第53話 破談
正雄が母の誘いを受けて、三条家のユキという女性と結婚を決めたと聞いて、清は驚いた。正雄は前の下宿先とは違う場所に部屋を借りていた。会いにいくと、かなりやつれた様子だった。
「本気か?」と清は正雄に聞いた。
「本気も何も…。君のお母さんが、前勤めていた新聞社まで来て、僕の消息を訪ねてきたんだから…断れないだろう」と窓にもたれるように座って話す。
「…三条家の婿養子になるのか?」
「まぁ、なんでもいいんだけどね」
「一体、どういう了見で結婚なんか」
「ちょうどいいかと思ってさ」
「ちょうどいい?」
「あぁ。相手の人、妊娠してるんだって」
「えぇ? それは誰の…」
「知らない。それで困ってるんだろう。だから僕の子としといたらちょうどいいさ、と思ったんだよ」
飄々とした口調で正雄はそう言う。結婚相手というのに、何の理想を求めないどころか、他人の子を妊娠した相手とするなんて、理解できなかった。
「母のことを気にしてるのなら、断ってくれたって構わないんだ」
「いや…。本当にちょうどいいって思ったんだよ。子供が作らなくても…もうできてるなんて」と本気か嘘か分からない口調だった。
「しかし…」
「君は幸せな結婚をしてくれ。僕もそうするから」
正雄に言われると、胸の奥がかきむしられたような気持ちになる。
「…それと…どうしてそんなにやつれてしまったんだ?」
「あぁ…しばらく…人を探して」と言って、咳をした。
「人? 恋人を探してるって聞いたけど…。その人は見つかったのか?」
咳をなんとか堪えて、正雄は見つからなかったと言った。いろんな救護所を三か月も回ったらしい。その間、ろくに食べることもしなかったようで、体力も落ちてるみたいだった。
「結婚するなら、もう少しマシな格好にならないと…」と思わず清は正雄を心配した。
「あぁ、そうだな。向こうから断れてしまうな」と笑った。
「少し何か持ってくるよ」
「すまないね」と言って、窓の外を見た。
その細くなった肩を見ながら、言うにこと欠いて、清は自分でも思いもしないことを言った。
「結婚…おめでとう」
ゆっくりと清の方を見て、微かに微笑んだ。
「ありがとう。君も、だ」
ハナのことを一切聞いてこず、結婚を祝ってくれる正雄と視線を合わすことができずに、横に逸らしてしまった。
「じゃあ…帰るよ」と清が言うと、正雄は立ちあがろうとしたが、少しまた咳き込んでしまった。
「嫌な風邪だ。どこかで貰ってきたのかも知れない」と正雄が呟く。
「医者に行ったのか」
「いや…」
「ぜひ言ってくれ。僕が紹介する」
「ありがたいね」
下まで見送ろうとする正雄を断って、清は車に乗った。清は拳で自分の太ももを叩いた。正雄の大きさに比べて、自分の小ささを知る。いや、それはもうずっと前から分かっていたことだった。
学生時代から清を立ててくれていたが、本当は正雄の方が暖かくて、大きな人間だということを。だからハナが惹かれたのも分かっていた。それなのに、自分は最後まで譲れなかった。
今さら何をしても彼に追いつくこともできない。それに正雄はいつだって、施しとも思えるような手の差し伸べ方をしても振り払うことはなかった。それすらも受け入れてくれて、清の自尊心を守ってくれていた。
(あいつだって…外交官目指してた。十分実力はあったのに…)
窓の外を眺める。正雄は大切な友人であって…一番苦手な存在だった。
(生まれも育ちも彼は少し不幸だった)
だからか人の気持ちに敏感で、優しかった。清にないものを正雄は持っていた。愛憎深いものを抑えることができない。なぜか悔しくて、悲しかった。
クリスマスパーティーのハナを送った帰り道、車の中でぼんやりと思い返す。
ハナが正雄の結婚を少し気にしていることも分かっていた。それなのに嫌な言い方をして…。つくづく自分が嫌になると清は窓の外を眺めた。なのに反射した自分の汚れた顔が映るので目を瞑る。
そして今までと同じように、年明けすぐに病院を手配して、正雄を診てもらった。
旧正月が近い頃だった。寒さが厳しい冬の日で、雪は降っていなかったが、池は氷が張っている。
「破談?」と言って、ハナは大きな目する。
不思議そうな顔に何を言えばいいのか、清は分からなかった。清の家で、ピアノのレッスンが終わった頃にハナに会った。部屋の外で辿々しいピアノの曲が流れているのを聞きながら、ハナを待ってる間、ずっと考えていた。可愛い音を響かせているハナは今から告げることにどんな反応をするのだろう。言うことが躊躇われるが告げなければいけないと決心をしていた。
「三条家から断られた…そうです」
「え? でも赤ちゃんは…」
「生まれてきたら、三条家で育てるそうですよ」
「…そう…ですか」
ハナは極力正雄について聞いてこないようにしているのが分かる。
「あいつ…結核になりましてね」
「え? けっ…か…く」
「結婚相手としては…難しいですからね。震災後の無理が祟ったようです」
明らかに動揺しつつも、何も言わないでおこうとしている健気なハナを見て、清は「会いに行きますか」と言った。
「…い…え。私…。あの…今日は…これで」と声が震えていた。
「分かりました。車を手配します。ガソリンを見てきますので…ゆっくりご準備ください」と言って、ハナを一人ピアノの部屋に残した。
もう日が沈むのが少しゆっくりになる季節だが、すぐに夕暮れになるだろう。清は少しだけハナが泣く時間を…わずかな夕暮れまでに作った。
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