第57話 台風一過


 雨が激しくなっているので、慌てて車に乗り込んだ。未嗣はエンジンをかけながら、


「何か…腑に落ちた?」と夕雨に聞く。


 夕雨は車の助手席に座ってシートベルトをつけて、ハンカチを取り出す。濡れているところを軽く拭こうとすると未嗣に取られて、前髪を撫でるように拭かれた。


「…大原さんに会えて良かったって思いました。ハナさんが私なのか…それは私の感覚でしかないけど、そうだったんだなって思うことがいくつもあって…」と言って、夕雨は突然、黙り込んだ。


 今までぼんやりと残り香が微かにしていたような記憶が一瞬で脳に蘇る。

 清と正雄とカフェで食べたアイスクリームの味、女学校の先輩と「いのち短し 恋せよ 乙女」と歌ったこと、実家のウメと切り干し大根を作ったこと、正雄と英語を勉強しながら見た風景…、そして清が嬉しそうに我が子を抱き上げている笑顔、愛された記憶、愛した人たち、時間、場所が夕雨を通り過ぎていく。

 

「夕雨ちゃん?」


 未嗣が心配そうに覗き込む顔があった。


「今の…」


「今の?」


 シートベルトを外して、夕雨は自分から手を伸ばして未嗣に抱きついた。肩に頭を乗せて未嗣の匂いを嗅ぐ。


「どうしたの?」


「…見つけた」


「え?」と聞き返しながら、未嗣はエンジンを切った。


 激しい雨のカーテンで車が包まれる。少し体を離して、未嗣はシートベルトを外した。


「夕雨ちゃん…」


 何も言わずにただ涙を流している夕雨をしっかり抱き締める。あの日、雨上がりに入ってきた未嗣はやっぱり夕雨がずっと探していた人だった。偶然入った店で出会った二人はかつての恋しい人だった。

 夕雨からキスをした。

 自分からずっと触れたくて、触れたくて、勇気が持てずに触れることが叶わなかった人。最後の別れも見送ることしかできなかった人。未嗣の手が背中を往復するのを感じながら、何度もキスを繰り返す。キスをしながら、全てが遠くなるような気持ちになる。


