第55話 愛した日々


 季節は春になり、庭先の梅の香りが漂う日にハナは大原家に嫁ぐことになった。嫁いでからも学校へ通っていいと言われていたが、ハナは迷っていた。

 今日は大原家で祝言をあげる日だ。もう入江の家には戻らない。朝から忙しく、まだ寒い早春ではあったが、みんなが寒さを感じなかった。

 支度には時間がかかり、昼を回る。朝から文金高島田を結い上げ、簡易な昼食を済ませ、ハナは綺麗に白塗りをしてもらい、角隠しをし、黒打ちかけの振袖を着ている。


「お父さん、お母さん、今までありがとうございました」とハナは三つ指ついて挨拶をした。


 母は目頭を抑え、父は安堵したように頷いた。そして立ち上がると玄関に向かうことになる。


「ウメさん、一郎、今まで本当にありがとうね」と泣いている二人にも挨拶をする。


「お嬢さ…」と言葉にならずに袖で涙を拭っている。


 玄関に車が待っている。ハナは生まれ住んだ家を名残惜しそうに眺めながら家を出る。ハナと母が車に乗った。後の人たちはまた別の車で行く。


「ウメさん…。赤ちゃんのお世話してね」とハナは泣き続けるウメに車の窓から声をかける。


 ウメは何度も頷くが声が出ないようだった。そんな姿を見ていると、喉の奥がキュッと絞られたようになる。赤ちゃんを見せに来ることはできるだろうが、ウメが大原家の子の面倒を見ることはない。


「お体に…お気をつけて…。どうか…お元気…で」とようやく切れ切れにウメは最後の挨拶をした。


 その声を聞いて、ハナの瞳から涙が溢れた。ウメは留守番をすることになっているので、もう会えない。車が動き出してもハナはずっと小さくなっていくウメを見ていた。


「ハナ…」と母に声をかけられる。


「はい」


「ごめんなさいね。小さい頃…。一郎を産んでから、あなたはウメさんのところで過ごして」


「そんな…。私は楽しかったです」


「少し後悔しているの。こんなに早くお別れが来るなんて…思わなかったから」


 ハナは母がそんなことを思っているとは知らなかった。厳しく躾けられたが、しっかり愛情も感じていた。


「もっと…本当は一緒にいたかったです」とハナが言うと、母は涙をこぼした。


「…おめでたい日なのに…」と言って、母はハンカチで拭った。


 それから大原家でテーブルと椅子での祝言が行われた。全て洋室の大原家では長いテーブルに両家が並んだ。花嫁修行として通っている間に、馴染んではいたが、ハナは緊張して清の横の椅子に座る。

 三々九度をし、清が挨拶をしているのをぼんやりと聞いて、ハナは頭を下げた。正雄はこの場にいない。清の計らいでどこかの病院に入院しているらしかった。

 祝言はつつがなく終わり、入江家の家族を見送ると、ハナは心もとなく感じる。


「ハナさん」と清に声をかけられる。


「はい」


「一段と綺麗です。幸せに必ずしますので」


「ありがとうございます」となぜか泣きたくなった。


 綺麗に結われた髪を解くのにも時間がかかる。祝言の時に何も食べられなかったハナに気を効かせて、清の姉が軽い食事を持ってきてくれる。


「ハナさん、綺麗だったわよ。はい、これ。サンドイッチなら簡単に食べれるでしょう。いちごのジャムを挟んでいるから美味しいわよ」と言いながら手渡してくれる。


「ありがとうございます」


「いいのよ。家族になるんだから。男たちは気楽にお酒を飲んでて、ほんと…いい気なもんね」


 ありがたくジャムサンドを頂く。甘くて柔らかくて、ハナは寂しい気持ちが少し癒されたような気がした。髪結屋さんが手際よく解いていく間に、清の姉が少しため息をついた。


「こんなこと言うの…間違ってるけど…。私は結婚したくないわ」


 驚いて、ハナは清の姉を見た。


「私は自分の道を歩きたいの」


 清の姉はピアノの先生をやっているらしいが、油絵も描いているという。芸術大学で知り合った学生とこっそりお付き合いしているということをハナに教えてくれる。自分の両親にそれがばれると、すぐにでも嫁に行かされると言って、固く言わないように誓わさせられた。


