第54話 古いアルバムまで
結局、母にお願いして、夕雨は金曜日から旅行に行くことにした。アルバイト先から直接旅行に行くことになる。
「台風来てるのに…どうして無理に…。観光もできないでしょう?」
「あ、そうなんだけど…。ちょっと約束があって」
「約束? 誰と?」
母からしたらごく普通の質問だが、夕雨からしたらとても答えにくい答えだ。
「うん…。あの…お母さんは…私を産んでくれて…」
「ん? どうしたの?」
「育ててくれて…。私のこと…よく分かってると思うから、…だから変に思うかも知れないけど…」
よく分からない前置きから始まった話を母は根気よく聞いてくれた。近頃よく見ていた夢と、未嗣に会った時の話、未嗣の持っていた写真と…不思議な繋がりを感じて、ある人の孫に会いに行くという話をしてみた。どう思われるかなんて分からないけれど、嘘をつくにしても、縁もゆかりもない土地に約束があるという理由が思いつかなかった。
「…そんなに似てるの? その写真の人と…夕雨が?」
「…ちょっとびっくりするぐらい。今度…写真撮ってくる」
「そう。そんなことがあったのね。納得したわ」と言うので、夕雨は一息ついた。
「そりゃ、スーパーレアが夕雨を好きになる理由があるかも知れないしね」と母が言うので、なんとなく引っかかったが、まぁ、それもそうか、と思う。
そういうわけで早朝から重たい荷物を抱えて、夕雨はアルバイトに向かった。どんよりと重たい雲が空を覆っていた。確かに台風が来そうな湿った風が吹く。
この日は早朝から夕雨は頑張って働いて、未嗣も仕事をなるべく片付けるから、とアルバイトが終わるまでは顔を見せなかった。バイトの終わった時間に未嗣が来て、待っててくれていた。夕雨はすばやく用意して、挨拶をした。
「マスター、お土産買ってきますね」と夕雨が言うと、マスターは笑いながら手を振ってくれる。
「楽しんできて」
夕雨の荷物を未嗣が持ってくれて、タクシーを呼んでくれた。駅まで移動する。未嗣の荷物は少ししかない。
「未嗣さんの鞄って、小さいですけど…」
「シャツ一枚と下着と靴下。あとノートパソコンだけで…。女の子は大変だね」
夕雨は自分の荷物を考えた。一応かわいいワンピースと二着と二日分の下着と、化粧用品。ヘアアイロンなんかは入っていないのだけれど、それだけでも大荷物になる。
「必要最低限の物しか入れてないのに…。あ、少しお菓子持ってきましたけど、後で食べませんか?」
未嗣が思わず吹き出した。それでいかに子供っぽいか夕雨は思い知らされて、恥ずかしくなる。
「お菓子、楽しみだな」と未嗣が言ってはくれたが、そのお愛想に夕雨は頰を膨らませた。
特急に乗ると、ターミナル駅で買ったお弁当を二人で食べる。しゅうまい弁当だ。夕雨は思わずにこにこしてしまう。お腹も空いていたのだが、電車の中で食べるお弁当は何だか特別な気分にしてくれる。しかも未嗣との旅行なので、余計に嬉しい。
「美味しそうに食べるね」
「だって…美味しいですよ」と口をモゴモゴさせながらなんとか言う。
冷たくて硬いご飯なのに、格別美味しく感じた。
食べ終えて、しばらくすると、未嗣が夕雨に謝って、仕事を少しさせて欲しいと言う。
「大丈夫ですか?」
「後少し仕事が残ってて」と未嗣はパソコンを開けた。
夕雨は窓際に座って外の景色を眺めていたが、いつの間にうつらうつらと眠ってしまって、未嗣にもたれていた。未嗣は安心仕切ったように眠る夕雨を時々見ながら、満たされた気持ちで仕事を片付けた。
「夕雨ちゃん。着いたよ。ここからタクシーで行くから…」と起こされた。
「はい」となんとか目を開けると目の前に未嗣の顔がある。
何か言葉を発する前に唇が軽く触れた。眠気が一気に吹き飛んで、目が覚めた。
「…未嗣さん。ここ、電車」
「まぁ、あんまり人いないから。起きた?」
今度からはさっと起きようと心に決めた。すっかり夜中に近い時間だが、電車から降りると空気が全然違っていた。天気が良ければ星も綺麗に見えるはずだ。
「今日は夜が遅いから駅近くのホテルに泊まって…明日朝からホームに行こうと思うんだ」
「はい」
歩いて五分くらいのところのかわいいペンションにチェックインした。夕雨はペンションも初めてなので、興味深く見てしまう。部屋はこじんまりとはしているか、かわいい壁紙でベッドは二つ並べられていた。
「はぁ、疲れた。未嗣さんはどっちのベッドがいいですか?」
