第50話 夜中のパンケーキ
未嗣は落ち着かない気持ちで夕雨が来るのを待っていた。まさか夕雨から言い出されるとは思ってもみなかった。掃除機をかけたり、仕事のメールを見たりしたが、何度も同じ文を読んでも少しも頭に入ってこないので、仕事はさっぱり進みそうにない。英文は突然アラビア語になったのかというくらい、訳せなくなった。
花束でも買っておこうか、それはそれで何だか恥ずかしい気がして、ただ時計をじっと眺めたりして、夕方になった。
夕雨は「今日は未嗣さんの家に泊まります」と素直に電話を入れてみた。
電話越しに母が固まったのが分かる。
「あのね。あの…しっかり…避妊だけは」と言われてしまって、夕雨の方が恥ずかしくなった。
コンビニで下着と避妊具と旅行用の化粧品を入れる。これをレジに持っていくのが恥ずかしい。お菓子と飲み物もカゴに入れてみたが、どうしたって恥ずかしくなる。知らない顔でレジに向かえばいいのだけれど、勇気が出ずにメッセージを送った。
「避妊具お持ちですか?」
そうメッセージを送ると、すぐに返事が来た。
「今、どこ?」
近くのコンビニにいると言うと、すぐに来てくれると言った。少し肩の荷が降りて、夕雨はため息をついた。新作スイーツを眺めていると、未嗣が店に入ってきた。
「夕雨ちゃん。ごめん。気を遣わせて」
「あ、いえ。あの…」
持っていたカゴごと取られて「先に出てて」と言われる。
替えの下着も入っているのに、と思ったがお言葉に甘えることにした。外で待っていると、すぐに未嗣が会計を済ませて出てきた。ちゃんとお菓子まで入っている。
「あ、お金払います」
「だから留学費用に貯めて」と言われて、手を引かれた。
マンションの前で「お腹空いてない?」と聞かれる。
「緊張で…今食べたら、戻しそうです」
未嗣は困ったような顔で「そっか」と言った。黙ったままエレベーターに乗り込んで、そのまま降りる。部屋に着くと、綺麗に片付けられた部屋にグラスが二つ並んでいた。
「夕雨ちゃん。あのね…そんなに無理に頑張らなくていいと思うんだ。こういうのって…無理してすることじゃないし」と言って、グラスに水を入れてくれる。
「でも…私…お母さんにも電話したし…コンビニも…頑張って…買えませんでしたけど。だから今日しないと、なんていうか、努力が無駄になった気がして」
顔を赤くしながら、一生懸命に話す夕雨が可愛くて、未嗣は頭を撫でた。
「ありがたいけど…。そんなに頑張ってすることでもないかな」
やんわりと拒否されて、夕雨は焦って、自分からキスをした。
「未嗣さんは…したくないですか?」
返事は無いまま、きつく抱きしめられて、キスをされた。背中に回された大きな手がゆっくりと撫でていく。夕雨も小さな手を未嗣の背中に這わせた。Tシャツの中に手が入り込んで、素肌を撫でられる。
「あ…」
「どうしたの?」
「汗…かいて。朝は…モーニングでバタバタしてたから」
「シャワー使う?」
「はい。もしよければ」と言うと、未嗣は笑って、体を離した。
タオルを持ってきてくれる。夕雨はお礼を言って、シャワーを使わせてもらうことになった。うっかり髪まで洗ってしまう。念入りに洗ってからでた。未嗣が用意してくれたTシャツと短パンを着てでる。もともともTシャツとジーパンだったから、そもそも色っぽくないが、さらに色気のない格好で何とも言えない気持ちになった。
「シャワーありがとうございました」
「じゃあ。僕も入ってくる」
「え?」
「え? って…」と笑いながら、ドライヤーを渡してくれる。
髪の毛を乾かしながら、待っていると、未嗣も出てきた。
「ベッドに行こっか」と言われて、夕雨は少し固まった。
「ここでするの? 体…痛くなると思うけど」と言われて、慌てて立ち上がる。
未嗣のベッドに入るのは初めてだったけれど、新しいシーツにされているようだった。夕雨はどきどきしながら、ベッドの中に入る。すぐに未嗣の手が伸びて引き寄せられた。甘い口づけを受けて、夕雨はどきどきしていると、未嗣は少し顔を離して、笑う。
「夕雨ちゃん…。ありがとう」
「ありがとう? ですか?」
「色々頑張ってくれて」
「…はい。頑張りました」と言って、未嗣の胸に頭をつけた。
そして頭を撫でてくれる。
「僕も…どうしていいか分からないけど…、頑張るね」
未嗣が言った通り、優しく優しく抱いてくれた。ベッドに入った時は、まだ日が明るかったのに、すっかり部屋の中は暗くなっていた。お互いの匂いがまざっていくような感覚。湿度が上がったまま、ずっとキスをくれる。
