ。美味しいぞ」

「うん? うーん。どうも僕、食べられないみたいで」

「そうなのか?」

 この美味しさを味わえないのかと三人が絶望にも似た目を人物に向ける。そんな三人に、赤い実を口に近付けていただけの人物は小さく笑う。

「君たちを見てれば美味しいことは十分に分かるよ」

 その穏やかな微笑みにアリオは目を奪われる。それは、ノルダムもエスクードも変わらない。その時、遠くから響いた何かの遠吠えにエスクードがハッとして緊張する。

「殿下」

「ああ。潮時だな」

「小川まで戻りましょう」

 ノルダムが先頭を歩き始める。アリオを中心にエスクードが続く。

「クロノ」

「ん? うん」

 アリオに呼ばれた人物も三人に付いて行く。

 小川まで戻ると空気が少しばかりオレンジ掛かっていた。

「遊び過ぎましたね」

「国に戻りましょう」

 ノルダムがバスケットを回収し、エスクードが焚火の後始末を完璧にする。髪もズボンもすっかり渇き、アリオは着崩していた服を整える。

 急速に近付いてくる気配に三人がバッと顔を向けた。森の奥、赤黒い毛を逆立てた、人よりも遥かに大きな獣が木々を縫って迫り来ていた。

「早過ぎる! あの遠吠えは陽動か!」

「アリオ様!」

 ノルダムとエスクードがアリオに向かって駆け出す。

「クロノ!」

 魔獣が迫って来るのに最も近くにいたのは黒い髪、黒い瞳、露出の少ない黒い服を着た人物だった。その直線状にいたアリオが人物に手を伸ばす。その行動に顔を引き攣らせたのはノルダムとエスクードだ。人物は手を伸ばしてくるアリオを振り返ることなく、その胸を片手で押して突き放す。

「クロノ……」

 アリオは真っ黒な肩越しに飛び掛かって来る魔獣を見る。魔獣は次の瞬間、バチュンッとい音と共に圧縮され、体液だけを撒き散らして跡形もなく消えた。

「ふっ」

 吹き出し笑いが小川のせせらぎに交じる。

「ふふ。ヒヒヒヒッ、あは。アハハハハハハッハハハッ!!」

 最初、背を丸めていた人物は空を仰いで猟奇的に笑う。夕暮れの迫る森の中にその笑い声は面白い程よく響く。

「ああ。目が覚めた」

 笑い終えた人物が振り返る。

「殿下!」

「アリオ様!」

 アリオを庇う様にノルダムは短剣を、エスクードは長剣を構える。剣を向けられた人物はにこりと笑う。その頬に付いた魔獣の体液がすうっと肌に染み込むように消える。三人に注目された状態で人物は三人の背後を指差す。

「まっすぐ、森の外を目指す。いいね? あいつらは森の外までは追ってかない」

 アリオを中心にノルダムとエスクードは人物から目を反らさないままじりじりと後退する。

「はい。走る!」

 人物の号令に先頭をノルダム、殿にエスクードが付いて、アリオ達は全力で走り出す。走り抜ける三人のすぐ側の森の中でバチュンッ、バチュンッと何度となく魔獣が跡形もなくなったあの音が鳴り響く。けれど、聞こえてくるのは音だけでその姿も飛び散る体液も三人の視界には入らない。

「クロノが助けてくれてるのか?」

 アリオの疑問にエスクードが答える。

「そのようですね。理由は分かりませんが」

「ふ、はは……」

「ノルダム?」

「いえ、すみません。アリオ様。すごいですね。あんなに圧倒的なんですね。あれが、大災厄」

 先頭を走るノルダムが身震いする。

「いやあ。一回手合わせしてみたかった!」

 ノルダムは昂る気持ちを抑えるよう心臓の辺りを握り込んだ。

「ノルダム。クロノの援護に……」

「それはできません。アリオ様。自分に与えられた役割は分かっているつもりです。それを無視する程、俺は愚かじゃありません。それに、俺が行ったところで足手まといになるだけですよ。森を抜けます!」

