第47話 その日


 その日が来た。


 大正十二年九月一日。


 その日は風が強い日だった。ハナは始業式のために学校に向かい、久しぶりの友達に会い、陽焼けした友人を見て驚いたりした。家族旅行をした人もいたが、ハナはずっと家にいたのでそこまで日焼けはしていなかった。この日は授業がなく、始業式の後は先生の諸注意を聞いて、提出物などを出すと下校になる。


 いつもの四人で帰りながら夏休みの報告をする。


「テニスをしたら陽に焼けましたの」と結婚相手がいる小柄な友人が言う。


 どうやら相手に誘われて、テニスをしたのだそうだ。楽しそうに話す友人を見て、ハナは安堵のため息をつく。彼女の話を聞いて、きっと自分も清と仲良くなれるはずだ、と思った。


 そんな話をしていると、大柄な子が小さく体をかがめて「キスした?」と聞く。


 一瞬の沈黙の後、彼女が頷いたのを見ると、他の三人が声を上げる。その後は質問攻めにあっていた。ハナは清に唇が軽く触れるキスをされたことを思い出して、顔を赤くするが、周りの子たちも顔を赤くしながらも話を聞いていた。


「それが…驚いたんですけど」と遠慮がちに話し始めたが、その話にみんなが驚いた。


「え? 舌ですって?」


「それでどうするんです?」


「口の中を割り入ってくるので驚きました」


 昼下がりの街角で、突然、声を上げた女学生たちは途端にお通夜のような沈黙になった。


「…どうしてそのようなことを?」と本好きの女学生も首を傾げる。


「さぁ?」と口づけをされた本人も分からないようだった。


「…その方、間違われたのでは?」と大柄な友人が心配する。


「少し…勉強しなければいけないかもですわ」とハナが言うと、一斉にみんながハナを見た。


「もしやハナさん…」と大柄の友人が疑わしそうな顔で見てくる。


「私は婚約者様が不在でしたので、ずっとお家で過ごしておりました」と慌てて、つまらない報告をする。


 それで納得されて、結局、口づけをした本人にまた会話が戻った。


「それで、それは良かったのですか?」


「…奇妙でしたわ」


 確かにそれぞれが想像するだけで奇妙なことだと納得した。でも誰も正解が分からず、首を捻るばかりだ。


「それ以上は…」と好奇心旺盛な大柄の友人が聞く。


「ありませんわ」と慌てて小柄の友人が否定した。


 お互い顔を赤くして、無言で分かれ道に来た。先に大柄の子と小柄の子が別れる。きっとまた細かく質問攻めに合うのだろうとハナは思いながら手を振った。

 本好きの彼女は何も聞いてこないが、ハナは正雄とはもう会えなくなり、きっぱりと気持ちを切り替えることに決めた、と言う。


「そう…なの? ハナさん」


「えぇ。あの方は…友情を大切にされてらっしゃるから…。私が壊すわけにも」


「お辛いでしょう?」


「そんな…。私は…」と言って、地面に視線を落とす。


 蒸し暑く強い風がビューっと噴き上がる。


「今日は風が強いですね」と友人が空を見上げた。


「えぇ…。本当に。台風が来るのかしら?」と手で髪を押さえながら、ハナも空を見上げる。


 それ以上は話さずに、二人は別れる。


「ではまた来週」


「えぇ。また来週。ごきげんよう」


 その日は土曜だったので、明日は会えなかった。始業式なのでいつもの土曜日より早く家に着く。玄関に一郎の靴もあったので、帰ってきているのだろう。


「ただいま戻りました」と言って家に戻る。


 昼食の準備をしているだろうと、台所へ向かった。


「お帰りなさいまし。今日は早く帰ってくると思いましてね。もうあらかた終わりましたよ。あとは漬物を切ろうかと」とウメさんは言った。


「では、私が」とハナは水くみ場で手を洗う。

 

 ポンプ式の水汲み場が庭の端っこにある。そこに行くと母が野菜を洗っていた。


「あぁ、ハナ…帰ってきたのね。あのね、もうすぐお昼なんだけど…ちょっとこの野菜を小川さんのところへお届けに行ってもらえないかしら? 以前ね…とうもろこしを頂いたのよ。お返しにはならないだろうけど」


 母が友達のところで少し土地を借りて作っているきゅうりだった。


「はい。すぐに行って参ります」とハナは洗い立てのきゅうりを布巾に包んだ。


 カゴに入れて、家を出た。友人が言う、キスのことを考えながら、路地をしばらく歩いていた時だった、突然、大地が揺れた。


 十一時五十八分。


 関東大震災発生。最初の地震が起こった。後、数分後に同じ規模の地震が二回起こる。昼時という時間と運悪く接近していた台風のせいで大規模火災が発生。火は48時間燃え続けた。木造建築が燃え、逃げ出す時に持ち出した家財道具にも火が移り、避難した先でも火災が襲う。火災旋風も起こり、多くの人の命が失われた。