「…どっちでも」
「じゃあ、窓際の方を使ってもいいですか?」と言って、夕雨は窓際のベッドに腰掛ける。
「夕雨ちゃん…。一緒に寝ないの?」
そう言われて、夕雨は固まった。
「あ…そう…ですね」
「冗談だよ。明日は早いし、今日は疲れてるから早めに寝よう」と言う。
夕雨は朝早くから起きてたし、確かに移動にも疲れている。すぐにシャワーを浴びて眠りたいところだった。
「じゃあ、シャワー先に使ってもいいですか?」
「どうぞ」と言って、未嗣はまたパソコンを開けた。
夕雨は歯磨きまでして、完全に寝る準備を整え、部屋に戻る。
「お先でした」と言って、窓際のベッドに潜った。
気持ち良すぎてすぐ寝てしまいそうになる。
「夕雨ちゃん、やっぱり一緒に…」
「未嗣さんも…シャワーしてください」と言って、すっぽり布団を被る。
夕雨はどきどきしていたが、いつの間にか眠ってしまったらしく気がつくと朝になっていた。勢いつけて起き上がると、未嗣は隣のベッドで寝ている。
「未嗣さん、ごめんなさい。寝てしまいました」と言って、体を揺すった。
未嗣が起きて、夕雨の手を引いてベッドに引き込んだ。
「ごめんなさい? じゃあ…今から」と言うと、キスをする。
「あ、でも約束の時間が」
「…確かに。老人は早いんだった」と未嗣はため息をつく。
洗面所で顔を洗うと軽く化粧をする。今日は一日雨なので夕雨は髪をポニーテールにして、薄い水色のシャツワンピースに着替えた。出てくると、未嗣も着替えを済ませていた。
「似合ってる」と未嗣に言われて、顔が赤くなる。
「レンタカー借りに行こう」
駅前のレンタカー屋で車を借りると途中の喫茶店でモーニングを食べることにする。
「空気も美味しいし、ご飯も美味しいですね」と夕雨は嬉しそうにパンを頬張る。
「うん。ここに来て…何か分かるといいんだけど」
「分からなくても楽しいです。知らない場所に二人で来るのって、なんだかワクワクします」
「じゃあ、よかった。今日は少しいいホテルを予約してて…晩御飯も美味しいレストランがついてるから」
普通に旅行だとしても嬉しかった。こんなに幸せでいいのかな…と思い、ふと亡くなった奥さんのことが
「…奥さんとも…旅行したかったですか?」
「…したかったね。思い出が…病院ばっかりだったから」
今でも病院の窓の四角く切り取られた空を思い出す。晴れていたのか、曇っていたのか、雨だったのか、その記憶はないが、唯一それが外の世界だった気がして、未嗣はつい視線をそこに逃してしまう。ベッドで寝たきりの妻を見るのが辛かったからだ。
「いいでんしょうか? 隣にるのが…私で」
「うん。ありがたいって思ってる」
夕雨はコーヒーを一口、口に入れる。山の水は澄んでいて、コーヒーの苦味がダイレクトに味わえる。苦味が強くて、よかったと思った。
未嗣が運転してたどり着いた老人ホームは今朝泊まったペンションより大きくて、豪華だった。まるで高級ホテルのような作りで、目を見張るばかりだ。コンシェルジュまでいる。受付で、名前を言って、約束があるというと、面会ルームに案内された。
「ドリンクはあちらです。セルフサービスとなっておりますので」と言われる。
綺麗で明るい面会ルームは座り心地のいい椅子と低いテーブルがいくつも置かれている。何もかも行き届いており、テーブルごとに飾られている花は生花だった。まるでホテルのロビーのようだった。しばらく待っていると、思ってた以上に健康そうな男性が現れた。老人と言っては失礼な気がしてしまうほど、おしゃれで、ポケットにはワイン色のチーフが覗いている。
「お待たせしました。大原渉です。遠いところをようこ…」と言いかけて、夕雨を見て驚いた顔をしている。
「初めまして。お電話でお話しさせて頂いた…三条未嗣です」
夕雨も横で名前を言って、頭を下げる。
「びっくりしました…似てますね」と夕雨に向かって大原は言った。
「似てるって、どなたに、ですか?」
「私の…祖母…大原ハナです。まぁ…写真でしか見たことないですけど…。今日はアルバムを」と言って、古そうなアルバムを取り出してテーブルの上に置いた。
アルバムは古いが手入れされていたのであろう。変色はしているが、綺麗に残っていた。
表紙に大原渉の指が触れられ、今、アルバムが開かれた。
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