第51話 思い出に…
神戸から櫻子先輩がクリスマス前にこちらに来るというので、わくわくしていた。櫻子先輩のご実家もわずかながら被害を受けていて、ずっと心配で帰りたかったそうだ。せっかくの機会だから会わないかとお誘いを受けた。
櫻子先輩から頂いたリボンを髪に結ぶ。ハナはいそいそと櫻子先輩の家まで出かけることにした。手紙でやりとりはしていたが、こんなに早く会えるなんて思いもしなくて、嬉しくなる。街はまだ殺伐とした雰囲気もありながら、道路の脇に屋台が出ていたりする。寒い時にお汁粉屋台は美味しそうに思えた。寒くて、手に息を当てて歩く。久しぶりに一人で街を歩いている気がした。もちろん近所くらいは一人で歩いていたけれど。
清の家に行く時はいつも車で迎えにきてくれたし、帰る時は送ってくれた。
「噂でしょうが、いろんな人が隙を狙っているので気をつけてください」と清にも言われた。
震災で人の命も心も奪われたような気持ちになる。乗合バスに乗ると、少しだけホッとした。山手の方でハナは降りて、櫻子先輩の家を目指した。華族である櫻子先輩の家は立派で、大きい。それが立ち行かなくなるので、成金の後妻になったのだ。そう思うと、この大きな家を見ると、胸が詰まる。
「家のために…」とハナは呟いた。
大きな門をくぐり、玄関をノックしてから「ごめんください」と声をかける。
遠くで返事が聞こえると、小走りの音がして、櫻子が現れた。長かった髪の毛は肩で切られていて、ワンピースを着ている。
「ハナちゃん」と言って、櫻子先輩に抱きつかれた。
甘い薔薇のような匂いがした。
「先輩…」
「お元気そうでよかったわ」と言って、顔を見てくれる。
「櫻子先輩、髪の毛…」
「そうよ。今流行りのモダンガールよ」と言って、笑う。
「とっても似合ってます」と言って、ハナは少し涙が溢れそうになった。
「さぁ、入って。応接室に来て」と言って、ハナを誘導してくれた。
「お父様もお母様もお変わりなく?」とハナが聞く。
「二人ともやはり震災でショックだったみたいで。ご友人の方も…亡くされて」
「まぁ…」とハナは息を飲む。
「ハナちゃんの学校の友達はどう?」
「私の友達は幸い無事でしたが、クラスメイトの一人は…」
「そうなの…」と櫻子先輩はため息をついた。
先輩の友達は無事なのだろうか、と思ったが、せっかく会ったのにこんな暗い話ばかりはしたくなかった。応接室では神戸で人気のクッキーだと言って、ハナに食べさせてくれる。
「横浜みたいなところでね。外国の方々がたくさんいらっしゃって。私、通訳をしたりしてるの」
「さすが櫻子先輩です」
「ハナちゃん…。大丈夫? 結婚前の恋は…本当に良かったの?」
「えぇ。もう…お会いしてないです」
「私ね…。結婚してから思うの。しなければ良かったって。もちろん結婚してたからこそ、お会いできたのだけれど」
櫻子は夫の家にいる書生に特別な思いを抱いている。
「夫は…たくさん女性がいて…。でもそれももう…なんとも思わなくなって。でも結婚してる限りは鎖で繋がれてるようなものよ。私はお家のこともあったから、仕方がなかったのだけれど。何もないなら…一度きりの人生だから」と櫻子は言って、ハナの顔を見て、言葉を飲み込んだ。
ハナが微笑みながら涙を流していたからだ。
「ハナちゃん…」
「はい。あの方も…婚約者様も、困らせたくないのです。それに…もう…いい思い出なんです」
まだ思い出と呼べるほど、時間は流れていないが、ハナは思い出にしようと決めた。ささやかな時間だった。蕎麦屋に寄って、黒猫を正雄の部屋で撫でた記憶を遠くへ追いやる。ハナの覚悟を櫻子も理解して、そっと手を取った。
「きっとハナちゃんは幸せになるわ」
「…はい。きっと」
「私は…何の力にもなれないけれど、話を聞くから」
ハナは首を横に振って、「櫻子先輩にお会いできて…こんなに仲良くしてくださって…それだけでハナは幸せです」と言う。
二人はずっと手を握って、お互い、涙を流した。久しぶりに会ったというのに、泣いてばかりでは、と櫻子が歌い始めた。あの頃のように、放課後の学校で、帰り道で、二人はよく歌った。歌っている時はあの時に戻れる。何も怖いものもなくて、きらきらした輝く時間が広がっていると信じていたあの頃に。
お茶を頂き、あまり遅くなると帰るのが大変だというので、ハナは帰ることにした。
「また…お会いしましょうね」
「えぇ。ぜひ。お手紙書きます」とハナは言って、家を出た。
櫻子はハナが見えなくなるまで手を振ってくれた。遠く過ぎ去る青春を思って。
乗合いバスは多少混雑していた。ハナは車窓から街並みを見る。壊れた家はまだ多く、それでも復興をしつつあちこちで建設をしている。生きていればこそだと、あの時は誰もが命の大きさを感じた。
ハナもぼんやりとではあるが、何か人のためにできることはないだろうか、と思っていた。櫻子は自分の気持ちを抑えて神戸に嫁に行ったが、そこで通訳をしていると言う。それで暮らしているわけではないが、やはり櫻子は尊敬できる先輩だとハナは思う。キヨも生徒を取るようになったと聞いている。何か自分にもできることがあるのではないだろうか、と思いながら、バスに揺られていた。