 森を抜けても三人は暫く走り続ける。森の全容が見える位置まで走り抜けて、初めて振り返る。

 空が群青色に変わり始めていた。草原に冷たい風が吹く。

「黒の大災厄の言った通り、森の外までは追って来ないようですね」

「クロノ……」

「心配するのはお門違いですよ。殿下。災厄の中の災厄。それが大災厄です。魔獣がどれだけ束になったところで劣る訳がありません」

 三人は暫く国の防壁を背に森を眺める。

「殿下。さあ、帰りましょう。暫くの間、誰かが森に近付くことがないように触れを出さなくては。此度あったこと見たことすべて話して、三人でこってり、絞られましょう」

 エスクードがアリオの背中を押す。ノルダムは動かない。

「ノルダム?」

「あ、今行きます」

 アリオに呼ばれてノルダムは森から目を離す。三人はゆっくりと防壁の正当な門へと向かう。出てくる時に人の目を盗む為に使った抜け道ではなく、上層部へ話を通し易いよう、門番のいる門へ向かう。

 その後、報告を受けた上層部は定期的に行っていた森への採集計画を全面的に一時凍結する決定を下す。森の安全が確認されるまで、森への何人たりともの侵入が禁止される。

 アリオとノルダム、エスクードの三人は森への立ち入りが禁止される期間と同じだけの謹慎を言い渡された。


   +++


 時刻は夜半に差し掛かる。

 明かりは机の上のランプだけの薄暗い執務室の中。

「陛下」

「エスクードか」

「お休みになるなら横になった方がよろしいかと」

 机に頬杖をついてうつらうつらしていた緩い白シャツに黒いパンツ、色素の薄いざんばら髪の男が上体を起こす。鳶色の瞳が目の前の、長剣を携え、鎧を身に着けて尚、姿勢良く立つ男を捉える。

「報告には騎士団長本人が来るべきじゃないのか? 引退したジジイを報告係に送って寄こすなよ。ベテランなだけあって超分かり易かったけどよ」

「野営地の設営と避難経路の確保、騎士達の訓練に奔走してたんですよ。褒められこそすれ、非難される謂れはありません」

「俺の騎士なのに」

「ええ。この忠誠心に変わりはありません。聞きましたよ。黒の大災厄らしき人物を探しに行かせたとか?」

 アリオは机の上に視線を落とす。

「ああ。その所為かな。懐かしい夢を見た」

「森での出来事ですか?」

「ああ。覚えてるか」

「忘れられません」

「そうか」

 表情の乏しいエスクードに対し、アリオは苦笑する。

「あの後、謹慎が解けると、俺のもうひとりの騎士は「俺にこの国は狭すぎる」とか言って国を飛び出て行っちまったな」

「正確には強さを求めて、強さに憧れて、自分の可能性を試したいと、陛下の騎士を辞任しようとした。そんなノルダムに陛下はご自身で名誉騎士の称号を与えて、国を出て旅をすることを許したんでしょう。定期的に戻ってきて旅の間に得た他国の情報などを持ち帰るのを条件に」

「だって、あのまま無理に国に留まらせてたら、追われる身になるのも覚悟の上で出奔しそうだったんだもんよ」

「そうですね。英断だったと思います。今は随分と遠くまで行っているようですね。伝書鳩が時たま報告書を送って来るだけになってどれほど経つか」

「懐かしいなあ」

「陛下」

「うん?」

「会いたいんですか?」

 アリオはこちらを見据えるエスクードの海神色わだつみいろの瞳を見つめ返す。

「ああ。会いたいね。助けられておいて礼のひとつも言えてないからな」

「自分でも何故そうしたいのかよく分からない時はそう仰って良いと思いますよ」

「上に立つ人間が曖昧な物言いをする訳にいかないだろう」

 アリオが深いため息をついた時、執務室前の廊下が騒がしくなる。ドアが少し乱暴にノックされる。

「陛下。こちらにいらっしゃいますか?」

「どうした」

「望遠鏡で確認できる距離に災厄の姿を確認できました」

「分かった。すぐに行く」

 ラフな格好にマントだけを羽織ったアリオはエスクードと共に防壁の上に造られた見張り台に上る。曇っているのか星の数は少なく、国の外は距離感の全く分からない闇が広がっていた。

「どの方角だ?」

「あちらです」

 見張りの騎士がアリオに望遠鏡を渡す。エスクードは別の騎士から望遠鏡を受け取り、ふたりは同じ方角へレンズを向ける。覗き込んだ視界の中心、闇の中にぼんやりと白い点が浮かぶ。