「終わり…です」


「え?」と未嗣が驚いて、夕雨を改めて見た。


 夕雨はそう言いながら微笑んだ。


「もう過去のことは…これで終わりです。私はハナさんの生まれ変わりとしてでなく…私が…未嗣さんを好きです」


 今度は未嗣から夕雨にキスをする。激しい雨で外の世界と遮断されているように感じる。たった二人だけの世界で改めてお互いを新鮮な気持ちで感じ合った。




 雨が強く降り続く中、ホテルに向かった。


「未嗣さんは…どうでしたか?」


「まずは曽祖父と血が繋がっていないことに驚いたし…、それなのに似ていることにも驚いたから。正直…戸惑ったかな」


 雨はフロントグラスを濡らし続け、見えづらくなり、未嗣はワイパーの速度を上げた。


「…そうですよね」


 ずっと曽祖父と似ていると思っていたのに、それをどう考えればいいのか悩むのも分かる。


「けど…少し夕雨ちゃんの気持ちが分かったから…それは良かったと思う」


「私の気持ち?」


「不思議な…なんとも言えない…そんな気持ち」


「少しでもわかってもらえたら…良かったです」と安堵のため息をつく。


 前世の話なんて、本気で言うと普通は警戒されるだろうし、なかなか言い出し難いと言うのもあったり、理解してもらえるなんて思いもしなかった。


「夕雨ちゃんを見てたら…ハナさんが二人に愛されたの分かる気がする…でも」


 ワイパーの速さは最大になっている。


「それでも…僕の前世だとしたら、なんか…不甲斐なくて…腹が立つ」と未嗣が言ってハンドルを軽く叩いた。


 夕雨は目をぱちぱちとしばたたかせた。少し苛立った様子で未嗣が言う。


「もし夕雨ちゃんが…そうだったらって思うと、僕は親友であれ、引かないから」


「何か理由があったんだと思います…」


「う…ん」


 未嗣はなんだか不満げだが、夕雨は窓の外に視線を移す。雨のカーテンで外はよく見えない。安全運転でゆっくりとホテルに向かった。




 湖のほとりにある古い洋館のような小さなホテルだった。駐車場から少し歩くのだが、入り口にはバラが綺麗に咲いている。雨に濡れてはいたが夕雨は目を見張った。


「未嗣さん…こんな素敵なホテル…」


 ホテルの人が案内してくれた部屋もメゾネットで、調度品はアンティークな雰囲気でまとめられている。


「気に入った?」


「とっても…素敵」


「夕雨ちゃんが喜んでくれるかなって思いながら、色々検索するの楽しかったから…良かった」


 夕雨はメゾネットの二階へ続く赤い絨毯の階段を駆け上がって、上から手を振る。未嗣は嬉しそうな夕雨を見て、嬉しくなったが、ふとある考えが浮かんだ。


「…大原清も…生まれ変わって」


 首を横に振る。もう過去の話だ。今はこの時間と夕雨を大切にしよう、と未嗣は思った。夕雨が階段を駆け降りてきた。


「未嗣さん、お腹空きました」と言うので、レストランでランチをすることにする。


 レストランはレストランというより趣味のいい家具が置かれて、まるで誰かの家に招待されたような気分になる。洋風な長いテーブルに椅子が並べられ、テーブル中央にテーブルランナーが掛けられ、蝋燭立て、果物が置かれる銀食器が並んでいた。それを見て、ふと夕雨が立ち止まった。


「…どうかした?」


「あ、いえ」と言いながら、きっとこれも過去の記憶だ、と遠くへ押しやる。


 二人は庭が見える小さなテーブルを選んだ。残念ながら、台風のせいで決して眺めのいい庭というわけではないのだけれど、二人だけではその長テーブルで食事をするのは気が引けた。


「台風だから…ホテルを堪能できますね」とメニューを見ながら、夕雨は言った。


「…そういう考えもできるね」と言って、未嗣は何を食べようか考える。


 嬉しそうな夕雨を見て、かわいいと思いながら、またさっきの考えが浮かぶ。大原清が生まれ変わってて、出会ったらどうなるのだろう、と。


「未嗣さん、決まりましたか? 私はオーストリア風カツレツにします」


「…カツレツ。じゃあ、、同じものにするよ」と言いながら、未嗣も何だかふと懐かしさが溢れる。


 メニューを閉じて、夕雨が未嗣に言った。


「私の名前…変じゃないですか?」


「え? かわいいと思うけど…」


「夕雨って…。『ゆう』ならもっと違う漢字があるのに…。どうしてこんな漢字なのかなって思いませんでしたか?」


「夕方の雨…。生まれた時が…そうだったの?」


「まぁ、そうです。後、簡単な漢字にしたかったそうなんですけど…。その日は今日みたいに台風が来てたんですって。台風の日って赤ちゃんがたくさん生まれるって知ってました?」


「え? どうして?」


「満月の日と台風の日は…。気圧とかの引力のせいなのかな? 予定外に赤ちゃんがたくさん生まれるんですって。だから私も…予定日より早く産まれたんですけど。台風だし、タクシーは電話しても繋がらないし、大変だったそうです。でもその記念に子供に名前つけるのって…何だか変ですよね」


 タクシーが捕まらなくて、母は仕事中だった父親と実家に連絡し、自分の親が車で迎えにきてくれて、何とか出産できたという。父親は台風の影響で電車が止まって戻れなくなり、歩いて、産院までびしょ濡れのまま来てくれたらしい、と夕雨は言う。


「そっか。何だか…素敵な話だと思うな。夕雨ちゃんが生まれるのに、お母さん、祖父、祖母、お父さんがみんなが駆けつけたっていうのが…名前に記録されてるんじゃないかな」と未嗣は言った。