「未嗣さん…」
「何?」
「幸せ…でしたか?」
「うん。今も…幸せだよ。夕雨ちゃんは? 大丈夫」
「…頑張りました」
目の淵に涙の跡が見える。そこに口づけして、未嗣は謝った。
「でも…未嗣さんに触れられて、今も嬉しいです」と言って、夕雨は抱きついた。
背中を優しく往復する手を感じながら、夕雨は少し眠りについた。
目が覚めると未嗣の顔がすぐそこにある。夕雨は思わず手で頬を触った。未嗣がゆっくり目を開ける。
「起きた?」
「はい。喉渇きました」
「そうだね。お水持ってこようか?」
「起きます。お腹も空きましたし」と言って、体を起こす。未嗣に借りたシャツだけ着て、夕雨はベッドから出た。
「大丈夫?」と未嗣もシャツを着て出てくる。
「ちょっと…変な感じですけど」
「お水入れるから、座ってて」と言って、未嗣が冷蔵庫から冷えた水を取り出す。
夕雨は椅子に座って、水が入っていくグラスを眺める。
「夕雨ちゃん。何食べたい?」と言いながらグラスを出してくれる。
「お腹空いてるので…なんでもいいです」と言いながら水を飲む。
未嗣は冷凍庫を開けて「ホットケーキ…食べる?」と聞いた。
「え?」
予想外のものが出てきたので、思わず聞き返した。
「ホットケーキはないか…。他にあるのは…」
「ホットケーキ食べたいです。まさか未嗣さんの家にそんなものがあるなんて思いもしなかったから」と夕雨は未嗣の横に急いだ。
冷凍されているホットケーキでレンジで温めて食べられるお手軽なものだった。
「美味しそう」と言って夕雨が喜ぶので、未嗣はすぐにレンジに入れる。
「でもどうして、未嗣さんがホットケーキなんて買ったんですか?」
「たまに甘いものが食べたくなるから…買ってたんだけど、良かった。レンジで温めてから、バターを溶かしたフライパンで少し焼いても美味しいんだけど、そうする?」
正直お腹が空いていたから、すぐにでも食べたかったが、夕雨は我慢して、未嗣のおすすめ方法で食べることにした。
「コーヒー淹れましょうか? 少しは上達してるんですよ?」と夕雨は言うが、簡易のパックのものしかなくて、実力を存分に発揮することはできなかった。
バターが溶けていい匂いが漂う。その中にレンジで温められたホットケーキが入れられる。甘い匂いとバターの濃厚な香りが漂った。
「はぁ。美味しそう」と夕雨はたまらずフライパンを覗き込んだ。
ホットケーキの縁が焼けてだんだんと濃い色になっている。
「もういいんじゃないですか?」と夕雨が言うと、未嗣は夕雨にキスをして「もう少し」と言う。
キスをされて、夕雨は黙って目を大きく開けた。さっきも散々キスをしたのに、今更とは思うけれど、やはり恥ずかしい。
「そういうところが手慣れてるって思うんです」と夕雨は言って、大人しくコーヒーをテーブルに運んだ。
しばらくするといい匂いのホットケーキが焼かれて、その上にメープルシロップがたっぷりかけられた。
「生クリームがあるといいんだけど」と言われる。
「あぁ、早く食べたいです」
追いバターを上に乗せられる。
「夕雨ちゃん待って」と突然の待ての指示が出る。
未嗣が一口サイズに切って「はい、あーん」と言われた。照れる。
真夜中のホットケーキは甘くて、濃厚な香りがする。未嗣が何度も食べさせようとするので、夕雨は未嗣にも食べてもらおうとホットケーキを切った。
「夕雨ちゃん…」
「はい? あ、ちょっと待っててくださいね。シロップにつけますから」と切ったホットケーキをシロップにつける。
ホットケーキを未嗣に運ぶと、それを咥えて、未嗣がキスをしようとする。ホットケーキの端が夕雨の唇についた。食べないわけにはいかないので、食べるとそこからキスが始まる。甘くて、バターの香りが口に広がる。背中に未嗣の手が回って、逃げられない。それでも夕雨がなんとか顔を離すと、また同じことをしようとする。
「おいしくない?」
「美味しいですけど、一枚くらい大人しく食べさせてください」と夕雨は不満を言った。
言ってから、ちょっと落ち込んでいる未嗣を見て、かわいそうに思ったけれど、とりあえず、大人しくなったので、その間にホットケーキを食べた。食べ終えて、満足してから、立ち上がって、大人しくなっている未嗣に夕雨からキスをした。
「ご馳走様でした」
「夕雨ちゃん」
名前を呼ばれて、優しく抱きしめられた。夕雨は未嗣の心臓の音を聞きながら、目を閉じてその温かさを感じた。
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