「着実に近付いて来てるな。監視を続けてくれ」

「ハッ!」

「大臣達に報告は」

 アリオに災厄の接近を知らせ、ここまで随伴してきた騎士が背筋を伸ばす。

「はい。既に」

「各区の自警団にも連絡して国民に情報を共有してくれ。日が昇り次第、老人、子供、身体の不自由な者から避難を始めるよう」

「ハッ!」

 騎士が敬礼をして外壁に設けられている階段を駆け降りて行く。望遠鏡を見張りの騎士に返し、アリオは再び真っ暗な壁外へ目を向ける。

「黒の大災厄らしき人物を探しに行かせた斥候だが」

「まだ戻ってきていないようですが」

「明日の昼までに戻らなければ鳩を飛ばせ。戻ってくるよう伝令書を書く」

「よろしいのですか?」

「無理を言った」

 アリオはマントを翻し、外壁から降りて行く。その背をエスクードは少し眺めてから後に続く。


   +++


 日が昇り、雲は多めだが概ね晴れている。

 斥候は全力で馬を走らせていた。草原を疾風のごとく駆け抜ける。遠くに見え始めた祖国の防壁に向かってひた走る。ちらと横を窺えば少し距離を取った先に長い首、長い尾、巨体を支える六本の太い足。斥候は恐れ戦きながら必死に馬を走らせる。