「え? そうですか? 私は適当に決めてって、ずっと思ってましたけど」


「きっと忘れられない一日だったんじゃないかな」


 未嗣にそう言われると、とてもいい名前に思えてくる。


「そう言えば…海の干潮の時に人が亡くなるって話も聞いたことがあるな」と未嗣が言う。


「不思議ですね」と言いながら少し身震いをする。


「人間も地球の一部だから…そういう影響は受けるのかもね」と話しているとウェイターが注文を取りに来た。


 カツレツを注文して、夕雨は激しい雨と風を見る。


「でも今日はきっとたくさん、赤ちゃんが産まれてきますよ。無事に産まれてきたらいいですね」


 未嗣はふと大原清も…、とまた思った。



 夜中になると一番雨風が強くなっていて、夕雨はベッドの中でぴったりと未嗣の体にくっついた。


「すごい雨と風ですね」


「怖い?」


「でも未嗣さんにくっつけるから」


「別に台風じゃなくてもくっついていいんだけど」


「でも台風だと何だか少し…」と言いながら、腕を巻き付けてくる。


 未嗣は夕雨にキスをしながら、前世は過去のことだと思いながらも、少し燻っているのを感じている。


「安心できるから」と言って、さらにきつく抱きついてくる。


 ふとアルバムの大原清の顔が浮かぶ。切長のすっとした細い目の美男子だった。彼とハナが結婚していたのは間違いないし、子供も三人産んでいるのだから…と思うと思わず、上半身が跳ね上がるように起こした。夕雨は驚いて、未嗣を見る。


「夕雨ちゃん」


「はい?」


「ごめん…」


「え?」と言って、少し何を言い出すのかと怯えたような顔をする。


「どうしようもないことに…嫉妬してる」


「嫉妬?」と言って、夕雨も体を起こした。


「君じゃないのに…。僕でもないのに…。大原清とハナさんが結婚したことが…心に残って」と言って、口に出すとものすごく恥ずかしいことを言ってると自覚したので、手で顔を隠した。


「…未嗣さん」と言って、夕雨は未嗣の手に触れる。


 顔からゆっくり剥がして、ペンだこのようなものがある手をそっと包んだ。そこに唇を当てて、キスをする。ずっと触れたかった手に触れられている、そんな気持ちを感じながら…、夕雨はもう過去を終わりにしなければいけないと思っている。


「前にも言いましたけど…私は…未嗣さんに会うために生まれて来たんです」


「夕雨ちゃん?」


「今度は未嗣さんと一緒に…ずっと一緒にいたいんです」と言って、夕雨は未嗣の体に上体を持たせかける。


 台風が再接近していることを教えるような勢いを感じる。赤ちゃんは生まれているだろうか。全員が誰かの生まれ変わり…なんだろうか、と未嗣は思う。

 窓が風でガタガタ音を立てる。未嗣は夕雨を抱き締めて、その小さな体を確かめる。少し甘い匂いのする肌、柔らかい声、光が溢れそうな瞳…。全てが腕の中にある。


「好きで堪らなくて…過去に嫉妬した」と言って、夕雨を見た。


 出会えたことの奇跡を大切にしよう、と未嗣は思う。夕雨の小さな手が未嗣の頬を挟んで、唇が近づく。未嗣は夕雨の背中に置いた手を髪の中に差し入れて、キスを繰り返した。

 激しい雨のように、止まないキスを。吹き付ける風の音、強い雨足は愛し合うにはちょうどいい雑音だった。




 朝日が柔らかく部屋に入り込んで来る。未嗣は目を覚ますと、隣で眠り込んでいる夕雨の頰にキスをした。まるで映画のように目をゆっくり開ける。


「おはようございます」


「おはよう。起こしちゃったかな」


「はい。とっても素敵に起こされました」と言って、首に腕を柔らかく巻き付けてキスをする。


「夕雨ちゃん。今日は…昨日言ってたサナトリウムの方に行かない?」


「私も…そう思ってました。急いで用意しますね」


「うん」と言いながら、夕雨の腰を未嗣は引き寄せた。


 台風が過ぎた後の空気は澄んでいて、未嗣の体の向こうの窓に明るい光が見える。夕雨は何かが新しく始まりそうな気がして、未嗣を急かした。


「早くご飯食べて行きましょう」


 しばらく未嗣はじっと夕雨の顔を見ていたが「分かった」と腕を解く。


「未嗣さん?」


「…そんなにきらきらした目で言われたら仕方がない。急ごう」


 すぐに夕雨はベッドから降りて、下の階へ降りて行く。いつも思うけれど、小鳥が飛んでいくような軽さだ。未嗣は一人取り残されたベッドで天井をしばらく見てから、体を起こした。しばらくぼんやりしていると、ギンガムチェックのワンピースを着た夕雨が駆け上がってきた。