 揺れは立っていられないほどで、ハナは地面に座り込む。メリメリという音がしたかと思うとすぐ横の家がゆっくりと傾く。

 ハナは四つん這いのままでなんとか広い場所まで進もうとしたが、うまく動けない。転がっているかごときゅうりをなぜか拾い集める。揺れが収まった時に立ち上がって、大通りまで逃げ出た。

 肩で息をして、助かったと思い、家族が心配になり、家に戻ろうとした時、また激しい揺れに襲われる。

 その場で蹲り、さっきまでいた路地がゆっくり家に押しつぶされるのを見た。どこに逃げればいいのか、ハナは分からなくなる。そこらにいる人がみんな頭を抱えて、地面に臥したままだ。ハナは揺れが収まっても動けず、ただきゅうりのかごだけを抱いて、その場に疼くまる。

 通りを見ると、車も止まって、その付近で人が放り出されているような形で転がっている。何か燃えているような匂いがする。

 パチパチ音も聞こえた。ハナは慌てて、どこか広い場所へ…と思ったが足が竦んで動けない。するとまた大地を突き上げるような揺れがあった。不気味な音がしたかと思うと、道が割れる。もういよいよダメだと目を瞑る。いろんな音が聞こえる。すぐそばで何かが崩れてくるような音もした。土埃と煙とで前が見えない。

 その場で蹲るしかなかった。


 どれくらい経ったのだろう、顔をあげると、人々が慌てて外へ飛び出し、ハナの横を駆け抜けていく。一体、どこへいけばいいのだろう、とハナは思いながら呆然としていた。

 荷台を急いで運ぶ男が横をスレスレに通る。このままでは踏み潰されると思いながらも人が増えていくにつれて、ハナは動けなくなる。


「あんた、逃げなさい」と声をかけてくれる人もいたが、その人も精一杯で、ハナの手を引いてはくれない。


 パチパチとしていた火が勢いよく燃え始めた。強い風が火を煽る。腰が抜けた状態でその火を眺めた。風が火の粉を撒き散らしていく。倒れた家に火が飛び移っていった。


「ハナさん」と声をかけられると同時に体を引き上げられる。


「怪我してないですか?」


 抱き抱えるように立たせてくれたのは正雄だった。


「…どう…して」


「心配だから…お宅に向かおうとしたら…あなたがここで。このままだと火が回るのも時間の問題です。早く」とハナを追い立てる。


「でも…家族が…」


「逃げてるはずです。きっと会えます」


「でも…」


 人が逃げ惑う中、ハナは正雄にキスをされた。唇を離すと、唖然とするハナに


「あなたを死なせるわけにはいかないから」と言う。


 ハナはもう黙って、正雄についていくしかなかった。きゅうりのかごを手に、広い公園を目指して二人で歩く。


「下町の方はもうだめだ」と口々に叫ぶのを聞いて、そちらの方を見る。煙がもうもうと湧き上がり、空の半分を埋めている。


「あ…あ」と思わずハナは声を漏らす。


「ハナさん宅は大丈夫でしょう。少し高台になってますし」と正雄が冷静に言う。


 そうであって欲しいが、下町の人たちも無事でいて欲しいとハナは思った。荷車に家財道具を詰めて押している人もいて、道は混雑し始めた。


 広い公園はもう人でいっぱいだった。もしかしたらハナの家族もここに逃げてきているかもしれない、と思って、ハナはあたりを見回す。しかし恐ろしい人混みで、この場にいたとしても探すのは無理そうだった。どこか座れそうなところはもう人でいっぱいで、二人で並んで立つ。