   +++


 大会議室にアリオと大臣達は集まっていた。

「避難は順調か?」

「それが予定より手こずっているようで」

「急げ! もう災厄は肉眼で捉えられるところまで来てるんだぞ!」

「避難が遅れている理由はなんです?」

「皆、どうにも足取りが重く。避難の最中、国を振り返って足を止めている者が多くいるようです」

「名残惜しんでる場合か! 命が掛かってるんだぞ! 尻を叩いてでも急がせろ!」

「失礼いたします!」

 扉がけたたましく開かれる。駆け込んで来た騎士に大臣達の視線が集まる。

「陛下。斥候が戻って参りました!」

 アリオは怪訝に眉を顰め、小さく呟く。

「もう鳩を飛ばしたのか? まだ昼前だぞ」

「斥候は馬ともども体力の消耗が激しく。国に入ると同時に動けなくなりました」

「ひとりだったか?」

 前に出てくるアリオに騎士は敬礼し、一層背筋を伸ばす。

「私が見る限りはひとりでした!」

「俺自身で確認する。斥候は今どこにいる?」

「門番の駐屯所で介抱されています!」

 ラフな格好の上にせめてマントだけを羽織り、アリオは早足に大会議室を後にする。


 門の側に設けられた駐屯所にアリオは足を踏み入れる。仮眠室のベッドの上で身動き出来ない斥候が呻き声を上げる。

「陛下……。陛下に報告を……。行かせてください」

 白衣を着た医務官が首を横に振る。

「邪魔するぞ」

「陛下!」

 起き上がろうとする斥候をアリオは手で制す。

「そのまま」

「陛下! 黒の大災厄を見つけました!」

 アリオは息を呑む。

「一緒に戻ったのか?」

「私は置いて行かれました。先に着いている筈なのですか」

「まさか」

 踵を返し、駐屯所を後にしたアリオは国の大通りを形振り構わず駆けて行く。


   +++


 黒い髪、眠そうに半分閉じた黒い瞳、肌の露出の少ない黒い服を着た人物は、緩やかな丘陵に並ぶ赤茶色の瓦の敷き詰められた景色を眺める。

「ふーん?」

 屋根の上から国を見晴るかしていた人物の、その足元では、

「せい!」

 気合と共に投げられた両端に重りの付いたロープが人物の身体に勢いよく巻き付いた。バランスを崩した人物が屋根の上から滑り落ちる。

「落ちたぞ!」

「しまった!」

「大丈夫か!? 見慣れない怪しい人!」

「痛い」

 倒れてはいるがかすり傷ひとつ負っていない人物に国民達は少し遠巻きになる。

「怪しいぞ」

「怪しいな」

「怪しいから捕まえたんだが」

 どうしようと国民達は相談する。人物は身体を起こして座り直す。

「君達は避難しないの?」

「え?」

「アレが近付いてるでしょう? 上から避難してる人達と避難先だろう野営地が見えたけど」

 国民達は顔を見合わせる。

「アレって災厄のことかな?」

「分かっちゃいるんだけどな」

「早く避難しなくちゃいけないことは」

「君達もこの国を守りたいと思う人達?」

「誰の話をしてるのか知らねえが。この国に生まれて生きて、この国がなくなるのを黙って見ていられる奴なんてこの国にはいねえよ」

「ふーん」

「ふーん、て。兄ちゃん分かってなさそうだな」

「僕には生まれた国も帰る国もないから」

「やっぱりこの国の者じゃなかったか」

「国がないのか。寂しいな」

「寂しいと思ったことはないけど」

「強がらなくていいんだぜ。兄ちゃん」

 まあ、それでいいかと人物は黙る。

「国の一番高いところ、丘陵を上った一番上から国を一望できるんだが。そりゃあもう、綺麗なんだぜ」

「天気のいい日の朝焼けと夕焼けときたらなあ」

「なくなっちまうって分かってて、惜しまずにいられる訳がない」

 国民達の間にしんみりとした空気が満ちる。そこに聞こえてくる駆け寄って来る足音に、国民達は振り返る。そこに現れた人物に目を丸くする。

「陛下!?」

「アリオ様!」

 立ち止まったアリオは膝に手をついてゼェゼェと肩で息をする。目に掛かる髪を掻き上げると汗がしたたり落ちる。顔を上げ、縛り上げられている人物を見止めて頬を引き攣らせた。

「こんにちはー」

 笑顔で挨拶する人物に、気分を害してはいないようだとアリオはホッと一息つく。皆にロープを外すよう指示を出す。自由になった人物は立ち上がり、アリオは立ち上がった人物を見上げる。

「俺もあの頃よりデカくなった筈なんだが、届かなかったか」

「会ったことがある? 陛下って呼ばれてたけど、僕を呼ぼうとしたのは君?」

「ああ。そうだ。……俺を、覚えているか?」

「あー。ごめん。覚えてない」

 アリオは覚悟していたと、諦めにも似た気持ちで小さく笑う。

「そうか。だが、問題ない。俺が覚えている。国はもう見たか?」

「……軽く」

「あの頃、問題に上がってた諸々、片付いたんだぜ。やっと、整備し終わってこれからってところだったんだがな。もう、あまり時間はないが良かったらもう少し見て行ってくれ。俺の自慢の国だ」