「洗面台空きましたよ」


「かわいい」と言いながら、未嗣はベッドを降りて、夕雨にキスをした。




 ホテルの素敵な朝食を取って、チェックアウトする。ゆっくりできたような、できなかったような思いで未嗣は車を走らせた。


「もっとたくさんお休みいただいてくれば良かったかな。せめて後一日」と夕雨は景色を見ながら呟く。


 昨日とは打って変わって綺麗な青空と太陽の光が降り注いでいる。


「また来たらいいよ」


 サナトリウムがあったとされる病院を一周して、車を止める。


「あれ? ものすごく開けてますね」と夕雨は驚いたように言った。


「まぁ…百年も前の話だから…」


 少し残念そうに夕雨は車から降りる。何もかも新しく見える。雑木林みたいなものが少しあるが、ほんの僅かで、周囲は住宅や駐車場、畑や人家がある。


「でも富士山が見えますね」


「そうだね」


 しばらく散歩してみたが、特に何も見るものはなかった。最後に正雄とハナが会った場所がどこだかさっぱりわからないくらい変わってしまったし、今の風景を見ても、何も感じることはなかった。また車に戻る。帰り善光寺に寄って帰ろうという事になって、ドライブしながら車をレンタカー屋さんにまで戻すことにする。気持ちのいい風を入れたくて、夕雨は窓を開けた。


 台風は空気中のゴミや塵を吹き飛ばしたようで、山の稜線がくっきりと空を切り取っていた。


「未嗣さん…連れて来て下さってありがとうございます」


「え? 僕も夕雨ちゃんと旅行できたから…。あ、ちょっと景色がいいから、道の駅があるし…車止める?」と言って、道の駅に入る。


「わぁ、温泉もあるって書いてますよ」


「そうだね」


 道の駅の中は後で寄ることにして、しばらく散歩することにした。台風の吹き返しの風が多少強いが、風が通って心地いい。少し歩くと川が流れている。夕雨は近寄って、覗き込んだ。水が綺麗なので、しゃがんでちょっと手を入れる。冷たくて気持ちいい。未嗣も隣に腰を降ろした。


「夕雨ちゃん…。もし…大原清が生まれ変わってたら…」


「生まれ変わってたら?」


「それで好きだって言われたらどうする?」


「どうするって…。どうもしません。だって、今は未嗣さんが好きな私ですから」と言って、未嗣を見て笑う。


「そっか」


「心配ですか?」


「まあ…」と言って、難しい顔をするので、夕雨は冷たい水に浸けた手で未嗣の頬を指でつついた。


「不束者ですが、未嗣さんと一緒にいたい私をよろしくお願いします」


 そう言って笑顔を見せる。

 その笑顔を見て、未嗣はなぜか懐かしい気持ちになる。ふと川沿いにいるのに、風通りのいい丘にいるような錯覚を見る。空高く鳥の鳴き声が聞こえて、目の前にいる夕雨が着物を着ている。


「二度目の挨拶は笑顔で、できましたか?」と笑っている。


 一瞬だった。瞬きしたらギンガムチェックのかわいいワンピースの夕雨が不思議そうに見ていた。


「どうかしました?」


「夕雨ちゃん…」と言って、なんて言っていいのか分からず、夕雨を抱き締めて「二度目の…挨拶、できてた。ありがとう」と言った。


「え?」


「末長く…よろしく」と夕雨の耳元で伝えた。


 太陽が高く登り、雲間から差す光が川の水面に散っては流れていく。その輝きが眩しくて、夕雨は目を閉じて返事をする。


「はい」

 

 突然、大きな風が二人を吹き上げる。その風を見上げるように顔を上げると青空を高く鳥が飛んで行った。





                                                            〜終わり〜

 


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二度目の挨拶 かにりよ @caniliyo

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