第48話 関係前進


 アルバイトで働いてはいるけれど、留学費用を貯めようと思うと喫茶店だけでは一年働いても貯まらない。朝から雨が降っていて、お客も少ない。夕雨は練習のために自分用のコーヒーを用意していた。


「んー」と思いながら、コーヒーを淹れる。


「どうしたの?」とマスターが夕雨の唸り声を聞いて、理由を聞いた。


「え? あ、大丈夫です」


「あ、ほら、お湯が溢れてる…」


「あ…。ごめんなさい」


「やっぱり考え事してたでしょ」とマスターに指摘される。


「…はい。あの…留学費用を考えてました」


 そう言われてると、なぜ夕雨が大丈夫かと言ったのか理解できた。


「ごめんね。アルバイト代安くて」


「いえ。あの…海外に行くのには色々方法があって。ワーキングホリデーのビザとかあとは奨学金とか…」と言いながら吹きこぼれたコーヒーを拭き取る。


「そうか。夕雨ちゃん…辞めたら寂しくなるね」


 夕雨はマスターを見た。マスターも寂しく思ってくれるなんて、思ってもみなくて何だか夕雨も寂しくなった。


「でもすぐに辞めたりなんかしないですから」


「そっか。まぁ、良かった」


「はい。しばらくはこちらでお世話になります」


 今日は雨だった。雨の日はまるで金魚鉢にいるような気持ちになる。お客さんの足は遠のいて、自分が世界から切り離されてここにいるような気持ちだ。未嗣が初めて来た日も雨だった。ドアを見ると、タイミング良く開いて、未嗣が入ってきた。


「いらっしゃいませ」と夕雨が言う。


「今日は静かでいいね」と言って、カウンターに座る。


「ちょっと出てくるから、夕雨ちゃん、店番してて」とマスターがわざわざ雨の中、出掛けた。


「気を遣わせちゃったかな」と未嗣が聞く。


「少し。でも本当に買い物あったんです。洗剤とか切れてたし。でも面倒臭くて…。晴れた日は忙しいし」


「そっか。じゃあ、ホット一つ」


 今度は失敗しないように、美味しくなりますようにと時間をかけてゆっくり淹れた。


「お待たせしました」


「ありがとう。…大原さんのこと分かったよ」


「え?」


 未嗣が言うには大原清は外交官だったので、割とすぐに調べがついたらしい。そしてその息子も外務省で働いていたが、鬼籍の人だという。ただ大原清の孫がいて、会社経営をしていたらしいが、今は息子に譲って老人ホームにいるらしい。


「老人ホーム?」


「まぁ、でも豪華な感じのところで悠々自適にされてるらしくて。それで会いに行かせてもらえることになって…」


「え? そうなんですか?」


「夕雨ちゃんも行く?」


「…はい。行って…みたい。行きたいです」


(会いたい)


 なぜか強くそう思った。


「…少し遠いんだけど。日帰りは厳しくて」


「泊まりですか?」


「うん。嫌じゃなければ」


「え? いいですよ。いつですか? マスターに休みを聞いてみます」


「夕雨ちゃん、いいの? 本当に?」


 夕雨が未嗣を見て、何を言っているのだろうか、と思って考える。泊まりがけで行くことに何か意味が…と考えてみると思い当たって息を飲む。


(初めての夜だ)と顔が熱くなる。


「…あ。いつ…ですか?」


 未嗣はスマホを取り出して、次の土日で行こうかと思ってると言った。何の気なしに未嗣は言ってるが、夕雨はどうしていいのか分からなくて、無駄に冷蔵庫を開けて中を見たりする。


「都合…悪い?」


「土日? ですね。はい。分かりました」と言って、今度は冷凍庫を開ける。


「どうしたの?」


 急にソワソワしている夕雨に未嗣が心配そうに聞く。


「マスターに聞かなくていいの?」


「あ、基本、日曜日はお休みで…土曜日は…周りの会社がお休みなんで、休みをもらいやすいです。はい」


「夕雨ちゃんが嫌なら…別に日帰りでも行けなくないんだけど。すごくいいところに施設があるから…ついでに僕たちも旅行できたらって思っただけなんだけど」


「あ、そう。そうですよね」と言いながら、洗い物をガチャガチャ音を立てて洗ってしまう。


「…ちょっと、緊張してる?」


「ちょっとじゃないです」と俯く。


「あの…そんなに警戒しなくても。嫌がることはしないし…」


 そう言われたら今まで未嗣の家に何度も入っている。その気になればいつでもできたのに、キスくらいで、いつもそれ以上は何もせずに帰してくれていた。それはそれで夕雨は不思議には思っていたが、自分が子供っぽいからだろうかと思っていた。恋人になった実感も薄いのはそのせいかもしれない、と夕雨は感じていた。


「嫌がること…は、その…嫌じゃ…ないっていうか。ちょっと…それは…旅行の…前に…お願いします」


 夕雨が言いにくいことを一生懸命に生真面目に言うので、未嗣は流石に困った。


「あの…もしお仕事がお手隙でしたら…今日…お伺いします」


「え?」


 ボールとザルをゴシゴシ強く洗って、水を流す。


(旅行前に済ませておこう。できれば今日)と夕雨は思った。


 今日でなければ、こんな話を自分からまた切り出さなければいけなくなる。それにもし旅行当日になったら、そのことが気になってしまって、気もそぞろのまま大原清の孫に会うことになる。聞きたい話もそれどころじゃなくなって、せっかく行くのに話が頭に入らなさそうだ。それに月のものの関係もある。意外と機会は限られているのだ。


「お忙しいですか?」と意を決して再び聞く。


「仕事は…いくらでも都合はつくけど…夕雨ちゃんは大丈夫なの?」


「明日はお休みなので。アルバイト終わったら…いきます」


 未嗣の方は少しも見れずに、まな板を洗って、ペーパーナプキンで拭く。


「夕雨ちゃん?」


「はい。ご迷惑じゃなければ今日、お泊まりさせてください」と拭いたまな板で顔を半分隠しながら言った。


 夕雨の勢いに押されて、未嗣は何も言えず、取り敢えず、家で待つことにした。


 金魚鉢の中にいて、平和でのんびりした午後だと思っていたのに、夕雨は突然、外の世界へ放り出されて困ってしまう金魚のような気持ちになる。息をするのにはどうしたらいいのか、誰か教えて欲しいと思った。


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