「ハナさん…。弟は大切にしてくれると思うけれど、もし何かあったら、いつでも言ってね。私がぶん殴りに行くから」と言って笑う。


「そんな」と言いながらもハナは姉の気持ちが嬉しくなった。


「妹ができて嬉しいわ。仲良くしましょうね」


「はい」


「じゃあ、これ、全部食べてね」と言って、サンドイッチが置いてある皿をそのまま置いていった。


 たくさんあったので、髪結屋さんにもハナは勧めた。そしてもう会えなくなったソノのことを思い出す。誰もソノの行方は知らないようだった。綺麗な人だった。一方的に話しかけて、ハナは困ったこともあったが、正雄が惹かれたのもわかるほどの美人だった。


「お疲れでしょう?」


「はい。少し」


「少し肩をお揉みさせてくださいね」と言って、優しくマッサージをしてくれた。


 まるでハナの気持ちを分かっているかのような仕草で、黙ってしばらく揉んでくれた。



 その日の夜、ハナは清と初めての夜を迎える。色々事前に母が慌てて教えてくれたが、衝撃が大きすぎて、少しも頭に入らなかった。ただ最初にきちんと挨拶をすることだけはなんとか忘れないようにしようと思い、大原家は布団ではなくベッドだったので、その上できちんと正座をして、頭を下げた。


「よろしくお願いします」と声が震えてしまう。


「ハナさん…。こちらこそ」と言いながら清も頭を下げた。


 そしてスッと腕をだし、ハナを抱き寄せる。


 顎に手をかけて、顔を上に向かせキスをする瞬間に少し悲しそうに笑って「ごめんね」と言った。


 ハナは何か言おうとしたが、その瞬間に口を塞がれてしまい、何も言えなくなった。どうして謝られたのか気にはなったが、今は聞ける状態ではなかった。以前に友人が言っていた、舌が入ってくるキスだった。あの時は奇妙だと思って、何度も考えても分からなかったけれど、今、清が腰に回した手の強さとそのキスがゆっくりと愛されていることを教えてくれた。顔を離して、お互いを見る。


「清さん」とハナは名前を呼んだ。


「あぁ、やっと…名前をちゃんと…」と清は嬉しそうに微笑んでくれる。


 その顔を見て、ハナはこれでよかったんだ、この人を愛して、生涯を共にしようと思った。ハナを気遣うように優しく愛してくれる夫を大切にしようと決めた。


 清はハナが寝入るまで何度も頭を撫でた。ハナの愛した人から、引き離してしまったことをー、相手もきっと同じ気持ちだったんじゃないかと分かっていてもー、それでも自分のものにしてしまうことを謝ったのに、こんな自分にさえ、ハナは優しい気持ちを向けてくれる。その姿勢が愛おしかった。そして少しの哀しさもあった。

 初めての夜はやはり辛かったのだろう、目の端に涙の跡が残っている。


「ごめんね」


 もう一度、ハナの寝顔に謝った。


 朝が来て、ハナは横で寝ている清を見て、少し居心地が悪い。どうしようかと思っていると、清が目を開ける。


「あ、おはようございます」と慌ててハナが挨拶をすると、清はゆっくり笑った。


「おはよう。ハナさん」


 そう言いながら腰を引き寄せて頭を抱いた。まるで夢を見ているみたいだ、と思いながら。偶然、見初めた女の子を腕の中に抱いている。


「清さん?」と言って、ハナは頭を上げて、清を見た。


「今日はゆっくりしましょう」


「あの…でも。朝食の準備が…」


「それは作ってくれる方がいるので、ご心配なく」と言って、また顔を胸に抱く。


「でもそろそろ起きなくては…」


「そうですね。変な詮索をされるのは嫌ですもんね」と清が言うと、ハナが慌てたようにみじろぎをした。


 その姿が可愛くて、さらにきつく抱きしめる。ついにはハナにトントンと背中を叩かれた。


「幸せな…朝だな」と清は呟いた。


 そして嬉しいことに、ハナからも「はい」と返事が返ってきた。



 そうして大原家でハナは玄関の花を生けたり、何か一品だけ作ったり、おやつの作り方を教えてもらったりして過ごす。結局、学校は退学してしまった。卒業まで通っていいとは言われたものの、家庭に入ったのに、なんだか行き辛く感じてしまったからだ。