「…正雄さん。あの…きゅうりをお召し上がりになりますか?」と言って、ハナはかごのきゅうりを見せる。


「お腹の足しにはならないかもしれませんが」と言って、布巾で少し拭いて渡した。


「ありがたくいただきます」


 正雄は昼も食べていない上に、走ってきたので喉も乾いていた。ポリポリときゅうりを齧る音を聞きながら、ハナは家族が来ないか目を凝らした。


 遠くの方に煙が見える。火災に巻き込まれていないだろうか、と不安になる。特にウメは高齢で逃げ足もそんなに早くないだろう。若いハナでさえ腰を抜かしたというのだから。


「あの…正雄さん。私、一度家に戻ってみます。ウメさんが心配で」


「家の方ですか? 今は行かない方が…」


「でも…」


「どうしても行くと言うなら、そのきゅうりを全部食べてしまいましょう。荷物は少ない方がいいですから」と正雄が言うので、二人できゅうりを食べることにした。


 ポリポリと食べながら、さっきのキスを思い返す。舌が入ってくることはなかった。一体、何が正解なのか分からない。


「まだきゅうりありますか?」


「えぇ。あと二本」


 お腹が空いていたので、すぐに食べれた。食べ終えると、「じゃあ…行きますか。でも…入れ違いになるかもしれない」と正雄が言う。


 人の間を抜って、公園から外に出る。逃げてくる人たちに逆らうように動くので、なかなか進まない。その時、後ろから声がした。


「ハナちゃん」と声をかけられると、近所の人だった。


「お母さんが探してらしたわよ。お使い頼んでしまったって」


「あ…。母を見たんですか?」


「えぇ。向こうのほうに。一郎くんもウメさんも無事よ」


「良かった…」と思うと、ハナは緊張が解けて涙が溢れた。


 力が抜けて、しゃがみそうになるのを正雄が抱き寄せる。安心して、ハナは体を預けて泣いた。邪魔になるだろうと、ゆっくり方向を変えて、正雄はハナに「行きますか?」と聞いた。


「ありがとうございます」


「良かったです。みなさん、ご無事で」


「あの…キヨさんは?」


「えぇ。大丈夫ですよ」


 それを聞いて、ほっとした。


「ソノさんは?」


 正雄は答えなかった。すぐにハナのところに来たようだった。


「先生…。ごめんなさい」


「どうして謝るんですか?」


「どうしてか…分かりませんけれど、私のために骨を折ってくださって」


「言ったでしょう? あなたを死なせるわけにはいけない」


 人混みの中、手をつないで歩く。正雄の横顔を見て、こんなに近くにいるのに、遠く感じる。


「それは…大原様の婚約者だから…」


 呟くように聞く。


「頼まれましたからね。あなたのことを…」


「そう…ですか」

 

 キスも、手を繋いでることも、清のため…。分かっていた言葉だけれど、ハナは切なくなる。この手の温かさも、優しい匂いも、柔らかいキスも、全て遠くなる。


「でも愛してますから」


 正雄の言葉に顔をあげる。この人混みが、この非常事態が理性を壊す。


「あなたを…心から愛してます。だから…死なせるわけにはいかない」


 その言葉でハナは今が一番幸せで、一番悲しい時だと思った。繋がれた手をぎゅっと握り返す。きっとこの恋は実ることはない。そう思いながら、ハナは自分の気持ちを伝えることぐらいは許されるのではないか、と思った。


「先生…。私の初恋です。一生忘れません」


「そうですか…。ありがたいですね」


 砂埃が舞う。風も強く、言葉が途切れそうになる。


「ずっと…ずっと好きです」とハナは言う。


 この非常事態だったら行方不明者として駆け落ちできるかもしれない、そんな考えが、ふとハナの中によぎったが、正雄の重荷になるであろうと想像できた。


「どうか…お幸せになってください」と言われる。


「…先生も」


 人混みを抜けたところにハナの母がいた。一郎は正雄を見て驚いた。


「正雄兄さん」と駆け寄る。


「よく頑張ったね」と一郎の頭を撫でると、一郎は泣き出した。


 小さいながらも一郎は今まで我慢していたのだろう。ウメさんも座り込んでいるが、元気そうに見える。


「お父様に連絡がつきましたけど…とても帰れる状況じゃないらしくて…。家は瓦が落ちて…。でも寝れると思うのよ。燃えてなければ」と母は冷静にハナに話した。


「あの…正雄さんに助けて頂いて」


「あぁ。本当にありがとうございます。まさかお使いに行かせて…こんなことになるとは思いませんで」


「いえいえ。おかげで…きゅうりを頂きました。大変美味しかったです」


「あら。まぁ、そうですか。…良かったら、うちに泊まってください。なんとか寝れますから」


「いえ…。僕はこれで…」と頭を下げてどこかへ行こうとする。


 ソノを探しに行くかもしれない。そう思うと、ハナは止められなかった。


「ちょっとお待ちください」とウメが言う。


 荷物から竹の皮に包んだおにぎりを取り出した。どうやらお昼用におにぎりを作っていたらしく、それを持って来ていたようだった。


「これを…。お嬢さんを助けてくださってありがとうございます」と言って、ウメが頭を下げる。


「ありがとうございます」と正雄も頭を下げた。


「では…」と言うと、おにぎりを袂に入れて、そしてそこにあったものを取り出す。


 キャラメルの箱だった。


「ハナさんにこれを」と言って、箱ごと渡してくれた。


 いつも一つずつだったのに、今回は箱でくれた。もう会わないということだろう。ハナは両手で受けとった。


「先生…」


「では。元気で」


「先生もお体に気をつけて…」


 今度、会う時は清と結婚しているだろう、とハナは何となくそんな気がした。




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