陽が少しずつ短くなり、もう夕方の景色を町は見せていた。
クリスマスパーティをするというので、ハナは清の家に呼ばれた。清の父、母、姉がいて、清も含めてみんな洋装だった。ハナだけ和装で少し奇妙な気がしたが仕方がない。花嫁修行で覚えたテーブルマナーを活かす時がきたようだった。カトラリーは外側から使い、皿は持ち上げない、と習ったことを頭で復習していると、清がハナの着物を似合ってると褒めてくれた。
「ありがとうございます」とお礼を言いつつも、自分だけが少し違っているのが落ち着かなかった。
清の父が不況について話をしたり、地震の復興についてインフラ整備について清と話したりしているが、ハナにはさっぱり分からなくて、愛想笑いを浮かべながら、料理と格闘する。食べたのか食べてないのかさっぱりな気持ちになりながらもお腹は膨れていった。
「ハナさん」と清の姉に声をかけられる。
「はい」
「緊張したでしょう。デザートは気兼ねなく私とあちらでゆっくり食べましょう」と奥にあるテーブルに誘ってくれた。
「お心遣いありがとうございます」
「まぁ、そんな。いいのよ」
清の姉はどちらかというと父親似で、愛嬌のある顔立ちだった。ハナはソファを勧められて、座った。
「男ってどうしてあんな話してるのかしら?」と言って、ため息をつく。
ハナはいいとも悪いとも言えずに、曖昧に笑っていた。すると清の母がテーブルに来て、姉の隣に腰を下ろす。深いため息と共に、言葉を出した。
「まぁ、どうしましょう」
「どうかされたの?」
母はため息をつくと、小声で「三条さんのユキさん。結婚前なのに妊娠してしまったんですって」と言った。
「え? まぁ」と姉が小さく驚きの声を上げる。
ハナはその話も何も言えずに、曖昧に驚いた振りをした。
「お相手は?」と姉が聞く。
「それが…」と手で顔を覆って「山本様よ。清の…友人の」と言った。
「それって…お母様が紹介したって言ってなかった?」
「そうなのよ。だから…本当に困ってしまって」
「あらあら。どうしましょう」
「どうするもこうするも年が明けるや否や、さっさと結婚しなくてはいけないわよ」
二人が話していることがハナの耳を通り過ぎて、何も考えられなくなる。二人が何だかかんだと言っているのがガラスの向こうで見ているように遠く感じた。
「あ、ハナさん、ごめんなさいね。お話中に」と言って、母が気を遣ってくれるが、ハナはまた曖昧な笑顔を浮かべるだけだった。
正雄とユキという女性の間に子供ができた。ただそれだけのことなのに、ハナはショックを受ける。別にハナには関係ないことだが…、と思いながらも、ついぼんやりしてしまう。
「ハナさん、お疲れ?」と姉が聞く。
「少し緊張しまして」
「まぁ…いいのに。お洋服、いつか一緒に拵えましょうね」と優しく姉は言ってくれる。
「そんな…勿体無いです」
「そうよ。そろそろ用意しなくては…ね」と母も言った。
そう言って、母と姉は楽しそうに話をしていたが、ハナの頭には全く何も入って来なかった。
その夜、清に車で送ってもらいながらもハナはぼんやりしてしまう。
「疲れましたか」
「いえ。少し緊張してしまって。でもみなさん、とっても優しい方で…」
「そうですか。僕は姉と母にハナさんを取られた気分でした」と少し拗ねたように言ったので、ハナは思わず清を見た。
「そんな…」
「まぁ、仕方ないですね。家族になるのだから…」
その言葉を聞いて、年明けすぐにでも正雄が結婚することを思い出す。清は知っているのだろうか、と思いながらも、それをハナが聞くことで、また何か思わせてしまうかもしれない。
「…えぇ」と言って、ハナは微笑みで気持ちを隠した。
「そう言えば…正雄が結婚するそうです。子供も早々にできたそうで」
「え? あ。さっき、お母様がお話ししてくださいました」
「全く…困ったやつだなぁ」と清が窓の外を見て言った。
ハナはやっぱり何も言えずに、俯いた。
「…気になりますか?」
窓の外を見たまま、突然、清に言われて、ハナは言葉に詰まった。
「いえ…。あの…驚きましたけど…」
清はハナの方を向いて言った。
「あいつの子じゃありませんよ」
それが何を意味しているのか、ハナにはさっぱり分からなかった。清はにこりともしないままハナを見つめる。怖くて目を逸らしたかったが、ハナは清を見た。すると清の顔が緩んで、ハナに謝る。
「意地悪してすみません」
そう言われて、ハナは少し泣きたくなったので、怒って誤魔化した。
「本当です。意地悪です」
「いや、本当にすみません。ハナさんと…一緒にいれなかったから」
「これからずっと…一緒じゃないですか」と清に言うと、清が驚いたような、嬉しさが込み上げるような顔をする。
「…そう…でした」
ただ正雄のことについて、何も聞けないまま家に着いた。聞いたところでハナがどうすることもできないと思って、車を降りてため息をついた。忘れてしまえたらいいのに、とまだ本当は思い出にできていない自分にため息をつく。清の車が去っていくまで、ハナは星空を眺めた。
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