 手紙でやりとりしていた、本好きの友人が一度顔を見にきてくれた。


「幸せそうでよかったわ」と安堵した表情を浮かべてくれる。


「えぇ。本当にお陰様で…。私…大切にしてもらって」


「それが何よりですわ」と控えめに微笑んでくれた。


 友人を見送る時は寂しくなる。あの頃のように、寄り道をしたり、道の端で話し込んだりすることもできなくなった。小さくなる友の背中を見ていると、青春が遠くなる気がした。


 実家にいるより働くことが少なく、ピアノの練習に励んだり、何か美味しいものを作ったりしていた。清の母は思うことがあるときちんと伝えてくれるし、ピアノはまだまだ弾ける曲は少ないけれど、少し弾けるたびに褒めてくれるようになった。


「あなたがお嫁に来てくれてよかったわ。何より、あの子が幸せそうだから。…ごめんなさいね。初めに嫌なことを言って」とある日、清の母に言われた。


「え? そうなんですか?」


「そうよ。一時は少し難しい顔をしていたけれど…。今は本当に穏やかになって。あなたのおかげね」


「そう…でしょうか」


 清はいつも優しくしてくれたから、ハナには分からなかった。


 五月の連休に「新婚旅行に行きませんか」と清に誘われた。


「新婚旅行?」


「えぇ。この家は人が多いですから…。のんびり寝坊もしにくいでしょう」


「まぁ…」と言って、ハナは顔を赤くする。


「じゃあ、決まりですね。場所は僕が決めておきますので」


「よろしくお願いします」と言ってハナは少し楽しみになった。


 家から外に出られるというのは良い気分転換になる。ハナはあれから実家に一度も戻っていないが、みんな元気にしているだろうか、とふと思った。旅行から帰ったら、お土産を持っていくという理由で、少し顔を見に行ってもいいかもしれない、と思った。


 旅行は朝から汽車に揺られて山の方に向かうようだった。列車の中でサンドイッチを食べる。旅行はやはり開放的な気分になるのか、清も明るい顔をしていた。


「ハナさん…。体調はどうですか?」と聞かれて、「はい。大丈夫です」と答える。


「変わりないですか?」


 重ねて質問されて、ハナは「あ」と思った。


「…すみません。まだ…あの。申し訳ないです。至らなくて…」


「いえ。もし子供ができてたら、旅行の都合も考えなくてはいけないですからね。まだなのでしたら、一層の努力をします」と言って、清は笑う。


 明るく言われるが、ハナは顔が赤くなってしまう。


「この旅行で授かれたらいいですね」とさらに言われて、ハナはもう恥ずかしさのあまり俯いて、小さく返事をした。


 行き先は信州だった。綺麗な空気と自然が豊かでハナは思わずはしゃいでしまう。そもそも旅行をすることがほとんどなかった家だったので、珍しいことばかりだった。駅からはタクシーで旅館まで向かう。

 もう着いた時には夕暮れだったので、すぐに食事を取って、温泉に入り、部屋でゆっくりした。窓からは怖いくらい星が見える。


「清さん、見て。星が」と思わずフランクに声をかけてしまう。


「あぁ、本当だ」と言って、ハナを引き寄せた。


 目を大きくしてハナが清を見ると「そうやって、いつも話しかけて欲しいな」と清もフランクに話しかけた。


 星が満点に見える窓際でふたつの影が重なった。


 清が言う通り、朝はのんびりとなり、近くを散策したり、沢を見に行ったりした。二人で手を繋いで歩くのは初めてだった。


「あ、蟹」


「サワガニですね」と言って、清が取ろうとするから、ハナは慌てた。


「そのままでいいです」


「ハサミで切られるかも」と冗談を言って、ハナを驚かす。


 高原に行けばまだ雪が残っている山と花畑が見られた。その不思議な景色にハナは目を輝かせる。今まで見たことのない景色が広がっている。


「連れてきてくださって、ありがとうございます」


「そんな。また来年も…来きましょう」


 ゆったり過ごしてもあっという間に時間が経つ。最終日になった。

 

