第52話 夢と現実


 久しぶりに夢を見た。さわさわと草を揺らして心地いい風が吹く。夕雨はとっても幸せな気持ちで未嗣を見ている。未嗣はなぜか着物を着ていて、夕雨も着物を着ている。お互いに手を握り合って、ただそれだけなのに、とても幸せな気分でいた。言葉は何も交わしていない。ただ横にいて、幸せな気持ちを感じている…それだけだった。目が覚めてもしばらくはその満たされたような気持ちが残っていた。

 自分の部屋で、自分のベッドにいるのに、ふと未嗣の匂いがした。

 夕雨はアルバイトがあるので、急いで起きる。未嗣の家からだとゆっくりできるが、自分の家からだと朝ごはんを食べる時間がない。着替えて顔を洗って、整えるだけで出ていく時間だ。


「夕雨」と出かける時に母に声をかけられる。


「何?」


「週末は未嗣さんと旅行に行くんでしょ?」


「…うん」


「それまでは家に帰って来なさい。お父さんがちょっと」


「あ…。はい」と小さく返事をして家から出た。


 確かに一度泊まったら、外泊の敷居が低くなってしまうと両親も思うところがあったのかもしれない。未嗣の印象も悪くなったら大変だ、と夕雨は母の言うことを聞くことにした。


「行ってきまーす」


「行ってらっしゃい」と母は見送ってくれた。


 急いで駅に向かっている頃にはもう夢のことは忘れていた。




 昼過ぎに未嗣が店に来てくれた。背の高いシルエットを見ると、胸が小さく詰まる。少し悔しいことだけど、未嗣のことがどんどん好きになっていく。夕雨に笑いかけながら、目の前のカウンターに座ってくれる。マスターは店の外でタバコを吸っていた。


「いらっしゃいませ」


「こんにちは。コーヒーもらえる?」


「はい」と言って、水とおしぼりをカウンターに置いた。


「今日は来る?」


「それが…旅行までは外泊はダメだって言われてしまいました」


「そっか…。仕方ないね」


「ご飯と英語だけ…行こうかな」


「それはちょっと、僕が自信ないから」


「え?」


「家に帰す自信がない」と言って、横を向いた。


 耳が赤い。

 そう言われると、何だか恥ずかしくなって、夕雨はコーヒーを作ることに専念した。今日はちょっと緊張したので美味しく作れたのかよく分からない。コーヒーをコップに注ぐと目の前に置いた。


「お待たせしました」


「良い香りだね」と言ってくれる。


 窓際の客が席を立ったので、夕雨はレジに向かった。入れ替わりにマスターが入ってくる。マスターがお客さんと話している間に会計をする。良く来るお客さんなので、マスターは機嫌よく笑いながら、天気の話をしたりしていた。


「週末は台風が来るみたいですよ」とお客さんが言う。


「え?」と思わず声が出た。


「結構、大型らしいよ」と夕雨にも教えてくれた。


「そうなんですか」


「うん。どこかいくの?」


「ちょっと旅行に」


「行けるかなぁ」とお客さんはお釣りを受け取りながら言う。


「ありがとうございました」とマスターが言いながら、お客さんを見送った。


 夕雨はお客さんの座っていた席まで行って、コップを下げたり、テーブルを拭いたりする。折角の旅行がダメになるかもしれないと思うと、少しため息が出た。コップを持って戻る時に、未嗣に台風のことを告げた。


「そっか…。観光はできないかもね。でも状況によるけど、前のりした方が良いかもね。話を聞く約束はしてるし…」


「はい。それは絶対行きたいです…。あ…今日、久しぶりに夢を見たんですけど」


「どんな」


 言った先から綿飴のようにフワッと記憶が消えていく。


「幸せ…でした」


「え?」


「何だかとっても幸せっていう記憶が残ってて」


「幸せ?」


「‘はい。ものすごく…幸せな気持ちの夢でした。何をしたとか…さっぱりなんですけど…未嗣さんと一緒にいた? 気がするんですけど?」


「一緒にいて幸せだったら、嬉しいけどね」


「うーん。でも…未嗣さんでは…ないような? 未嗣さんのような?」と目の前の未嗣を見ながら首を傾げる。


「ではなかったら、困るんだけど」


「確かに…そうですよね。でも私も私じゃないような…」


 マスターが笑いながら「それ、前世の夢だったら…そういうことになるんじゃないの?」と言った。


 二人は思わずマスターの顔を見る。 


「仮説として…前世の夢を夕雨ちゃんが見てるとして、その夢は前世の二人が会ってたってことじゃないの?」と冷静に言う。


「あ…。そうかも知れません」


 そう言われると、納得できた。何だか心の底から幸せな気持ちになったからだ。


「二人が恋人になれたってことで、夕雨ちゃんと…未嗣君の前世が…幸せになったんじゃないの?」


 マスターはそう言って、何だか納得している。


「じゃあ…私は前世では…一緒にいられなかったってことですか?」


「さあねぇ」と言って、マスターはコーヒーゼリーを作り始めた。


 大原清の孫に会えば、何か分かるだろうか。台風が来ると言われているが、夕雨は絶対に行きたいと思った。


「私、ちょっと金曜の夜から出られるか、お母さんに聞いてみます」


「無理しないでね。僕だけでも…」


「いいえ。私も絶対に行きたいんです」


 行って、何か分かったとして、現実が何も変わることはないと思うが、夢の中のふわふわとはしているけれど、胸に残る切ない思いをすっきりしたいと思っている。ちょくちょく、夢で見ていたぼんやりとした風景が、未嗣に会った日からその夢を見なくなり、付き合って、初めて昨日はその夢を見た。それまでの風景とは違って、どこか郊外の風の通る場所で二人で黙って一緒にいただけという夢で、ただ身体中に多幸感が溢れていた。


「少し気になるんだけど、夢の中と、現実と…どっちが幸せだった?」と未嗣がわずかに眉間に皺を寄せて聞いてきた。


 夕雨はその顔を見て、今が一番幸せかも、と思って、笑った。

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