「ふーん」

 アリオは見下ろしてくる半眼の黒い瞳を見つめ、自嘲気味に笑う。

「どうやら俺は、お前の顔を見たかっただけらしい」

 人物は軽く目を見張った。アリオは国民達に向き直る。

「さあ、お前達にももう近付いて来ている災厄の姿が見えているだろう。残っている者は速やかに避難しろ」

「陛下……」

 国民達はお互いに顔を見合わせ、名残惜しそうに坂の国を振り返る。

「行こう」

 歩き出した国民達に付いてアリオも歩き出す。

「それにしても陛下。その格好はないですよ」

「何?」

「ラフな格好がお好きなのは知っていますが」

「マントだけ羽織ってもねえ」

「……ダメか?」

「ダメじゃないですけど」

 真剣な顔のアリオに国民達は笑う。国民達と笑いながらアリオは思い出して振り返る。

「そうだ。お前は覚えていないかもしれないが、あの時の礼を」

「国ってそんなに大事?」

「は」

「僕には分からない」

 黒い瞳が鳶色の瞳を見つめ返す。

「既に覚悟を決めてた君達のその覚悟を、僕は無下にするのかもしれないね」

「なに?」

 アリオは怪訝な顔になる。人物はニッコリ笑う。

「僕は今、なんだかとても気分がいい。過去の僕にとって君と過ごした時間は悪いものではなかったみたいだ」

 アリオは大きく目を見開いた。

 重力を無視して人物は飛び上がる。国民達の驚きの声を無視して人物は飛んでいく。巨体が近付いている防壁へ向かって。

「クロノ!」

 アリオはその背を追って走り出した。


    +++


 防壁の上で近付いてくる巨体を眺めていた見張りの騎士がため息をつく。

「そろそろ俺達も避難しないとだな」

「ああ」

 言葉を交わしたふたりの間に音もなく黒い影が降り立つ。気付いた見張りは驚きのあまり言葉を失う。

「な、な、な」

「空から降りてきた!?」

「待て!」

 張りのある声に騎士達が振り返ると、階段を上がりきったものの立っているのもやっと、息も絶え絶えなアリオがいた。顔を上げられないままアリオは言う。

「おち、落ち着け……」

「陛下は息をしてください」

 折り畳み椅子に座らされ、水を渡され、扇がれて、アリオは呼吸を整える。

「陛下。あの者は?」

「黒の大災厄だ」

 言葉もなく騎士達が顔を青くする。

「恐ろしいと思う者は近付くな。何もするな。触らぬ神に祟りなしだ」

 騎士達は何度も頷き、アリオは立ち上がる。

「クロノ」

 防壁の縁に立ったまま反応しない人物の手首をアリオは掴む。黒い瞳が振り返る。

「クロノ」

「ああ。僕を呼んでたのか」

「何をするつもりだ?」

「行き先を変えてもらう」

「あの災厄の? どうやって?」

「簡単だよ。これ以上こっちには進めないと思わせればいい」

「……どうやって?」

 人物は微笑む。アリオの手からすり抜けて防壁の外へ飛んで行く。

「陛下」

 見張りが渡してきた望遠鏡をアリオは覗く。

 ゆっくりと前進する巨体に黒衣の人物はまっすぐに飛んで行く。進行方向に降り立つとズンッと地面が揺れる。次の一歩を踏み出そうとする前足に人物は事も無げに片手を添えた。ここまで迷わず立ち止まることなくまっすぐに進んできた巨体が、初めてその歩みを止める。何度前に出ようとする足に人物は手を添え続ける。長い首、長い尾、巨体を支える六本の太い足。目もなく鼻もなく口もない。それは不思議そうに小さく首を傾げると甲高く澄んだ鳴き声をひとつ上げて、ゆっくりと進路を変えて行く。

 防壁の上にいた騎士達が一拍置いて歓声を上げた。アリオも巨体が向きを変えて行くのを肉眼で確認する。

「あ、陛下!」

 望遠鏡を覗いたままの見張りにアリオも望遠鏡を覗き込む。

 黒髪、黒服の人物が草原を行く巨体を見送っている姿が見えた。風が吹いて、黒髪が柔らかに揺れる。人物は防壁を振り返ると黒い瞳を細めて微笑んだ。

「あ、あのヤロ!」

 瞬きの間に人物は姿を消していた。どこを探してもその姿はもう見えない。アリオは下ろした望遠鏡を強く握り込む。

「俺は結局、礼のひとつも言えてないぞ。助けられっぱなしでケジメがつかねえ。鳩の用意! ノルダムに伝令を出す! それから編纂係を呼べ。この国の歴史に奴の行いを刻んでやる。国を救った英雄として!」

「災厄を英雄として記録するのですか?」

 見張りが不安そうな目をアリオに向ける。

「ああ。だから最後に必ず一文書き添えさせる。黒の大災厄は我が国の英雄で隣人だが、決して友人ではない。軽んじてはならない。利用してはならない。攻撃してはならなない。期待してはいけない。俺達とは一線を画す存在。理解し合うことはない。だが、向き合い方を間違わなければ良き隣人でいてくれるだろう」


   +++


 避難先の野営地で部下への指示と、諸々の準備と、避難してきた国民の誘導をしていたエスクードが馬の手綱を引く。

「数日前に斥候隊が連れ帰った隣国民の様子は?」

「ハッ! 野営地に辿り着いた時は憔悴が激しかったですが、現在は心身共に回復傾向です」

「経過観察、治療を継続。俺は壁内に一度戻る。避難民の流れが止まった。何かあったのかもしれない」

「何か不測の事態が起きたのでしょうか?」

「確かめてくる。後を頼む」

「ハッ! お任せください!」

 エスクードが鐙に足を掛けた時、国の方角から馬を駆けて来る騎士がいた。

「団長! 災厄が進路を変えました!」

「……は?」


   +++


 頭に白髪の混ざり始めた大柄な男が草原を愛馬で駆ける。定期的に国に帰ることを約束して国を出たにも関わらず、長いこと留守にしていた祖国に向かって、急ぐでもなく馬を駆けて行く。数日前に伝書鳩によってもたらされた情報を元に、男は辺りを散策しながら草原を進む。

「お」

 男は徐に走る愛馬から飛び降りた。一切バランスを崩すことなく着地する。背の軽くなった馬は少しばかり進んでから主人の元へゆっくりと戻って来る。

 木陰の下に艶やかな黒い髪、低い鼻、露出の少ない黒い服を着た人物がうつらうつらしていた。

「おい。おーい!」

 まつ毛の薄い目蓋が震えて、その下から黒い瞳が現れる。

「ぅん?」

「あ、起きた! 良かった! 久し振りだな。ノルダムだ。つってもお前は覚えてないか。アリオ様から手紙が届いた時はびっくりしたぜ。暫く帰ってなかったから、そろそろ一度帰るかって戻って来てて良かったぜ」