 ハナは楽しい時間を持ててよかったと清に感謝し、「ありがとうございます」と言う。


「ちょっと寄りたいところがあるのでいいですか」と言われて、車で移動する。


 綺麗な景色は変わらない。車を止めて、丘になっているところを二人で登った。見晴らしがいい場所で、遠くまで見える景色を眺める。


「ハナさん…。ちょっとここで待っててください。僕は電話をしなければいけないところがありまして。そこで借りてきます」と病院を指差した。

 

 高原に建てられた二階建ての洒落た雰囲気の建物の中に清は入って行った。こんなところに一体、何の施設だろうとハナは思いながらも、しばらく見ることのないこの素敵な景色を目に焼き付けていた。


 風が丘の上を吹き抜ける。

 しばらくすると草を踏む、足音が聞こえたので、清が戻ったのだろう、と振り返ると、そこに正雄が立っていた。最後に会ってから一年も経っていないと言うのに、正雄の外見は随分、変わっていた。痩せ細り、杖で体を支えていた。


「彼が会いにきてくれて…。ハナさんもいらっしゃる…と言うので、挨拶に来ました」


「先生…。お体が…」


 立っているのも辛そうに思えて、草原の上だが、腰をかけないか、とハナは言う。ゆっくり草原に腰を下ろすので、ハナもその横に座った。


「仕事の電話をかけるついでに、会いにきたって…行ってくれましたけど」


「えぇ、そう言ってました。でもまさか先生がいらっしゃるとは思ってもなくて」


 正雄はハナを見て「最後に会わせに来てくれたんでしょう」と言った。


 その言葉を聞いて、胸が詰まる。草の上に杖が投げ出されている。もう普通には歩けないのだろう。


「彼と結婚して…安心です」と切れ切れに言う。


「…。はい。大切にしてくれて…」


 大きな手は細く骨が浮き出ている。ハナはそれでもその手に触れたくなる。


「私…。先生に何もできないことが…悔しいです。何もお返しできないことが…」


「…お返し?」


「はい。先生からたくさん教えて頂いたのに…」


 正雄に会って、初めて人を好きになる気持ちを知った。恋しいと言う気持ち、切ない気持ち、全て正雄が教えてくれた。


「英語は…よく…出来てました」


「英語だけじゃないです」


「…そうですか。それは…僕も同じですよ」と言って、視線を遠くに投げた。


「同じ?」


「君に会って…初めて…生まれてきたことに…感謝しましたから」


 ハナは正雄の生い立ちは知らないが、どこか寂しさを抱えた人だと、何となく感じていた。


「君と一緒に…初めて…季節の移ろいを…知って…夜の艶やかを教えてもらって…人を愛すること…人生…が…何かを知りました。たくさん教えて…もらったのは…僕の方…です」


「そんな…」


 わずかな時間しか過ごさなかったと言うのに、正雄が言っている言葉が本当だったとしたら…。あと少しで正雄の手に触れそうになるのをハナは必死で我慢した。


「それに…もうすぐ…いなくなるでしょうが…。この世にいた意味みたいなものが…」


 正雄の息が辛そうだったから、話すのをやめて欲しいと思ったが、何かを言うと、涙が溢れそうで何も言えずに、喉の奥がきゅっと閉じられている。爽やかな風が森の香りを運んでくる。


「君と…会うためだったと…思えた…ら…何も…怖くありません」


 ハナは首を横に振った。


「最後の挨拶も…できて…これ以上…望むものは…」


 ついに涙が溢れた。


「いいえ。…先生。もう一度…お会いできるよう…。また…ご挨拶できるように…お望みください」とハナは正雄を見て言った。


「…二度目の…挨拶は…笑顔だと良いですね」


「すみません。…必ず…そうします。笑顔で…ご挨拶させて頂きますから」と溢れる涙を抑えることもできずに、必死で言う。


 正雄は優しい笑顔を浮かべて、ハナを見る。空で鳥が高く鳴いた。


「先に…行きますね。これ以上一緒にいて…移すと厄介ですから」と言って、杖を持ち、ゆっくりと立ち上がる。


 ハナは寄り添って歩いてあげたかったが、そのまま後ろ姿を見送った。もう正雄に二度と会えなくなることを知っていた。涙が止まらないハナの体を爽やかな風が吹き抜ける。

鳥の鳴き声を聞きながら、ハナは涙で歪んだ遠くの山を眺めた。


 それからしばらくすると、草を踏む足とが聞こえる。


「ハナさん」と清が呼び掛けたので、ハナは思わず立ちあがって自分から抱きついた。


「ごめんね」とまた清が謝った。


 ハナは清の腕の中で何でも首を横に振った。清はハナに最後のお別れをさせてくれた。もちろん清にとってもそうだったはずだ。それを新婚旅行と言う理由でハナをここまで連れてきてくれた、その気遣いと優しさに甘えて、泣いた。二人の間に高原の爽やかな風が吹き抜けていく。優しく癒すように。


 新婚旅行からほどなくしてハナは妊娠が分かった。誰からも愛されて、大切にされる。身に余るような幸せを感じながら過ごしていた。正雄の訃報が届いたのは、夏の暑さが厳しいお盆前のことだった。妊娠しているハナは葬式には行けないので、清一人で参列した。参列者はほとんどいなかったらしい。


 時代は昭和に入り、生活はそこまで変わらなかったが、段々と世の中の動きが怪しくなっていた。


 昭和五年、清も二ヶ月後には海外赴任が決まっていた。ハナは第三子を身籠もっていた。お腹も大きく、ひと月後には出産する。


「次は女の子がいいですね」とハナは清に向かって言う。


「僕はどちらでも…いえ、ハナに似た女の子だったら…嬉しいです」


 上二人は男の子で、ハナは妊婦であっても二人を追いかけて走り回っていた。


「何だか、最近、お腹が張るようになってしまって」とお腹をさする。


「三人目だと早いですか?」と清は心配そうに言った。


「さぁ…どうでしょう。でも楽しみですね」


 不意に、清は不安にかられた。

 世界情勢も微妙な時期になっていた。アメリカの恐慌から始まる世界恐慌は日本にも大きな影響を与え、海外へ輸出していた絹糸が売れなくなる。蚕は農家が飼って、絹糸を作っていた。売れなくなると、農家の生活は苦しくなっていった。農家以外の小さな会社も軒並み倒産していく。その会社を吸収していったのが大手財閥系列だった。貧しい者がますます貧しくなっていく。その不満は金持ちの財閥、そして財閥から支持されている政治家に向けられる。軍部も政治家には批判的だったし、イタリアではファシスト党が台頭していた。必死に情報を集め、微妙な綱渡りで欧米各国との国際関係を維持しようとしているのに…この不況で人々の意識は不満を募らせていく一方だった。

 無意識に出たため息をハナは心配そうに見た。


「あぁ、出産には立ち会えるので…」と誤魔化した。


 ハナの笑顔を見て、清は心が少し落ち着く。


「久しぶりに…デートをしませんか?」と清は誘った。


「まぁ、お忙しいのに」


「次の土曜日は昼から帰ってきますので。デートと言っても、映画を見て、レストランに行くくらいですけどね。子供が生まれたら、また忙しくなりますから。子供たちは見てもらって」と清は言った。


 ハナは嬉しそうに笑う。幸せな家庭だと清は思った。いつまでも仲良く過ごせる居心地のいい場所で、あって欲しいと願った。

 しかし思ったよりその時間は短かった。


 最後のデートからひと月後、第三子を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、ハナは命を落とした。


「ハナ、ハナ」


 清が繰り返し叫ぶ。その声を聞きながら、ハナは自分の母も産後の肥立ちが悪かったことを思い出していた。そしてウメの横で寝ていたことも。ウメにも子供を会わせることができた。第三子は無理だったけれど。また男の子だったので、ハナはそれを清に謝りたかった。


「ごめん、ごめん」と清が繰り返す。


(また謝って…。いつも謝ってばかりで…)とハナは思いながら、微笑んだ。


 ゆっくり眠るような心地よさが来る。


「ハナ、ハナ」


 その度に揺り動かされるが、ハナはもう戻ることがないことを分かっていた。どうか泣かないで欲しい、とハナは清の頰に手をやろうとするが力無く落ちる。その手を清が取ってくれた。


(私を大切にしてくれた人、幸せをくれた人…)


「あり…が…」


(声が聞こえたかな…)


 心地のいい深い眠りは永遠になった。もう清の呼びかけも何も届かなかった。

 享年二十四歳。

 廊下をはしゃぐ子供の声と、夏の終わりを教えるひぐらしの鳴き声が遠くで聞こえる。


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