「眠い」

「え!? 寝る!? 待て待て待てっ! もうちょっとおじさんとお喋りしようぜ」

「眠い」

 人物は既に眠る体勢に入っている。

「えぇ……。しょうがねえな。会えただけで良しとするか。けど、ひとつだけ聞いてくれ。アリオ様はお前がまた俺達の国に来ることがあったら、国全体で歓迎してやるから覚悟してろよってさ」


   +++


 木陰の下で眠っていた人物が薄っすらと目を開く。艶やかな黒い髪、覚醒には程遠い半眼の瞳もまた黒く、低い鼻、派手さのない顔に露出の少ない黒い服が冴えない印象に拍車を掛ける。人物は一度、二度と瞬きする。木々が生い茂る森の中だった。天気はいいらしく、明るい日差しが木漏れ日となって森の中に降り注ぐ。そのお陰で森の中ではあるが薄暗い印象はない。人物は立ち上がって歩き出す。目的は特になく、ただ歩く。軽く地面を蹴って生い茂る枝葉を避けて上空へ飛び立つ。上空から見下ろした森の外に国を囲む防壁が見えた。丘陵の緩やかな坂の上からその裾野いっぱいに広がる大きな国だった。何とはなしに近付いていく。入国待ちの列を暫く上空をふらふらしながら眺める。何とはなしにその最後尾に並んでみる。列は順調に進んでいく。

「次の方!」

 人物の順番がやって来る。

「こんにちは」

「通行手形と身分証の提示をお願いします」

「手形?」

「持っておられませんか? では、いくつか質問しますので正直にお答えください。出身はどちらですか?」

「出身……」

「えっと、こちらに来る前に立ち寄った国はありますか?」

「……」

「ご職業は?」

「……」

「どのような目的で我が国に?」

「……」

「ご希望の滞在期間は?」

「期間……」

 入国審査官は笑顔を崩さないまま頬を引き攣らせる。ぼんやりと宙を見上げる人物を観察する。黒い髪、眠そうに半分閉じられた黒い瞳、低い鼻、露出を限りなく減らした黒い服。

 入国審査官は大きく目を見開いた。

「少々お待ちを! 誰か! 城に伝令!」


   +++


 丘陵の一番上に建てられた白亜の城に知らせが届く。執務室で政務に勤しんでいた年若い女王は知らせを聞いて書類を放り出した。城を飛び出し、跳ねるように軽やかに下り坂を駆け降りる。国民達の視線を一身に集めながら駆けて行く。


   +++


 人物は門の側に設けられた一時待機所に通されていた。

「飲め」

 入国審査官に変わって今、人物の前には机を挟んで厳つい顔の警備隊長が座っている。勧められた湯呑を口の前まで運んで、人物は動きを止める。

「僕、飲めないみたい」

 男の太い眉がこれでもかと持ち上がった。

「そうか! 淹れ直すからちょっと待ってろ。おい。棚の奥の赤い箱の……」

 男の部下が頷いて去って行く。入れ替えても飲めないものは飲めないのだが、と思いながら人物は黙っている。

 新たに人物の前に置かれたのは華やかな香りの立つ、色の美しいお茶だった。

「綺麗。いい香り」

「そいつは良かった!」

 男が満足そうに笑った時、外が俄かに騒がしくなる。

「失礼いたします」

 息を弾ませた明るい声が扉越しに聞こえる。扉が開かれ、現れた人物に警備隊長は椅子を蹴って立ち上がる。

「女王陛下! お、おひとりで?」

「楽にしてください。この方が報告にあった」

「そうです!」

 座ったままの人物に年若い女王はスカートの両端を摘まんで軽く会釈する。

「お初にお目に掛かります。私、第八代国王アリオが孫娘。ティターニアです」

 色素の薄い、少し癖のあるウェーブの掛かった長い髪が揺れる。

「ご丁寧にどうも」

「どうぞ、気安くティティとお呼びください」

「陛下!」

 窘められても女王は少し困ったように笑うだけ。ぱっちりとした蘇芳色の瞳が眠そうに半分閉じた黒い瞳を見る。

「ひとつだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「うん」

「あなたは空を飛べますか?」

 人物はへらっと笑う。

「飛べるよー」

 女王はパッと春の木漏れ日が零れるような笑顔になる。改めて人物に向かって丁寧に礼をする。

「ようこそお出で下さいました。黒の大災厄様。我が国はあなたを歓迎致します」

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